1話
繁華街の中央にあるファーストフードの二階。
通りに面した側は一面ガラス張りとなり、そちらを向くように置かれたカウンター式のテーブルからは階下を行き交う人の流れがはっきりと見える。
通りを行く人の流れはまるで川のようだ。
丁度帰宅ラッシュの真っただ中のせいか、流れは昼間よりもずっと早い。
乱立するビルの上はすっかり夜の帳に包まれているが、ビルの隙間からは月も星も無い。あるのはただの暗闇だけだ。
いや、実際には無いのではなく通りを照らすネオンの明かりのせいで、月や星のか細い光は地上にまで届かないだけなのだろう。
ネオンに遮られた向こうにあるはずの月。今日は、どんな月なのだろうか。
あたしは残り僅かとなったジュースをずずっと啜りながら、ちらりと隣を見る。
「……五度め」
ホント、しつこいな。
ぶるぶると震え続けている携帯を横目にあたしは、小さく舌打ちをする。
茶色のトレイの脇に置いたままの携帯。濃いピンク色をしたそれは、お年玉を全額つぎ込んで手に入れた新機種だ。パールがきいたかわいらしい色彩と掌に丁度良い大きさが気に入り、手に入れたその日から暇さえあれば眺めていた。そのせいで先日母親から小言をくらったばかりだ。
まあ、でも親の説教など、好きな事にくらべたらなんてことはない。
だって、ずっと欲しかったんだもの。
一生懸命調べ、厳選された逸品は、いくら見ても見飽きることなんてなかった。
友達とのくだらない話だってこの携帯越しに聞くと楽しく聞こえたし、着信を知らせるメロディが鳴り響くたびに胸が高鳴ったものだ。だけれど――あたしは小さくため息をつく。
大好きな着信音に設定した大好きなグループの新曲が、酷く耳に障る。たしか報われない恋をテーマにしたもので、ネットでは泣けると評判の歌だ。昨日まではその歌詞に自分を当てはめては、眼をうるませていたのが嘘のようだ。
いらだたしげに舌打ちしながら、あたしは携帯を鞄に放り込む。
くぐもったメロディも癪に障る。あたしはその音をさえぎるように思いっきりジュースをすする。だが、ストローから出てきたのはズゴゴという濁った音だけ。ジュースは一滴も出てはこなかった。
空になった紙コップを握りつぶしながら、あたしは再び外を見る。
ここからの景色は嫌いじゃあなかった。
店が繁華街の入口近くにあるせいか、ガラス越しにでも外の活気が伝わってくるようだった。その活気が皮膚を通し、心を高ぶらせてくれる。
だが、今は全てが逆。
周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、あたしの心はどんどん落ち込んでいった。だって――あたしは放り込んだ携帯の液晶画面に浮かびあがる文字を見つめる。
――桜井弘之
おそらく今までの電話もメールも全部彼だ。履歴を確認するまでもない。
「……なんで」
父の部下としてあらわれた彼は、いつもかっちりとしたブラックスーツに、これまたぴっちりと整えられた髪をしていた。
あたしの周りにいるような遊んでばっかりのチャラけた男とは違い、立ち居振る舞いも話し方も本当に素敵なまさに大人の男性だった。
それにただ難しい話ばかりする今までの父の部下とは全然違っていた。
まるで友達にでもするかのようにあたしにもわかりやすく話してくれた。愚痴も聞いてくれたし、勉強も教えてくれた。でも、それだけだ。
それ以上あたしが近づこうとすると、彼はごくさりげなく距離を開ける。
まあ、桜井さんにとってあたしは、上司の娘。それ以上でもそれ以下でもないことぐらいわかっていた。第一あたしの話しなんて彼にしてみればガキのたわごとみたいなものだ。
それに、父がどうして突然桜井さんをウチに連れてきたのかなんて、いくらあたしだってなんとなくわかっていた。だって、お姉ちゃんと桜井さん、本当にお似合いなんだもん。だから彼がお姉ちゃんとデートしたって、別にあたしに言い訳する必要なんてない。あたしだってお姉ちゃんが桜井さんと婚約しようとしたって別に何とも思ってない。だって、最初から決められていたことだったし、それに、それに……。
あたしは空のカップを握りしめながら、俯く。
違う。嘘だ。全然平気なんかじゃない。
嫌で嫌でたまらない。
だって、あたし、桜井さんのことが好きだった。
いや、だったじゃない。今でも好きだ。
両想いになりたくないといったらウソになる。けど、あたしだって馬鹿じゃない。彼が相手をしてくれるのは、父親とお姉ちゃんがいるからだ。あたしみたいなガキを桜井さんが相手にしてくれるわけがない。
だから、ひっそりと思い続けられればそれでいいとおもっていた――はずだった。
桜井さんがお姉ちゃんと一緒にいるところにばったり出くわしてしまった時、あたしは冷静ではいられなかった。
