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彼氏、貸します  作者: 蒼野理人
CASE 3.菅原カオル
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3話

「聞くけどさ、もし君がお姉さんと同じ年だったら桜井さんは君を選んだと思う?」

「……っ」


 そんなことなってみなきゃわからないでしょ!

 そもそもそんな比較、実際なってみなきゃわからないではないか。そう叫びたかった。

 だが、発したはずの声は喉にひっかかり言葉としての形にはならなかった。かわって出てきたのは頼りない吐息だけ。

 こわばっていた体から力がぬける。固く握りしめた拳はだらりと垂れ下がり、その手がベルベット張りのソファを叩いた。


「……そんなこと」


 声は予想以上に弱弱しく、自分のことながら思わず笑いだしそうになった。

 だが、出てきたのは笑い声ではなく、嗚咽だ。頭に置かれた彼の手の温みに、目じりにたまっていた涙がころりと転がり落ちる。


「そんなことわかってたよぉ……」


 一度溢れた涙はとどまることをしらない。次から次へと瞼を乗り越え、頬に伝い落ちて行く。まるで滝のようだ。一度決壊した涙はちょっと拭ったぐらいでは止めることはできない。かろうじて泣き叫ぶのだけはこらえたが、それでもみっともないことにはかわりなかった。

 あたしは顔をふせたまま、ぐしぐしと拳で瞼を拭う。

 わかってた。そんなことずっと前からわかってた。

 だって、彼のことをあたしはずっと見ていたんだから。きっと彼がお姉ちゃんを見つめはじめたときよりもずっと前から見ていた。だからこそわかってしまった。彼が誰を見つめているのか、を。

 そんなのわかりたくもなかった。

 彼の内に秘めたあの狂おしいまでの情熱の矛先がどうしてあたしじゃないんだろう。


「……どうして」


 苦しくてたまらない。

 行き場のない感情は体の奥底で渦巻き、淀み、暴れている。だが、それを表に出すことはできない。唯一できることといったら逃げだすことぐらいだった。

 鬱積した感情をいっそお姉ちゃんにぶつけられたらよかった。

 憎んで恨んで、そしていっそのこと脅迫でもなんでもして、桜井さんの心を奪うぐらいすればよかった。


「それは無理でしょ」

「……そんなことっ」


 咄嗟に言い返そうとするあたしの頭を、真吾は優しく撫でる。


「優しいカオルちゃんに、そんな酷いことできるわけないでしょ」


 ぼろりとこぼれた涙をぐしぐしと拭いながら、頭をふる。


「……優しくなんて」

「優しいよ。君はとても優しい」


 真吾は口端をわずかに釣り上げる。


「私とは全然違うよ」

「……え」


 くすり、と笑みを含んだ真吾の声に、あたしは思わず顔をあげる。

 と、あたしを見つめる真吾の顔に深い影が落ちる。闇の奥にかすかに見える人工的な色の瞳。その瞳がじりじりと闇に飲まれていく。

 見つめる視線は相変わらず優しく、この上もなく穏やかだというのに。どこか冷たく、固いように思えるのは気のせいだろうか。

 怯えたようにみえたのだろうか。真吾は、ふっと息をはき軽く目を伏せた。と、その時だ。カーテンの向こう側が酷く騒騒しくなったように思えた。

 騒騒しいのはさきほどからかわらない。なんの曲かわからないが、重低音がきいた激しい曲調。そのリズムに乗って聞こえてくる様々な人の声とグラスのぶつかる音。一つ二つならばそれほどではないが、すべてが重なりあうとそれはもう酷いものだ。

 だが、今聞こえてくるのはそれではない。

 グラスがぶつかりあうにしてはやけに大きい。


「……ケンカかな」


 真吾も気がついたらしい。そろりと腰を上げる。と、その時だ。


「お待ちください! そちらは……っ!」


 制止の声と共に閉じられていたカーテンがばっと開く。


「カオルちゃん!」


 飛び込んできたのは桜井さんだった。

 ぜいぜいと肩でいきをついた桜井さんの額にはじっとりと汗がにじんでいる。彼はそれをぐいっと乱暴に拭うと、眼を丸くし、ぽかんと口を開いたままのあたしの手をむんずとつかんだ。


