報告書・CASE2
三度めだ。
晴美は動かしていたペンを止め、ちらりと視線をあげる。
窓に下ろされたブラインドから差し込む日差しは陽光ではない。紫や青、赤などのけばけばしいネオンの光のかけらだ。
きっちりと閉じられた窓越しに、繁華街の喧騒が聞こえる。
通りを行き交う人の声。不規則に点滅する明かりを横顔に受けた哲平は、窓辺に置かれたソファにもたれかかるように座っていた。
その哲平が四度めのため息をついた。
「ねえ、晴美ちゃん」
晴美はそれきたぞ、とペンを置き、哲平に向き直る。
「はい、なんでしょう」
「……あのさー、晴美ちゃんってちょっと前まで会社勤めしてたんだよね?」
「う、うん……そうだけど?」
おずおずと答える晴美に、哲平はちらりと笑う。その笑みはいつもの哲平が浮かべる無邪気で快活なものとは違った。
何か考え込んでいるような、どこか影のある微笑みだった。
「ねえ、哲平くん」
いつもと違う哲平の様子に、晴美は怪訝そうに眉を寄せた。
いつもなら仕事帰りの哲平というと、正直うるさいぐらいにテンションが高いのだが、今日にかぎってこの態度とは。
どうみてもおかしい。
晴美は頭の中で今日の予定を思い出す。
哲平の今日の予定は、取り立ててかわったものではなかったはずだ。
「……何かあったの?」
「うーん、そうだねぇ」
哲平は曖昧な笑みを浮かべる。
「仕事ってさ、そんなに大切なのかなーって……」
「え?」
晴美はびっくりしたように目を開いた。
「し、仕事? ど、どうしたの、いきなり」
「うん」
哲平はソファから立ち上がると、晴美のいるデスクの隣に腰を下ろす。
思わず身を固くする晴美に、哲平はぐぐっと乗り出すように顔を近づける。
まるで少年のようにすべらかな頬が赤く染まっているのがみえる。かすかに漂うアルコール臭。明らかに風邪などではない。
晴美は思わず眉を寄せた。
「……やだ、哲平くん。酔ってるんですか?」
「ああ、うん、ちょっとだけ」
へへっと笑った哲平は、すぐさま顔を引き締めるように眉を寄せた。
「ね、晴美ちゃん、仕事で嫌なこととかない?」
「え? ここのですか?」
あっけにとられる晴美に、哲平首を横にふった。
「そうじゃなくて、前の仕事で」
「ああ、前のですか」
ちょっと笑った晴美は、哲平に体ごと向き直りながらそうですねぇと呟いた。
「まあ、嫌なことだったらありましたよ」
「やっぱり!」
ぽん、と膝をうった哲平は、すぐさま眉をつりあげる。
「で、そのときどうしたの? どうやって気分を変えたりしたわけ?」
「き、気分?」
晴美は困ったように眉を寄せた。
「……哲平くん、何かあったの? すごい変だよ」
「変」
哲平は驚いたように目を開き、そしてふいっと顔をそむけた。
「……あのさ……、今日、ボクのお客さんがね、仕事ですごい嫌なことがあったみたいなんだ。でもさ、ボク、何もできなくて……」
「……哲平くん」
ひどく落ち込んだ様子の哲平を、晴美はまじまじと見つめた。
意外だった。
哲平というと見た目のあどけなさや、無邪気な様子から人懐こくみられがちだが、晴美の印象はまるで逆だった。
どこか冷めていて、客との間も一線を引いている。
ある程度までは近寄らせるが、それ以上は決して踏みこませない。もちろん、自分も相手のテリトリーを犯すようなことはしない。
ただ、この仕事をしている以上それは仕方ないことかもしれない。下手に優しくすれば、相手を勘違いさせないともかぎらない。それが引きがねにトラブルになることだってある。
だから彼は冷たいのだと思った。
けれども、今の彼からはその冷たさは感じられなかった。
「あたしはこの仕事のことはまだよくわからないけど、……でも、そうやって悩んであげたことが、お客さんにとっては嬉しいことなんじゃないのかなー、って思う」
「……嬉しい?」
びっくりしたようにふりかえった哲平に、晴美はゆっくりと頷いた。
「うん、愚痴を聞いてもらって、一緒に怒ったり悲しんだりしてくれるだけで、悩みって軽くなるもんじゃない?」
