1話
まずい。
困った。
進退極まった。
今のあたしの状況を言い表すとしたらまさにこれ、だろう。
いや、ゼンモンのトラ、コウモンのオオカミか。
とにかく今のあたしの状況はまさにがけっぷち。
何故、ここまで困っているのかというとすべては三日前にさかのぼる。
あたしは浅川晴美、24歳。
大学に進学と同時に東京から車で三時間半ほどかかる地元から一人、こっちに出てきた。
学部は国文。
好きな物をやりたくて選んだ学部だけど、就職なると……。まあ、正直有利とはいえなかった。厳しくつめたい就職戦線。次々と倒れて行く同級生。その中で、あたしは幸運にも都内の会社に正社員として就職することができた。
といっても会社は小さくて、給料はスズメの涙ほど。
ボーナスだって毎年出るんだか出ないんだかわからないようなところだったけど、それでも同僚は良い人ばかりだったし、仕事だって嫌じゃなかった。
あたしを雇ってくれた社長は二代目。
会社を作った先代はというと、八十はとっくに超えているのに、未だに社長を小僧扱い。小僧といっても今の社長は五十歳をとっくに超えているんだけどね。
まあ、子はいくつになっても子どもなのか。それとも彼自身が心配性なのかはしらないが、会社に毎日のようにやってきては社長や社員にむかって文句ばかりいっていた。
文句の内容は毎度同じ。
彼の過去の栄光だ。
その当時、作れば作るだけ売れた時代だったらしい。当時を知る人によれば、今では考えられないほど日本中がすごい状態だったらしい。
話し半分に聞いても、ものすごい時代だったんだなぁということだけはわかる。だが、それは過去の話であって、今は違う。
あたしからしたら、申し訳ないが、先代は過去の栄光にすがっているようにしか思えなかった。それは社員の誰も同じ思いだったと思う。
それぐらい彼の話はリアリティがなかった。
だが、社長にはそうでもなかったらしい。
先代が文句を言うたびに、社長はとても疲れたような顔をしていた。
入社当時、あまり良いとはいえなかった二人の関係が、今年になって一気に悪化したのは当然といえば当然の結果だろう。と、同時に会社の雰囲気も悪くなった。
会社にはガラの悪い人が出入りしはじめ、険しい顔をした銀行の人もひんぱんにやってくるようになった。
取引先からおかしなウワサをきいたこともあった。
たかがウワサだと無視することのできない空気が、会社には漂い始めていた。
だから、三日前いつも通り会社に行ったときに、そこがまるで泥棒にでもあったかのように荒らされていた時ああ、やっぱりと思った。
社長が有り金全部もって、夜逃げをしたのだ。
先代の驚きようはそれはもうすさまじいものがあった。
まさか自分の子に騙され、逃げられるなど夢にも思っていなかったのだろう。
混乱する彼の前にあらわれたのは、銀行、取引先、そしてお金を借りていたであろうガラの悪い人たちだった。そこからのことはあまり思い出したくない。
罵声。
怒号。
人の声がここまで恐ろしいものだとは思わなかった。
たださえでもすごい有様だった会社は、そこからは目も当てられない状況になった。換金できそうなものは根こそぎ持っていかれた。
一気に老けこんでしまった先代の横で、あたしたちも信じられないといった表情で立ち尽くしていた。
社長が持って逃げたのは、あたしたちに払うはずの給料もふくまれていたのだ。
そう、あたしたちもある意味被害者だった。
もちろん、あたしたちに給料なんて払ってもらえるわけもない。
あたしはその足でハローワークへいき、手続きをおえるとようやくほっとできた。
当面の生活はなんとかなる。
それに、明日は久しぶりの彼氏とのデートだった。
付き合って半年。まあ、慣れてきたせいか最近はそれほどドキドキしなくなかったなぁ、とは思ったけど、それでも久しぶりに会えるのは楽しみだった。
何しろ家にいてもどうせ落ち込むだけだ。
誰かと話しているほうがずっといい。
そう思っていたあたしを待ち構えていたのは、彼とのラブラブな時間ではなかった。
デートの約束は夕方六時。
いつもなら仕事が終わってちょうど良い時間だったが、先日のこともあってあたしは自分の部屋の中で長すぎる時間を持て余していた。
かといって外に出る元気もないし、食欲もない。
だったらテレビでもと思うが、それすらやる気がおきない。
ただゴロゴロとベッドの上で転がりながら、ひたすら時間が過ぎて行くのをまった。