「……さ、桜井さん?」

「来るんだ!」


 あたしの返事をまたず、桜井さんはつかんでいる手をぐいっと乱暴に引く。相当焦っているのかつかんでいる手に容赦はない。

 痛みに顔をゆがめるあたしに、真吾がおいと声をあげた。だが、


「お前……っ」


 桜井さんはつかんでいたあたしの手を外すと、そのまま真吾の胸倉をつかむ。


「未成年をこんなところに連れ込むとはどういうつもりだ!」


 噛みしめられた奥歯がぎり、と音をたてる。青いスポットライトに照らされた桜井さんの表情は、嫌悪とそして憤怒に歪んでいた。

 怯えるあたしに対し、真吾はまるで驚いていない。唇を艶然とゆがめたまま、力任せにシャツをつかむ桜井さんを見上げる。


「別につれこんだわけじゃないよ。カオルちゃんが来たいっていうから連れてきてあげただけだよ。ね」

「ふざけるな!」


 節がしろくなるほど強くシャツを握りしめていた桜井さんは、吐き捨てるように言い放つと同時に真吾の体を強く突き放す。

 ソファの上に投げだされた真吾は相変わらず笑みを浮かべたまま、桜井さんを見上げていた。


「別にいいでしょ。彼女がやりたいっていうんだからさ。別に酒を飲ませているわけでもないしさー。って、おいおい」


 真吾の言い訳など端っから聞く気などなかったのだろう。

 桜井さんは再びあたしの手をつかむと、かなり強引に立ち上がらせる。


「行くぞ」

「あ……え、と」


 逡巡する暇をあたえず、桜井さんは歩きだした。


「ちょ、ちょっと」


 閉まりかけたカーテンの間をすり抜ける。慌てて振り返ると、大きく波打つカーテンの向こう側で、笑顔で手をふる真吾の姿がみえた。

 人ごとだとおもって。

 思わず顔をしかめたあたしにむかい、真吾は何かを呟く。だが、その声も喧騒にかき消されここまでは届かない。唇の動きだけでも、と思ったがそれもかなわぬままあ、あたしは店の外へと連れ出された。