「……そう、かな」
「そうだよ」
「……だったら、いいな」
ぽつり、と哲平は呟く。
「ボク、仕事とかしたことないからさ、彼女の悩みとかわかんなくて」
「へ?」
晴美はびっくりしたように眼を開く。
「え、こ、これは仕事じゃないの?」
「え? これって……もしかして貸出屋のこと?」
そういった哲平は、次の瞬間ぶはっと吹きだすように笑いだした。
「ちょ、晴美ちゃん、冗談キツー」
「な……」
何を笑っているんだ。
むっとする晴美に、哲平は笑いすぎて浮かんだ涙を指で拭った。
「だって、これは別に仕事じゃないっしょー」
「じゃ、じゃあ何よ」
「そうだなぁ」
哲平はうーん、と首をかしげる。
「趣味?」
「はあああ?」
なんだそれは。
あんぐりと口をあける晴美に、哲平はうんうんとうなずく。
「そう、いうなれば趣味かなー。お金も稼げる趣味」
「な、なに……趣味って……」
「だってさー」
哲平はさらにぐっと顔を近づけた。
「いろんな女の子と遊べて、それでいて文句もいわれず、さらにはお金までもらえるんだよ!」
にこにこと満面の笑みを浮かべる哲平を前に、晴美はこめかみに指をあてる。
やっぱり、というしかない。
一瞬でも変わったとおもった自分が馬鹿みたいだ。
結局、哲平はかわっていない。
ぐりぐりとこめかみを押さえながら、晴美はゆっくりと立ちあがった。
「……なるほどね」
「へ?」
哲平はぽかん、と見上げる。
「あれ? 晴美ちゃん、どしたの?」
「別に……、ただ」
「ただ?」
「ただ、真面目に心配した自分が馬鹿みたいだと思っただけです!」
そう言い捨て、晴美は事務所の奥へと向かう。
遠ざかる晴美の背をまじまじと見つめていた哲平は、首を傾げる。
「……どうしたんだろ?」
「そりゃ、バカなことして呆れられたんでしょうが」
笑みを含んだ声がした方へ、哲平はのそりと顔をむける。
「あっれー、真吾じゃん。どしたの?」
「どうしたのとはご挨拶だね」
ユーズドビンテージジーンズに皺加工されたシャツ。大きく開いた胸元にシルバーのネックレスがみえる。首筋から胸元にかけてのラインから、男とは思えぬような色気が漂っている。格好が格好なためあまりそうは見えないが、もし細身のスーツなどをまとったらホストに間違えられること請け合いだろう。
おそらくそれは本人もわかっているのか。真吾と呼ばれた男は艶やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと寄りかかっていた扉から体を起こした。その手にあるのは、封筒だ。
真吾はそれを見せるようにひらひらと扇いだ。
「届けにきたんだよ。……それで、また彼女を怒らせたわけ? 君も懲りないねぇ」
「えー」
哲平はぷくり、と頬を膨らませた。
「ちょっとした冗談なのに」
「冗談ねぇ」
真吾はゆったりとした足取りで部屋の中央におかれているソファに近づき、静かに腰下ろす。
「君の場合は冗談に聞こえないんだよ。特に彼女のようなタイプにはさ」
「それが面白いんじゃない」
哲平は椅子をぐるりと回転させながら、くくっと笑った。
「晴美ちゃんてさ、考えてることがすーぐ顔にでるからさ、面白くて」
肘をつきながら、真吾は頬をゆがめるように笑った。
「趣味が悪いね。また一哉に怒られるよ」
「……そうなんだよねー」
哲平はあーあ、とため息をつく。
「なんかさー、この前も晴美ちゃんをからかって遊んでたら、一哉にすごい怒られたー」
その光景が目に浮かぶのか。頬杖をついていた真吾は、ふふっと小さく笑みを漏らした。
「何を言ったのさ」
「え? 今度、ボクと一緒に旅行しようって」
「なるほどね。それは一哉も怒るでしょ」
「えー、なんでさ!」
哲平はぷーっと頬を膨らませた。
「別に、晴美ちゃんは一哉のものじゃないんでしょ! だったら、別に何も問題ないじゃない」
「あるでしょーが」
真吾は呆れたように哲平を見る。