それがどのぐらい続いた頃だろう。
ああ、先週の今頃は午後の仕事を始めた頃だなーと考えていたあたしの耳に、チャカチャカとにぎやかな携帯の着信音が飛び込んできた。
「……あれ? タカシじゃん……」
タカシは去年、学生時代の友人の紹介で知り合った。
仕事は中堅メーカーの営業。外回りが多いせいか、変わった時間に連絡してくることもざらだった。
あたしはというと仕事中は携帯の電源を切っていることがほとんどだった。タカシもそれを分かっていて、留守電かもしくは着信履歴だけ残そうというつもりだったのだろう。
携帯に出たあたしに、タカシは驚いたようにうわっと声をあげた。
「なんだよ、ビビらせんなよ」
「ビビらせるって……そっちが電話してきたんじゃん」
タカシの声は、あまり機嫌が良いとはいえなかった。
外面は死ぬほど良かったが、付き合ってみてあれ? と思うことが結構あった。
まあ、それでも、一緒にいると楽しかった。
だから、この時もなんか仕事で嫌なことがあったんだろうなー、ぐらいにしか思っていなかった。
「で、どうかしたの?」
「あー、……つか、お前、なんで電話でれてんの? 仕事は?」
「あ、休み。で、どうかしたの? 何あった?」
昨日のことを話そうかとおもったけど、でも今のタカシには言わないほうがいいかなってちょっと思った。だから咄嗟に嘘をついた。
タカシはというと、そんなことまるで気にしていないようだった。
ちょっと焦っているというか、予想外のことに苛立っているように思えた。
「あったっつーかさ……、まあ、うん」
「どうしたの? 仕事のこと?」
「違う」
タカシはふうと息を吐いた。そして一気にまくしたてはじめた。
「今日会って直接言うつもりだったから丁度いいか……。あのさ、お前、オレとわかれてくんない?」
一瞬意味がわからなかった。
きょとんとするあたしの耳に、タカシのいらついた声が飛び込んできた。
「なあ、聞いてんのかよ」
「あ、うん……わかれるって、どうして?」
「は?」
タカシはちょっと驚いたように声をあげた。
「どうしてって……いちいち説明しなきゃダメなのかよ」
「そりゃそうでしょ」
昨日今日という関係じゃない。
たしかにここ最近、あれっと思うことはあったけど、それはたまたま仕事のストレスだろうな、ぐらいにしか思っていなかった。
この前のデートのときは楽しかったし、うまくいっていると思っていた。
だから今日も楽しみにしてたのに。
だが、あたしの気持ちとは裏腹に、携帯の向こうから聞こえてくるタカシの声は、心底面倒くさいようだった。
「じゃあはっきり言うわ。オレ、他に好きな人ができた。だから別れるから」
「は?」
ますます意味がわからない。
あたしは携帯をもったまま首をふった。
「ちょ、ちょっと待って、あの、好きな人ができたの?」
「そーだよ。悪い、もう次の営業行かないと。じゃ、そういうことだから」
それだけをいうとタカシは電話を切った。
ツーツーというビジー音だけが空しく耳にこだまする。それっきりだった。携帯をもったまま、あたしはその日一日部屋にいた。
もしかしたらタカシの悪い冗談かもしれないと思った。
以前も一度、別れるといわれたことがあった。付き合って半年。丁度年末ぐらいの頃だった。意味が分からないまま、あたしは年を越した。
だが、その翌日。タカシから冗談だよ、なんだよー本気にしたか? と能天気な電話をもらった。タカシ流のジョークだそうだ。
あたしにはその手の冗談は、冗談にはならなかったのだが、なんだかそこで怒るのは「野暮」な気がした。だから笑ってスルーした。
けど、今回ばかりはどうも様子が違う。
まんじりとしないまま夜を越したが、朝になってもタカシからは連絡はなかった。
八時をすぎてから、タカシに電話をかけたが予想通りというべきかつながることはなかった。着信拒否をされた。メールも届かなかった。
この時ようやく彼の言ったことが本当のことだとわかった。
返ってきたメールと同じ画面に、三日前に届いたタカシのメールがあった。
デートの確認のメールだった。にっこりわらった熊がハートを飛ばしている絵文字がチカチカと点滅していた。
仕事がなくなった翌日、あたしは恋人を失った。
まあ、恋人といってもものすごく好きだったかと聞かれると、イマイチ自信がない。
タカシは確かに見た目はよかった。
面白かったし、ノリもよかった。
流行りの場所を良く知っていて楽しいことが大好きだった。