 通りにでると、湿った空気が辺りを包みこんでいた。

 一雨くるのだろうか。じっとりとまとわりつく気配に、顔をしかめたあたしの頬に桜井さんの手が飛んだ。

 乾いた音と共に痛みが走る。

 はっとしたように顔をあげたあたしに、桜井さんは真吾に向けたのと同じ視線をこちらにむけた。


「……何考えているんだ!」


 細い裏通りに桜井さんの怒号が響く。

 あまりの大きさに、周囲を行き交う人たちの視線が一斉にこちらを向くのがわかる。だが、そんなことなどお構いなしに桜井さんは、あたしの肩を乱暴につかむ。


「連絡もせず、一体何をやっていたんだ! どれだけ、俺が……俺たちが心配したとおもっているんだ!」


 桜井さんの声は、怒号というよりも悲鳴に近い。桜井さんの突き刺すような声に、あたしは思わず眼を伏せる。


「……別に心配なんてしてないでしょ」

「それ、本気で言っているのか?」


 あたしは俯いたまま唇を噛む。桜井さんのため息が上から落ちてくるのがわかった。


「……カオルちゃん。本当に俺が心配しないとでも?」


 彼の震える声が胸につきささる。

 あたしは無意識に叩かれた頬に手をやる。痛みか、それとも羞恥かわからない。頬が熱くなるのがわかった。


「……ごめん、なさい」


 絞り出した声は、笑ってしまうほど弱弱しいものだった。

 俯くあたしの体を桜井さんが優しく引き寄せる。


「俺こそごめん……痛かったろ」


 囁くような彼の声に、あたしは頭を振る。

 押し当てた彼の心臓が早鐘を打っているのがわかる。いつもは皺一つないシャツが汗でしっとりと濡れ、熱気は布越しにもはっきりと伝わってきた。


「でも、本当に無事でよかった……」


 ほうと吐き出された言葉に、視界がゆらりと揺らぐ。目じりにういた涙を散らすようにあたしは軽く顔を伏せ、震える声を誤魔化すように軽く咳払いした。


「……どうしてここが?」


 来るまでに色々道をまがったせいで、あたし自身ここがどこだかわからない。そもそもあの店には看板がない。いや、それどころかあそこが店だと外からはまるでわからない。桜井さんがあのよおうな店に出入りしていたのならば別だが、正直彼があのような店に精通しているとは思えない。

 だとしたらどうやってあたしがあそこにいるとわかったのだろう。


「ああ、それはね」


 桜井さんは片手をスラックスのポケットにいれると、そこから携帯を取り出す。

 と、そこにはメール画面が開いたままになっていた。


「……メール?」

「ああ、君がこの街にいることはわかっていたんだけど、どこにるとかまではね。探し回っていた時にこのメールが届いたんだ。それでわかったんだよ」


 メールの内容は、あの店の名前と場所だけ。宛名はよく見かけるフリーアドレスだった。


「知り合い?」

「いや」


 桜井さんは頭をふる。そして再び携帯をポケットに押し込むと、抱きしめていた手が緩む。


「さあ、帰ろう」


 背中にあった手がするりとすべり、あたしの手をつかむ。

 優しいがしっかりと握りしめられたそれは、少しぐらい振ったからといってほどける気配はない。もう、逃げるつもりもないが。

 桜井さんに連れられるようにあたしは歩きだす。

 終電の時間が近づいているせいか、通りはこの日一番の活気を見せている。人通りは先ほどよりも多い。酔っぱらいの間を足早に抜けながら、桜井さんはちらりと振り返る。


「ゆきえも心配しているよ」

「……うん」


 あたしは咄嗟に目を伏せる。

 ゆきえ。その言葉を聞いた瞬間、先ほどまで浮かれていた気持ちが一瞬にして沈み込むのがわかる。

 だが、それとは裏腹に唇に浮かんできたのは苦笑いにも似た笑みだ。

 たった一言。姉の名前を呼ぶだけで改めて思い知らされる。


――やんなっちゃうなぁ……


 喉元にせりあがった愚痴を飲み込む。

 突き刺さったとげはそう簡単にはぬけないらしい。心の痛みも同じだ。すぐにかき消されるものではなく、現実の傷と同じく時間をかけながらゆっくりと消え去ってくものなのだろう。

 あたしは真吾が触れた首筋に手をやりながら、そっと空を見上げる。

 夜の闇はさらに深くなり、地上はそれと反比例するかのように煌々と明るいネオンが輝く。だが、そこから裏通りに一足を踏み入れると星一つ瞬くことのない夜空と同じ闇が広がっている。

 まるで心の中のようだ。

 どんよりと重く垂れこめる闇を感じながら、あたしは無意識に首を撫でる。

 真吾が触れたはずそこを指でなぞる。だが、そこには彼の残した名残はない。探るようにふれる自分の指の感触だけだ。


――カオルちゃん、まだ子どもだもんね


 心の中で渦巻く感情を抑え込むこともできないあたしは、たしかに子どもなのだろう。

 通りをつつむ闇は未だ深い。

 だが、朝になれば差し込む陽光にどんなに奥まった路地にも陽光が差し込み闇は払われる。時と共に消えて行く闇同様、この苦しいほどの思いや記憶もいつかは消えてしまうのだろうか。それが、大人になるということなのだろうか。

 あたしはぼんやりとそんなことを考えながら、繋いだ手にそっと力をこめた。



――CASE3 菅原カオル 担当・秋月真吾、依頼完了……?

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