「そもそも君の場合は、ただの遊びでしょ。マジメに彼女をオトそうとしている一哉の邪魔してどーすんの」
「いいじゃん、遊びだって」
哲平はけろりと答える。
「ボクが彼女に本気になるほうがもっと問題じゃないの?」
それだとただの修羅場じゃん。そういいきった彼の態度に、悪意は微塵もない。
真吾ははあ、とため息をついた。
「遊ぶんなら他の子にしなさい。彼女は真面目な子なんだから、君の相手は可愛そうでしょ」
「えー……っていうか、真吾、君の相手は可愛そうってどういう意味だよー」
「あのね」
真吾はゆっくりと姿勢を戻し、めっと真吾を睨む。
「君と遊ぶ相手ならそこらへんにいくらでもいるでしょ。軽くて、遊びと本気がわかる子。そう言う子を相手にしなさいっていってるの。わかる?」
諭すような真吾の言葉に、哲平はふいと顔をそむけた。
「えー、ボクさー、そういう子、苦手」
「苦手って……君も同じような感じでしょうが」
「ボク?」
哲平はきっと眉をつりあげ、真吾を振りかえった。
「全然、違うでしょ! ボク、すごいマジメじゃん」
「……それは、どうかな」
真吾は曖昧に笑う。
「君がマジメなら私も十分真面目だと思うよ」
「真吾はフマジメでしょーが!」
いーっと歯をみせる哲平を、真吾はちらりと笑う。
「それにしても、珍しいね。君がそこまで彼女にこだわるなんて。やっぱり一哉のせい?」
「え? うーん……」
虚をつかれたように黙りこんだ哲平は、わずかに首をかしげた。
「……やっぱりそうなのかな」
「そうなのかな、って……君って人は……本当に」
真吾は眉をひそめる。
「あいかわらずだね」
「真吾にだけはいわれたくないね」
哲平は鳥のくちばしのように唇を尖らせた。
「ボクより真吾のほうがずーっとずっとフマジメじゃん」
「……私かい?」
彼の言葉に驚いたように目を見開いた真吾は、長い足をゆったりと組みながらふっと笑みを浮かべた。
「別に、私は自分が真面目だなんて一度も言ったことはないけど?」
「……開き直った。サイテー」
「別に、開き直ってるわけじゃないよ」
真吾はほっそりとした長い指をひらりと動かし、膝をとんと叩く。
「私は本当に不真面目そのものだからね」
「ふうん、……じゃあさ、一哉みたいに一途に、誰かを好きになったってことは~?」
「ないね」
きっぱりと言い放った真吾に、哲平はへえと感心したような声をあげた。
「へー、すごーい」
「何がすごいんですかっ」
叩きつけるような声があたりに響く。振り返った二人の視線の先にいたのは、心底呆れたような顔をした晴美だった。
腰に手をあて、眉をつりあげる彼女に、真吾はひらひらと手をふる。
「やあ、その後一哉とはどうなったの?」
「どうもこうも、何にもありませんよ!」
ふん、と鼻をならし、足音荒く真吾に近づいたかと思うとぱっと片手を差し出した。
その掌を不思議そうに見つめる真吾に、晴美はもうっと小さく声をあげた。
「集金。早くしてください」
「あー、ごめんごめん」
優美に唇に笑みを浮かべ、真吾は先ほどみせた封筒を彼女の掌に置く。
「はい、今日の分」
「確かに」
晴美はむんずとそれをつかむと、改めて鋭い視線を二人にむける。
「さっきから……何をくだらないこと言ってるんですか」
「くだらなくないよ!」
哲平が声をあげる。
「ボクたちは沢山の女の子と遊ぶのがねー」
「はいはい、ろくでもない発言はそこまでにしてください」
哲平の言葉をさえぎった晴美は、ぎっと二人を睨む。
「そもそもここは事務所ですよ。休憩室なら奥にいってください」
「えー! だってそこにはオーナーが……」
「関係ありません!」
「ケチー!!」
ぶうぶう文句をいう哲平と、冷たく突っぱねる彼女の会話を耳にしながら、真吾は視線をゆっくりと窓へとむける。
相変わらずがちゃがちゃと五月蠅い音が窓越しに聞こえてくる。
闇夜を照らす何色ものネオンサイン。
夜はまだ始まったばかりだった。
Report by teppei miyano