2話
繁華街の入口にある大きなネオン看板をくぐると、様々な飲食店が軒を連ねる通りがみえてくる。ネオン看板付近には見知ったチェーン店が数多く並んでいるが、奥に行けばいくほどそれらは淘汰され、間口の狭い店が増えてくる。
そうなると雰囲気はがらりと変わる。
真吾はあたしの手をつかんだまま、そんな裏通りをどんどん進んでいく。その動きには寸分の迷いもなかった。
あたしだってこの街に初めてきたわけではない。そこそこ遊んでいてそれなりにこの街を知っているつもりだった。だが――半歩前をあるく真吾をあたしはちらりと見上げる。
つい先ほどまでいたファーストフードの無機質な室内灯に照らされる彼と、がやがやと騒騒しい音とけばけばしいネオンに照らされる道を行く彼が同じ人だとはとても思えない。
まさに別人のよう――いやいや。あたしはあわててその考えを打ち消した。
気のせいだ。そうにきまっている。握ってくれている彼の手はさっきからかわらず、優しいままじゃない。
そう思いながらも、あたしは湧きあがる不安を気のせいだとばっさり切り捨てることができないでいた。
あたしは通りを奥へ奥へと進む真吾の後姿を見つめる。
やはり違う。後姿しか見ることはできないが、あたしが知っている真吾とは明らかに違う。……といっても具体的にどこがとはいえないけど。
繁華街の奥へと向かうにつれ、打ち消そうと必死になっていた考えは次第に確信へとかわっていった。
「ここだよ」
そう言って真吾が足をとめたのは、路地裏、というのにふさわしい薄暗い狭い通りの真ん中。飴色をした扉の前だった。
扉の両隣は店らしく、店の名前が入った電飾看板が通りを仄かに照らしている。だが、立ち止った扉の前にには何もない。看板どころか、明かりすらないのだ。そのせいかこの店の前だけ闇が零れ落ちたようにどんよりと暗くみえる。
知らない人がみたらここに扉があることすらわからないだろう。
そんな所に一体何の用があるというのか。
怪訝そうに眉をよせる。だが、真吾はあたしの方を振り返りもせず、ドアを開けた。その瞬間、扉に押しとどめられていた音が一斉に通りにあふれ出した。あまりの大きな音と迫力に一瞬怯むあたしの手を、真吾はぐいっと引く。
「行くよ」
「行くって……」
ふと真吾の肩越しに見えるのは、地下へと続く階段。
音はその奥から聞こえてくる。
「……ここ?」
「そう。さ、早く」
にっこりと笑う真吾に、あたしは嫌だとも言えずおずおずと歩きだした。
扉で遮られているせいか。それとも場所が地下のせいだろうか。
とにかくそこの空気はお世辞にも快適なものとはいえなかった。べたりとまとわりつくような湿った空気を感じながら、あたしはおずおずと階段を下っていく。
むき出しのコンクリートにつつまれたそこを照らすのは豆電球ほどの小さな明かりだ。
両側にははがれかけたポスターがいくつも並んでいる。何が書いてあるのだろうと眼を凝らして見たものの、こう薄暗くては読むことすらできない。
かろうじて文字が見えたが英語ではないどこかの国の言葉だったため、何と書かれているのかまではわからなかった。
階段を下りるとこれまた細い通路つづいている。
その途中に見るからに酔っているといった女性が、壁にもたれたまま煙草をふかしているのがみえた。
けだるそうに唇から紫煙を吹きだしながら、女はちらりとあたしと、そして真吾を見た。
「あれぇ、真吾じゃん」
「よう」
軽く手をあげた真吾に、女はふかしていた煙草を足元に投げ捨てる。
床には同じように投げ捨てられた煙草の吸殻がいくつも散らばっていた。女の投げ捨てた煙草からはまだ細く白い煙が立ち上っている。女はそれを華奢なヒールで踏みつぶしながら、ぬらぬらと赤く染まった唇に笑みを浮かびあがらせた。
「めずらしいじゃない。こんなに早くに店にくるなんてさ。どうしたの? 客?」
「違うよ」
真吾は女の言葉をさえぎるように答えた。だが、あたしははっきりと聞いた。客、と。
客? 客とは一体どういう意味だろうか。
