2話
「おまたせしました」
東京でも都心に近い繁華街の一角。古ぼけた小さなビルの三階にあるというモルペウスの事務所というところに通されたあたしは、あらわれた男に軽く怯んだ。
もうすっかり季節は秋だというのに真っ黒に日焼けした肌。
緩くオールバックにした髪が一筋額にかかる。
目の色はシベリアンハスキーもびっくりの青。って、この眼の色、日本人で似合う人ってどのぐらいいるんだろうか。
にっこりわらうと真っ白な歯がきらりと光る。
首元にみえるのは極太の金色のネックレス。
一目でカタギじゃないことがわかる。まさに夜の御商売といった容姿の男がにこにこと微笑みながら、向かいの黒いデザイナーズチェアに腰を下ろした。
「私は店長兼オーナーをしております一条京也と申します」
そう言って男は夜仕様と思わせるラメ入りの細身の黒のスーツの内ポケットから名刺を取り出した。名刺には「彼氏貸出屋モルペウス、店長兼オーナー、一条京也」とでかでかとやたらと綺麗な文字で印刷されていた。
「あ、あの、あたし、名刺持ってなくて」
「いえ、大丈夫です」
一条さんはにっこり笑うと、名刺が入っていたケースを戻す。
「こちらは初めていらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「結構です。ではまず、簡単にこちらの紹介をさせていただきますね」
そういうと、一条さんはチラシを目の前に広げた。
彼氏貸出屋「モルペウス」。
その名の通り彼氏を「貸し出し」ている会社だ。方法はいたってシンプル。店に登録されている「彼氏」から好みの彼を選ぶだけ。料金は一時間単に。初回は特別に通常価格から千円引き。
もし、彼をつれて遊園地や食事に行きたい場合は、全額客が負担する。
この場合、泊まりや複数人もレンタルできるがその場合はプラスアルファ。別料金となっているらしい。
「って、あの泊まりって……」
「ええ。旅行にも対応しておりますよ」
にっこり笑う一条さんに、あたしは顔がひきつるのがわかった。
「……あの、りょ、旅行ってあの……やっぱり、アレってことですか?」
やっぱりそうなのか。
泊まるっていっても本当にただ「泊まる」ってことはないだろう。自分だってそこそこいろんなことをやってきた。それがどういう意味かなんてわかるつもりだ。
思わず顔をしかめるあたしに、一条さんは日焼けした頬をわずかに緩める。
「申し訳ございません。ご説明が少し足りなかったようです」
一条さんは申し訳なさそうに眉をさげ、チラシの一番下。何やら細かい文字が連なる部分を指さした。
「当店では性的サービス等は一切をお断りさせていただいております。こちらからそのような行為を強要することは一切ございませんので、ぜひ安心してご利用いただきたく思います」
「あ、ああ、なるほど」
他のサイトでは堂々とそういうのもやっていると書いてあったが、この店は違うらしい。 他の店ではそれらしいことがにおわせてあったが、どうなんだろうと尋ねると一条さんは細く整えた眉を困ったように寄せ「当店では法にのっとり、健全な営業をさせていたただいておりますので」と言った。
法、ね。まあ、そうはいっても同業他社の噂はなんとなく聞いているんだろう。
ふむふむと頷いていると、一条さんがでは、と切り出した。
「では少々おたずねしてよろしいでしょうか?」
「はい。どうぞ」
では、と一条さんは切り出す。
「こちらにいらした理由を教えていただけますでしょうか?」
「え、理由、ですか?」
ぎくりとして男を見ると、彼は安心させるようにちらりと白い歯を見せた。
「ご安心ください。こちらもまあ、こういった仕事をしております。秘密はきっちり守らせていただきます。ですから」