笑いかけた桜井さんに対し、あたしは逃げだした。無我夢中で。
気がついたらここにいたというわけだ。
「……ほんと、ガキみたい」
覚悟が聞いて笑える。
あたしには覚悟なんてものは何ひとつできていなかった。ひっそりと思うだけでいいなんて、とんだ思い上がりだった。
心のどこかで桜井さんがいつかあたしを見てくれるって思っていた。メールをやり取りしているときだってそう。
話題の中心がお姉ちゃんのことだって気が付いていたはずなのに、あたしはその事実から目をそらしつづけていた。
だが、いくら眼を逸らそうとも事実は変わらない。
気がつかないふりをしていた分だけ、衝撃は半端なかった。
結局、あたしは姉と彼の好意に胡坐をかき、寄りかかっていたけだ。
大人になんてこれっぽっちもなれてなかった。
握りつぶしたカップに、あたしは小さくため息を落とす。と、その時だ。
右肩がぽんと叩かれ、あたしは反射的に振り返る。と、人工的な甘い香りが鼻孔をふわりとかすめる。
「……真吾」
「待った?」
纏った甘やかな香りと同じく、聞こえた声もベルベットのようにやわらかく、甘い。
いや、甘いのはその声だけではない。
すらりと通った鼻筋に、形良い唇。癖のせいか。それともパーマのせいか。長めの髪は緩く波打ちながら頬を縁取る。金髪にちかい髪色は、この街ではさほど目立たないが他の場所では相当り目立つことだろう。それは髪の色だけにかぎってことではない。
緩いウェーブがかかった髪の奥に見える瞳はカラコンだろうか。日本人にはありえない色をしていた。
「ごめんね」
「遅い」
わざとらしく頬をふくらませてみせるあたしに、彼はちらりと笑いながら隣にある安っぽいスチール製の椅子に腰を下ろした。
「ちょっと忙しくて、ね」
「忙しいねぇ……」
あたしはストローの端を軽く噛みながら、ちらりと彼を見る。
彼の体を包むのはスリムなデザインのブラックスーツ。色だけみれば桜井さんと同じスーツなのだが、どこがどう違うのか。正反対の印象をうけた。
それは光沢のありすぎる布地のせいか。それとも第二ボタンまで開けたこれまた光沢のあるシャツのせいだろうか。それともまた別の因子か。
くつろげた胸元を彩るのはシルバーネックレス。くすんだ色合いとデザインが特徴の、桜井さんが以前話していたブランドだ。指にはめている指輪も同じブランド物で、トータルするとかなりの値段になるだろう。
スーツの袖口からちらりと見える時計はシルバーが目に眩しい。
いうまでもなくこちらも高価なものだろう。
こんなものを平然と身につけられるのだから、あきかに普通の会社員ではないだろう。
いや、そもそも彼が――真吾が何をしている人なのか、あたしは全くと言っていいほどしらない。
だって、真吾と出会ったのはここ。きっかけはナンパだったから。
待ち合わせか、それとも時間潰しで来ていたのかわからないが、独りでぼーっと外をみていた真吾にあたしが声をかけたのがきっかけだった。
今思えば、よくもまあこんな恰好の人に声をかけられたものだと思う。
だって、真吾ってどうみても「ホスト」かそれに準じた人っぽいし。そう言った人とかかわるとロクなことがないことぐらい、頭の悪いあたしでも知っている。
けど、あの頃のあたしはかなりやけっぱちだったのだ。桜井さんのことで完全に袋小路に追い詰められていて、大人にもなりきれないし、子どもでいる事にも耐えられなかった。
とにかくこの状態をどうにかしたい一心だった。
何をすればいいのかわからずもがいている最中だったのだ。
今思えば愚かとしかいいようがない。
真吾も最初、相当驚いていたようだった。まあ、あの格好をして声をかけてくる奴といったらこのあたりでは夜の職業の人ぐらいなものだからだ。女子高生から声をかけられるとは思ってもみなかったのだろう。
だが、もともとノリのいい真吾だ。すぐにあたしたちは友達になった。
といっても、真吾とは二人でどこかに遊びにいったりすることはない。もっぱらここであたしの愚痴をきいてもらっていた。
だから真吾はあたしのことを知っていても、あたしは真吾のことは何一つしらないままだった。けど、それは大したことではない。そもそも友達だからって全部を知る必要なんてこれっぽっちもない。気が合えば遊ぶ。そうじゃなかったら遊ばない。簡単なことだ。
だが、恋は違う。
頭で違うといっても心がそれと逆のことを叫ぶ。
まったくもって不便な事この上ない。
まあ、だから真吾とあたしは友達同士。真吾が話さないなら、別にいいかなーとおもっていた。けど、ある時ふと気になり、一度だけ尋ねてみたことがある。
――ねえ、真吾ってさ、何の仕事してんの?