けど、今考えるとおかしなことが沢山あった。
ふいに連絡をしてもつながらないことが多かったし、休みの日も仕事が入ることも多かった。忙しい、のが口癖のわりに、あたしに対しては妙に疑り深いところがあった。
特に男がらみは執拗なまでに嫌がった。その辺りはうすうす別の女がいたからかな、と思っている。
自分がしているとなると、まわりも同じようにみえてくるのだろう。
そうなるとすうと冷めてくるから不思議なものだ。
とはいえ、傷つかないといったらウソになる。
仕事も、恋人も無くしたあたしは、この世で一番……とまではいかなくとも、かなりの不幸な女だとおもっていた。
だが、本当の不幸はこれからだった。
日が落ちると同時にあたしはベッドにもぐりこんだ。
最初は興奮しすぎて眠れないかとおもったが、ここ数日睡眠不足だったこともあって横になるや否やあっという間に眠ってしまった。
夢もみず昏々と眠ったあたしが目を覚ましたのは翌朝のことだった。
何かの音が耳をつんざく。
目覚ましのアラームかと思いきや、どうもそうではない。
ぼんやりとしたままチャカチャカと陽気な音楽が鳴りひびく。意識がはっきりしてくにつれ、それが携帯の着信音だと気がついた。
タカシかも。
不覚にも最初におもったのはそれだった。
悪い冗談だよ。そういって笑ってくれると思った。
だが、携帯から聞こえてきたのはタカシではなかった。
「あら、寝てた?」
一瞬誰だか分らなかった。しなだれかかるような鼻にかかる甘い声。その声を聞いた瞬間、あたしははっとした。
「……美代?」
高校のクラスメイトで、当時一番仲が良かった友達だった。
当時あたしは弱小野球部のマネージャーとして生徒会や他の部とガチでやり合うようなかわいくない奴だった。それに比べて彼女はかわいくて、他校にも知られるほどだった。
まるで正反対の二人だったが、一緒にいるととにかく楽しかった。ただしゃべっているだけであっという間に時間が過ぎた。
親友だとおもっていた。
だけど、ある日。美代が好きだった奴が、あたしに告白してきたことで関係はあっけなく壊れた。
あたしはそいつのことはなんとも思っていなかった。いや、それどころか天敵にちかい存在だった。
そういっても、彼女は取り合ってくれなかった。
彼女があたしにいった突き刺すような言葉と、鋭い眼は今でもわすれることはない。
そのまま卒業を迎えてしまい、美代と今日までまともに話したことはなかった。
それがどうして今になって。
ぽかんとするあたしに、彼女は再びうふふ、と笑った。
「どうしたの? っていうか、なんであたしの番号知ってるの?」
「なんでって」
美代は学生の時のようなはしゃいだような笑い声をあげた。
「ちょっとね。うふふ、聞いちゃった」
「……誰から」
「まあ、いいじゃん。あたしと晴美の仲じゃん」
ふふっと笑う彼女に、あたしはむっつりと眉をひそめた。どうせ同級生あたりが飲んでいてぼろっと漏らしたのだろう。
大半が良い奴だけど、中には軽い奴も多い。
まあ、どうせたいしたことじゃないだろう。そう思ったのがそもそもの間違いだった。最初に感じた彼女に対する違和感をあたしは信じるべきだった。
「で、何? 何か用があったからかけてきたんでしょ?」
「あら、用がなかったらかけちゃいけない?」
「それは……」
あたしは思わず黙りこんだ。美代はざらりとする笑い声をあげた。
「ねえ、知ってる? 里香、結婚するんだって。相手はなんと」
「上野くんでしょ?」
上野くんはサッカー部の元キャプテン。あたしがいた野球部と熾烈なグラウンド争奪戦をくりひろげてきた相手だ。ちなみに里香はサッカー部のマネージャー。
同じマネージャーでもあたしとは雲泥の差。
かわいらしくて、小さくて。ごついサッカー部員の間をくるくる走りまわっている姿が今でも目に浮かぶ。そこそこ知り合いだったあたしの元に結婚式の案内が届いたのは先月のことだ。
あたしの答えに、美代は一瞬声をつまらせた。
「なあんだ、知ってたんだぁ……残念、驚かせようとおもったんだけど」
「里香から連絡貰ってた」
そういうと美代はまたしてもへえと返した。
「あたしは昨日知ったの。だから晴美に教えてあげようって思ったの」
「そっか。わざわざありがとう。皆は元気?」
「うん、元気。昨日、久しぶりに飲んだんだんだけど、相変わらずだったよ」
「そっかー」