ね、っと微笑む一条さんの、きらりと光る歯がまぶしい。
その光にやられた、というわけではないが、どうせここまで来たのだ。
あたしは腹をくくって今までの顛末をもそもそと話しだした。
仕事のこと、彼氏のこと、美代のこと、家のこと。
どうせ隠すことじゃない。もしも、彼氏代理を頼むとしたら相手にはわかってもらわないと困る。だからあたしは本当に正直に、何も隠すことなく全てを話した。
少しは引かれるかと思ったが、一条さんは特に表情をかえることなく、言葉も挟むこともなかった。
ようやくすべてを話し終えると、一条さんはタイミングよくアイスティーを出してくれた。柑橘系のフレーバーティーらしい。ふわりとオレンジの匂いがした。
「なるほど。では、ご予約の件ですがいかがなさいますか?」
「えっと……」
断るなら今だ。
今ならまだ間に合う。引き返せる。だが――ここで断ったとして、他のいい方法など思いつかない。
数秒の沈黙の後、あたしはゆっくりと口をひらいた。
「お願い、します」
頭をさげるあたしの耳に、一条さんのはいという小さな声が聞こえた。
「では日程ですが」
「明日はダメ、ですか?」
「明日ですか?」
「ダ、ダメなら、明後日でも、早ければ早いほどいいです! だから」
こうなったらさっさと終わらせたい。時間が経てば経つほど、悪くなるような気がしたからだ。
勢い込むあたしに、驚いたように目を開いた一条さんはふっと目じりを緩めた。
「大丈夫ですよ。ただ、急なことなので担当はこちらにお任せとなってしまいますが、よろしいでしょうか?」
選べるかと思っていたあたしは、一条さんの言葉に戸惑った。
だが、どうせ選ぼうにもわからないことだらけなのだ。それに、別に楽しむためじゃない。この窮地をしのぐだけだ。
力強くうなずくと、一条さんはすっとクリップボードに挟んだ紙を差し出した。
「では、会員登録をお願いいたします。あと、申し訳ございません。登録には身分証明が必要になりますので、何かお持ちになっていらっしゃいますでしょうか」
「車の免許証でもいいですか?」
「結構です」
免許証を差し出すと、男は胸ポケットからキャップつきの太めのペンを取り出した。
艶光する黒いペンは見るからに高そうで、自分が愛用している百均のボールペンとはまったく違う。とにかく傷をつけてはいかんといつもなら乱雑に空けるキャップも、丁寧に横に置き、あたしはクリップボードを下敷きに空欄をうめていく。
名前、住所、電話番号、あれば携帯電話も。生年月日に年齢。職業欄。ここで一度ペンが止まった。
つい三日前までは会社員と書いていたそこに、あたしは無職と書きこんだ。少しだけ切なくなった。それからメールアドレスを埋め、そして
「趣味?」
「あ、あればで結構ですよ。あと好きな物とか、嫌いなもの。今興味があるものとかありましたらお願いします」
「……あの、どうしてですか?」
首をかしげると、男はくすり、と笑った。
「アンケートのようなものです。この商売、やはり流行に敏感でないとやっていけませんから」
「ああ……」
なるほど。確かにそうかもしれない。
今、はやり物とかをしっておけば話題にだってなるだろう。
とはいえ、あたしには趣味らしい趣味などない。適当に空欄を埋め、あたしは一条さんにボードごと返した。
一条さんは書かれたものをざっと見てから、また別の紙を差し出した。そちらはどうやらスケジュールのようだった。
「大まかで結構ですので、どこに行くとか、どういったことをしたいとか希望があればこちらにご記入いただけますか?」
「したいこと?」