怪訝そうに真吾を見上げるあたしに気がついたのか、女はおやっと眉をあげた。
「……何よ、その子。まさか、あんた……」
「違うよ」
曖昧な笑みを浮かべ、真吾はぐいっとあたしの手を引きながら女の奥にある扉へとむかう。
女の脇を通りぬけるとき、突き刺すような視線を感じたが、振り返る間もなく真吾は扉明けた。その瞬間再び音が通路にあふれ出した。
音の洪水をまともにくらい思わずよろめいたあたしの手を、真吾は強く握りしめる。
店の中は通路よりはだいぶ明るかった。だが、それでもファーストフードに比べるとだいぶ暗い。何しろ店内を照らす明かりが、青や紫色をしたスポットライトだけなのだから。 お世辞にも一人とはいえない部屋にひしめき合う人たち。その大半が日本人ではなかった。聞こえてくる様々な国の言葉にあたしは声をつまらせる。
こういった店があるとは聞いていたが、実際に入るのははじめてだった。
そもそも、あたしたちが遊ぶ所といったらカラオケやファミレスがいいところ。もっと遊んでいる子たちの中にはこういったところで遊んでいるらしいけど、あたしにはそんなところで遊ぶ勇気は残念ながらなかった。
物珍しげにきょときょととあたりを見回すあたしを真吾はさらに奥へといざなう。カウンターの脇をまわるとそこには分厚いカーテンのかかったスペースがあった。濃紺のカーテンをひくとそこは遮断された小さなスペースがあった。
真吾はそこにあたしを押し込むと、後ろ手にカーテンを閉じる。
「はい、座って」
真吾の言葉は優しいけど、でもそれは否やを言わせぬ雰囲気をもっていた。
あたしは言われるがままカーテンと同じ濃紺のソファに腰を下ろす。それをまって真吾はあたしのすぐ隣に腰をおろした。
わずかな隙間もなく、ぴったりと寄り添うように座る真吾に、あたしはなんだかひどく居心地の悪い思いをした。だって、今まであたしと真吾の間にはかならず椅子一つ分の空間があった。
近すぎるでも、遠すぎるでもない。程よい距離。それが一番心地よいものだったはずだ。だが、今、あたしと真吾の間にはわずかな隙間すらない。
あたしはなんとか距離を撮ろうともぞもぞと体を動かす。と、その時だ。閉じたはずのカーテンがわずかに開いた。隙間からすべりこんできたのは若い男だった。
「……いらっしゃいませ」
癖のある長めの髪に、恐ろしいまでに整った容姿。片膝をつき軽く頭をさげる男に、真吾はカクテルらしきものを注文した。
「カオルちゃんは? 何がいい?」
「あ、え、えと……」
あたしはあわててテーブルの上にあったメニューを手に取る。
いつものファミレスだったら飲み放題とかにするのだが、残念ながらここにはそういったものはなさそうだった。
ざっと目を通すが、先ほど見たポスター同様書かれている文字は日本語ではなかった。
しかし、何も頼まないというわけにはいかなそうだ。
「え、えと、あの……あたしは、」
「オレンジジュースでいい?」
にっこりと笑いながら、真吾はあたしの手からメニューを引き抜く。
「あの店でいつもオレンジジュース頼んでいたよね? 同じものでいいよね」
「あ、……うん」
おずおずとうなずいたあたしに、真吾は再び微笑みかけるとっ膝をついたままの店員に注文する。
店員は再び頭をさげると、開いたカーテンを静かに閉じる。
カーテンの生地の厚みのせいか、閉じると本当に密室のようだ。音もわずかに和らぎ、突き刺すようなスポットライトもここまでは届かない。
と、真吾の手があたしの肩を抱いた。
ぎくりとこわばらせるあたしに、彼は喉を鳴らすように笑った。
「緊張してる?」
「そ、そりゃ……」
遊んでいるっていっても、こういった店に入るのは初めてだ。正直に白状すると、真吾は弾かれたように笑いだした。
「なーんだ。カオルちゃん、遊んでいるって言ってたから慣れてるかとおもったけど、やっぱり緊張しちゃうんだ」
「い、いや、あの……」
正確に言えば緊張しているのは店だけが理由ではなかった。
出会って結構たつけれど、考えてみれば真吾があたしに触るのははじめてだと気がつく。