「みんな、晴美のこと気にしていたよ。こっちに全然戻っていないんだって?」
美代の声は、高校の時の――告白騒ぎが起きる前のままだった。
だから、一瞬期待してしまった。
もしかしたらまたあの時見たいに戻れるかも、と。だが、違った。
美代は先日あったという飲み会の話しを終えると、唐突に声のトーンを変えた。
「ね、晴美って彼氏いるの?」
「へ?」
予想外の問いにあたしは素っ頓狂な声をあげた。
「な、何、突然、どうしたのよ」
「え? そう? だって、晴美ってさ学生のときも彼氏なんかいらないっていってたでしょ? まだそうなのかなって思って。ねえ、どうなの? やっぱりまだずっと一人?」
声に挑発めいた色が滲んでいるのがわかり、あたしの中にあった気持ちが一気にしぼむのがわかった。
「……なんで?」
「えー、だって皆も気にしてたからさぁ」
ふふっと笑う声に、あたしはぎゅっと目をつむった。
「そう? じゃあ、気にしないで、あたしなら大丈夫だっていっておいてよ」
「え? それってどういう」
「だから」
あたしは一気に面倒くさくなった。髪をかきあげ、投げるように言った。
「彼氏ぐらいいるっていってんの」
「え……っ」
美代は一瞬声をつまらせた。だが、すぐさまくすくすと笑いだした。
「またまた、見栄はっちゃって」
「見栄って……」
「大丈夫だって! 別に彼氏がいないぐらい、おかしいことじゃないってば」
「だから、いるっていってんでしょ」
瞬間、あたしはキレた。
そこから先はもう完全に売り言葉に買い言葉だった。
何があったのかしらないが、美代は晴美が一人ということに執拗なまでにこだわった。最後のほうはあちらも完全に意固地になっていたとしか思えなかった。
「そう、じゃあ、彼氏をつれてきてよ。いるんでしょ?」
「わかった」
そういうと、携帯の向こうで勝ち誇ったような笑みをもらした。
「ふふ、じゃあ楽しみに待ってるわね」
そういうと美代はぶちり、と通話を終わらせた。
あたしは持っていた携帯を放り投げ、そのままベッドに倒れ込んだ。
最悪な気分だった。
美代は完全にあたしを打ち負かそうとしているように思えた。そう、あの告白事件のあともしばらくそうだった。
あの時も思った。彼女にとってもしかしたら重要なのは告白されたことじゃないのではないか、と。
告白してきた相手は当時の生徒会長だった。
まあ、あたしにとっては弱小野球部をなんとか潰そうとする体制側で、まさに天敵以外なにものでもなかったのだが。
それでも一応、彼は学校一の秀才で、顔もよくて、陸上部でインターハイに出るほどだった。そんな学校一のイケメンがあたしに告白したことが、彼女にとって許せないことだったんじゃないだろうか。
――どうして! どうして私じゃなくて晴美なのよ!
あの言葉こそ彼女のまごう事なき本心だったんだろう。
ベッドに大の字に寝ころんだまま、あたしは大きなため息をついた。
今まで神様なんて信じたことはなかったけど、今回ばかりは思う。神様もなかなかやってくれる。仕事、彼氏、さらには学生時代の友人。
「……なんなのよ、もう」
ここまでくると完全に呪われているとしか思えなかった。
だが、呪いはここで終わらなかった。なんと美代はあたしのでたらめな発言をそのまま実家にぶちまけてくれたのだ。
翌日朝イチでかかってきた電話で、母のその一言にあたしは卒倒するかと思った。
「な……なんで、それを」
「あら、美代ちゃんがわざわざ連絡してくれたのよ、彼氏ができたって。ねえ、もしかしてあんた、結婚とか考えてるの?」
弾むような母の言葉に、あたしは心の中で盛大に舌打ちをした。
誰に聞かれても、一番母にだけは聞かれたくなかった。なにしろ彼女は、とにかく、まあ、物事を大きく取る人だからだ。
アザができたというと、彼女の中では何がどうなっているのかしらないが骨折したとかわっている。
軽く咳をしただけで、病院にかつぎこむ。
心配性というか、なんというか。
美代も余計なことをしてくれたものだ。
喉元まででかかったその言葉を、無理やり飲み下す。
「……結婚って、そんなこと」
「そんなこととは何よ。お父さんがあんたのことどれだけ心配してるかわからないわけ? 大体、あんた仕事がどーとか言ってなかなかこっちに帰ってこないし、心配するでしょうが! で、どうなの? それよりもあんた、いつ帰ってくるの! 彼氏ってのはどんな人なの? ちゃんと紹介してくれるんでしょうね! 晴美? 聞いてる? ねえ、もしもし!」