「はい。例えば遊園地に行きたいとか。映画を見たいとか。具体的な場所やシチュエーションがあればあらかじめおっしゃってください。たとえば明日は誕生日だとか。お客様の場合ですと旅行となりますので、目的地や宿泊場所ですね。この場合、かかる実費はお客様負担となりますがよろしいでしょうか?」
あたしは頷き、差し出された紙にペンを走らせた。
スケジュールといっても簡単なものだ。実家に帰っておしまい。特に問題が無ければ明日の夕方までにはこっちに戻ってこられる計算だ。
さっくり書き終えると、いつの間に用意していたのか一条さんは白いプラスティックカードを差し出した。
「お客様の会員証です。裏にお客様の番号、そしてお名前があります。ご利用の際には必ずこちらをご用意ください」
「わかりました」
受け取ったカードの表には店名が、裏には一条さんの言った通り番号と名前が入っていた。それを財布のカード入れに差し込みながら、あたしはふと疑問にぶつかった。
「あの、お金はいつ払ったらいいんでしょうか?」
「ああ、それでしたら最後に現金でお願いします」
「わかりました」
会員カードをしまった財布をバッグに放り込み、あたしは静かに立ちあがった。
「じゃあ、明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。ああ、待ち合わせと時間は後ほどメールのほうへご連絡させていただきます」
きらきらと輝く白い歯に見送られ、あたしは再び街に戻った。
あたりは夕暮にそまり、仕事帰りのサラリーマンが通りすぎる。東京でも一二をあらそう繁華街とも会って日が傾くにつれ、これから店に出勤するといった様子の人たちが増えて行く。
それらが入り混じった通りを、押されるように歩きながら、あたしはちらりと振り返った。
ビルとビルの間に挟まれた古ぼけた小さな建物。
先ほどまでいた三階の部屋は、窓にブラインドがかかりここからでは中をうかがうことはできなかった。
店から連絡が入ったのはその日の夜だった。
待ち合わせ場所は事務所のある繁華街にほど近い駅だ。都内でも一二を争う乗降客数の駅だ。そこの南口改札前に午後三時。目印は黒のセルフレームメガネ。
って、そんな東京にいたら十人中五人ぐらいはひっかかりそうだが。
とにかく向こうが声をかけるから改札近くにいてほしいとメールには書かれていた。
ちらりと不安がよぎったものの、もう戻ることはできない。
了解のメールを返すと、そのまま布団にもぐりこんだ。
「……どんな人がくるのかなぁ」
やはり一条のようないかにもホストといった感じの人がくるのだろうか。
金色に近い茶髪にこれでもかとエアーをいれた髪。どこかのゲームキャラのような重力に反した髪型、肌は小麦色。シベリアンハスキーみたいな青いカラコン。
これはこれで別の問題が発生しそうな気がする。
いやいや、もしかしたらあまりに驚きすぎて結婚とはいわなくなるかもしれない。
ウシシ、と自分に都合の良いことを考えながら、あたしは静かに眠りの中へと落ちて行った。
翌日、朝のうちに母に家に戻ると連絡をし、待ち合わせよりも少し前にあたしはあの駅の改札にむかった。
やはり平日の昼間だというのに改札前は人でごったがえしていた。
時間をみると、待ち合わせにはまだ少し時間があった。
荷物をかかえたまま、あたしは改札から少し離れた柱の陰に身をひそめる。
一体どんな人がくるのだろうか。
繁華街に接しているせいか、まだ日が高いのに夜の香りを漂わせた人が時折通りすぎる。そのたびにはっとするが、未だに一人として足を止める人はいなかった。
そんなことを幾度繰り返しただろうか。
約束の時間がすぎても「それらしい」人はどこにもいない。
改札前にいるのは営業帰りらしいサラリーマン、これから遊びに行くといった格好の男の子、そして大学生だろうか。ラフな格好をした男性ぐらいだ。
――騙された?