抱き寄せられた手の重みがやけにはっきりと感じる。店の中に充満する紫煙のせいで幾分鈍くはなっているが、彼がまとう甘い香りもだ。
包み込むような甘い香りにくらくらしそうになる。
「もう忘れた方がいいよ」
ふいに耳元でささやかれ思わず振り返ると、細い照明に照らし出された彼の人工的な色をした瞳がじっとあたしを見つめていた。
「……忘れるって……、な、何を」
「桜井弘之のこと」
息をのみ身をこわばらせるあたしに、真吾は唇に形良い笑みを浮かべた。
「待っていても彼は君のものにはならない。わかってるんでしょ? 彼の視線の先にいるのは君じゃない。彼が見つめているのは」
「やめてっ!」
咄嗟にあたしは真吾の体を押す。が、細く華奢だと思っていた彼の体はびくともしない。薄い笑みを浮かべた唇も、何一つかわらないままだ。
固くこわばらせるあたしの頬に彼は手を伸ばした。触れる瞬間、あたしは頭をふって彼の指先をかわした。
「……なんで、そんなこと」
「きまってるでしょ」
くっと喉を鳴らし、彼の手があたしの肩をとんと後ろへ押した。
「君が好きだから」
予想外の真吾の行動に、あたしの体はあっさりと横たわる。肌触りの良いソファの生地を背中に感じながら、あたしの上に覆いかぶさってくる真吾を見上げた。
「……ふざけるないでよ」
「ふざけてなんかいないよ」
真吾はくくっと喉を鳴らす。
押し倒された時だろうか。手も足も彼によって抑えつけられ、いくらもがこうとびくともしなかった。
必死にもがき続けるあたしに、真吾はくくっと喉を鳴らしながらそっと耳に唇を寄せる。
「ねえ、カオルちゃんさ、考えてもみなよ。君がどれほどあがいたって彼は決して君のものなんかにはならない。だったら彼のことなんか忘れて私と一緒にいたほうが楽しいと思わない? 私なら君を大切にしてあげるよ」
そう言いながら真吾は首筋に口づける。かすかな温みを帯びた彼の唇の感触。次いで感じたのは
「ぎゃああ! な、舐めたあ!」
ぬるりとした舌の感触に、あたしは思わず声をあげた。
「なんで舐めるのよ!」
あたしは唯一自由になる瞳に力をこめ、思いっきり真吾を睨む。
「え? 気持ち良くない?」
「ないわよ! 真吾、おかしいんじゃないの?」
頬を膨らませるあたしに、真吾は一瞬虚をつかれたように目を丸くする。そしてぶはっと吹きだした。
真吾は笑いながら、抑えつけていた両手から力をぬき横たわるあたしを優しく抱き起した。
「そっか、気持ち良くないか」
「当たり前でしょ! 舐められて気持ちいいってどんだけマゾよ」
何がおかしいんだろ。
噛まれて気持ちいなんてあるわけないじゃないか。
憤然と言い放つあたしに、真吾は笑いすぎて滲んだ涙を指先で拭った。そんな仕草も、いちいちキマっているだけに腹立たしかった。
「そこまで言われると、傷つくなー。結構、上手いって言われていたんだけどなぁ」
「あっそ」
何が上手いだ。あたしはふん、と顔をそむける。
そんなあたしの態度に彼は堪えるように笑いながら、乱れたあたしの髪に手をやる。そして幼子にでもするかのように優しく撫でた。
「そっか。カオルちゃんはまだわからないか。まあ、そうだよね。カオルちゃん、まだ子どもだもんね」
「ちょ……真吾、今、さらーっとあたしのこと馬鹿にしたでしょ」
子ども子どもって。子どもなのは事実だけど、それはあたしのせいじゃない。あたしだってなれるものならすぐにでも大人になってみせるっていうのに。
膨らませた頬にさらに空気をふくませながら、あたしは眉をつりあげる。
「……桜井さんも真吾もあたしのことガキだと思って」
「あれ? 別にいいんじゃないの? カオルちゃんかわいいし」
「よくない! それにかわいいとかそういう問題じゃないでしょ!」
あたしは振り返りながら、真吾を睨む。
「そうかな?」
「そうだよ!」
「ふうん……じゃあさ」
笑みをおさめながら、真吾は首をかしげる。
「聞くけどさ、もし君がお姉さんと同じ年だったら桜井さんは君を選んだと思う?」