叫ぶ母を残し、あたしは携帯をブチ切ると、それを思いっきり放り投げた。
予想はしていた。
あの美代がこのままにしておくはずがない、と。
実際、あの事件の後、あることないこといろんな噂をふりまいてくれた。おかげでかなり迷惑した。未だにあたしから連絡しないのもこのせいでもある。
けどまさか、この年になってまでこんなことで実家まで巻き込んでくるとは思いもしなかった。せいぜい学生時代の友人どまりだと思っていたあたしにとっては、まさに予想外の展開だった。
そもそも友人ぐらいに噂をながされたって、こっちは東京。
ほっとくつもりだった。
どうせ噂なんてたかがしれている。向こうに帰ったとしても会うかどうかもわからないあいてだ。
だが、親となると話は別だ。
美代はあたしの親の性格を良く知っている。母がこの話に絶対食いつくだろうとおもって話したことは火を見るよりあきらかだった。
「あー……どうしよう……」
あの母のことだ。このまま放っておいてくれるはずもない。
たださえでもケッコン、ケッコンとうるさくなりはじめた矢先のことだった。放っておけばさらに被害は拡大し、結果取り返しのつかないことになるのは明白だった。
下手をしたらここに押しかけられる。
あたしは全身から血の気がひくのがわかった。
「あああ……」
がっくりと肩をおとし、あたしはその場にしゃがみこんだ。
なんでこうなったんだろう。一週間前までは全部順調だったのに、ここ三日でドミノ倒しのようにバタバタと状況が変わっていってしまった。
今や平穏な暮らしは見る影もない。
「……ハァ」
ため息ならいくらでも出るというのに、この危機を脱するアイデアはまったく出て来ない。
正直、二日前に別れた……というか、一方的に切られたタカシがいてくれたらと思ってしまった。タカシがいたらとりあえずこの場はどうにかなるのに。
あたしは部屋の隅に放り投げた携帯を見る。
けれど、あのタカシのことだ。もうあたしの電話番号は着信拒否、メルアドだって変えているだろう。タカシの勤めている会社は知っているが、さすがにそこまで頭の血管はキレてない。
じゃあ、男友達はと考えるがそれもダメ。
タカシと付き合うようになってから、あいつはとにかくあたしが他の男につながるのを嫌がった。自分は「同僚」だの「同級生」だの「妹の友達」だのと飲みにいっていたのに。東京に出てきてからわずかにつながっていた大学の友人やサークル仲間も切られ、今さら連絡を取ろうにも彼らがあたしを覚えているかどうか。それぐらい希薄な関係の人間に、実家にいる間だけ「恋人のフリしてくれ」なんて言えるわけがない。
では無視するか。
それも出来そうにもない。
考えは堂々巡り。答えは出ない。
あたしは頭をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら、とりあえず放り投げた携帯を取った。自分で考えていても良い解決方法がでないなら、相談するしかない。そう思って画面を見ると、何かの拍子でネットにつながってしまったらしくどこかのサイトが表示されていた。
どうやらそこは質問サイトのようだった。
匿名で質問をすると、これまた匿名で答えが返ってくる。くだらないものから、これをネットで質問するんだ、と驚くような重いものまで多種多様な質問がずらりとならんでいた。その中に、ふと目に飛び込んできた文字があった。
――彼氏貸出屋
彼氏貸出って、図書館とか、レンタルビデオじゃあるまいし。彼氏を貸し出す? どういうことだ?
うさんくさいな、と思いながらも気がつけばあたしは、ネットで「彼氏貸出屋」を調べていた。
だが、表示されたのは案の定というべきか、やっぱりというべきか。とにかく見るからに怪しげなものばかり。出会い系とどこが違うんだとツッコミを入れたくなるようなものばかりだ。まあ、そうだなろうなと適当に流し読みしていたあたしは、四つ目のサイトをクリックした。
ここもまた出会い系だろうと予想していたが、出てきたのは他とは少しばかり違っていた。目がチカチカするような配色も、むずがゆくなる文言もない。まるで企業サイトと勘違いしそうなほど飾り気のないシンプルなサイト。そこに優美な装飾がほどこされたフォントで「モルペウス」と書かれていた。
――理想の彼氏、お貸しいたします。相談は無料。お気軽にどうぞ
そうこれがあたしと「モルペウス」との出会いだった。