ふいによぎったその考えに、体が小さく震えた。
考えてみればあの店、怪しいことこの上ないではないか。
サイトも事務所もたしかに立派だった。まるでどこかの会社の一室のように、すっきりとしてシンプルで。
でも、だからこそ怪しいということにはならないだろうか。
そもそもあそこにいはオーナーであるという一条しかいなかった。
他の人はおろか、写真すらもない。
あたしは荷物を抱えたまま、崩れるようにしゃがみこんだ。
考えれば考えるほど、騙されたんだーとしか思えなかった。
「最悪……」
普段の自分なら、あんな怪しげなサイト見ることもしなかっただろう。
それが、どれほど自分自身が混乱しているか証明しているようで、情けないやら、腹立たしいやらでじわりと涙が浮かんだ。
だが、その涙がこぼれることはなかった。
目の前に、あらわれた黒のレザーシューズのせいで。
ふと、顔をあげたあたしの眼に飛び込んできたのは、ダメージ加工が施された黒のデニム。次いでグレイのコットンパーカー、白いシャツに、スクウェアタイプの
「黒のセルフレーム眼鏡……」
ぽつりとつぶやいたあたしに、彼はふっと笑みをうかべた。
「……浅川晴美さん?」
緩い癖のある髪をワックスで散らしたヘアスタイルに、黒ぶち眼鏡をかけた青年の問いに、あたしは小さく頷く。と、彼はほっとしたように息を吐いた。
「よかった。改札前にいなかったから何かあったのかと思った」
「ご、ごめんなさい……あの、あなたは……」
「ああ」
彼はデニムのポケットから名刺を取り出す。
そこに書かれていたのは
「葛城純、さん?」
「そう、よろしく」
純は手を差し出した。一条とは違い、日焼けしてないその腕には黒の頑丈そうな腕時計がみえた。
おずおずと彼の手を握ると、彼は再び笑う。
その瞬間、何かわからないが彼をどこかで見たようなそんな気がした。
具体的な場所はわからない。けど、あたしはこの人をどこかで見たことがある。そう思った。じいと見つめていると、彼はわずかに首をかしげた。
「ん? 何? オーナーから何かいわれた?」
「あ、い、いえ……そうじゃなくて」
ふるふると頭をふり、立ち上がる。
「えっと、あの……葛城さんが今日、一緒に行ってくださるっていう?」
「ああ」
純は握っていた手をそっと離す。
「よろしく。えっと、今回は一泊ということでいいのかな?」
「は、はいっ」
声が上ずる。純はくすりと笑った。
「あ、もしかして緊張してるとか?」
「え、ええ、まあ」
当たり前だろ、という言葉を飲み込む。
笑い顔がぎこちなくなっていないことをいのりつつ、あたしは小さく頷いた。純はそうだよなぁと納得したように呟いた。
その顔は普通の、それこそどこにでもいるような青年だった。
これが貸出彼氏、というものなのだろうか。
予想していた夜の職業の気配はまるでない。不思議そうに見つめていると、純はちらりと笑いながら肩からかけていた革のショルダーバッグに手をやった。
「まあ、とにかく明日までよろしく。えーっと……名前、何て呼んだらいいのかな? 晴美ちゃん? それとも」
――浅川さん?
彼の言葉に、はっとする。
この声。このトーン。一気に記憶があふれ出す。
「ん?」
きょとんとする彼を、あたしはじいと見つめる。
そうだ。どうりで彼を見たことがあると思った。昔はそう、眼鏡は黒じゃなくてリムレスフレームだった。目もとはあまり変わっていない。
いや、あの時はこんな笑い方はしなかった。いつもむっすりとしていて、笑ってもどこか怒っているようにみえた。言い方だってもっと横柄な感じで偉そうだった。
「どうした?」
怪訝そうにみる彼にあたしは頭をふり、ゆっくりと口をひらく。
「晴美でいいよ、井上くん」
「……っ」
彼の眼が大きく見開いた。
浮かべていた笑みがさあと水で流されるように消え、奥から不審げさもあらわにした表情が現れた。そう、これだ。
やはり彼だ。
かつて同じ高校に通い、そして生徒会長で、あたしと美代の間を引き裂いた事件の当事者。
「久しぶり、……井上、一哉くん」