いうなれば好奇心だった。
だって、そうでしょ。
これだけのイケメン。そこらじゅうにうじゃうじゃいるものではない。
だが、真吾はというとちらりと意味深な笑みを浮かべただけで、あたしの質問には何一つ答えてはくれなかった。
「今日は大丈夫なの?」
「ん?」
真吾は長い足を軽く組みながら、首をちょっと傾げる。
「そうだね。今日は暇かな」
「そっか」
あたしは潰したカップを指でつつきながら、ちらりと笑みを浮かべた。
「じゃあ……、つきあってよ」
「つきあう?」
不思議そうにみつめる真吾に、あたしはこくりと頷く。
「そう。真吾、暇なんでしょ?」
「うん、まあね。でも、付き合うってどこに?」
薄く笑んだ真吾は探るような視線をあたしにむけた。
あたしは、その視線から逃げるように窓の外へと視線をむける。繁華街のネオンは埃のついたガラス越しに見るせいか突き刺すような強さが和らぎ、色気のある光だけがこちらにつたわってくる。
「……どこでも」
「どこでも?」
笑いながらそう答えた真吾に、あたしはゆっくり頷きながら視線を彼へと戻す。
「どこでもいいよ。真吾がいくところにあたしも一緒につれていってほしいの」
人工的な色素を帯びた彼の瞳をまっすぐにみつめたまま答えるあたしに、真吾は浮かべた笑みを静かにかき消す。と同時にかつり、と固い音がきこえた。
それが真吾の長い指がテーブルをはじいた音だとわかったのは、音がかき消えて数秒してからだった。
太めのシルバーリングが彩る彼の指は、リングの力強さとは真逆に大きさ以外をみたら女性のそれと見間違うほどだ。
「ねえ、もしかして帰りたくない、とか?」
「そう。帰りたくないの。だから」
お願い。はっきりと聞こえるように、あたしは答える。
真吾は数秒の沈黙の後、大きく息を吐いた。そこにはいつもの作りこまれた笑みはない。
整いすぎるほど整った容姿には、感情らしきものはなにもうかんではいなかった。
彼は再びかつり、と指でテーブルをはじく。
「ねえ、カオルちゃん」
「何?」
「そういうことを言ったらどうなるか、カオルちゃんもわかっているんだよね?」
「……そうだね」
この街でた弱さをみせることがどういうことか。
わずかでも隙を見せれば最後、骨までしゃぶりつくそうとしている輩がうじゃうじゃ居ることぐらいあたしだってわかっている。けれども――あたしは眼をぎゅっとつむり、テーブルの上にある真吾の手を取る。
さらりとした彼の肌の感触と、そしてリングの固い金属の感覚が掌につたわる。握った彼の手が一瞬固くこわばる。が、ほどなくして緩んだ彼の手が、やさしくあたしのそれを握りし返した。
「わかった」
しっかりと手をにぎりしめたまま、真吾が立ち上がる。
慌てて顔をあげたあたしに、彼は唇にかすかな笑みをうかべおいで、と囁いた。その声はあたした今まで聞いてきたどの声とも違って聞こえた。
目を見開くあたしの手を、真吾はゆっくりと引く。そして
「望みどおり、つれていってあげるよ」
私がいつも行く場所に、ね。
何かを含んだ彼の声にあたしは一瞬逡巡する。だが、誘う彼の手に、あたしはゆっくりと席から立ち上がった。