8、名前を呼ぶ
久しぶりに続き
夢を見た。
誰かがボクの名前を呼んだ。ボクの名前が呼ばれた事はわかった。
だけど、それが何だったのか、呼んでいたのが誰なのかはわからなかった。
何故か、少し寂しい気分になった。
旦那様が出かけて、何日目だっけ。数えていた筈だけど、思い出せない。ボクは、日にちを覚えるのが苦手なのだ。いつまでが今日で、いつまでが昨日で、いつまでが一昨日なのかがわからない。だから、上手く数えられないのだ。
とりあえず、確かなのは何日かが経ったという事。
毎朝挨拶してくれるあの人がいないと、ボクは一日の移り変わりもわからないらしい。猫は一日の大半を眠って過ごすという事もあるのかもしれない。バトラーがご飯をくれる時間は一応決まっているけれど、それはまた別問題なのだ。ご飯はボクの記憶に大きな手がかりを残さない。
『でも、バトラーの事も好きなのよね』
好きか嫌いかで言えば、好きになるのかもしれない。とりあえず、嫌いではないだろう、多分。よくわからないけれど、嫌いではない。これは好き、と言えるのかな。
『私に聞かれても困るわ』
それは知ってる。君は僕の知っている事しか知らないから、僕の知っている事以外知りようがないから。だから、僕の知らない事を君が知っているという事は有り得ない。君が知っている事ならボクも知っている筈だ。そのはずなのだ。
「お嬢様、もうすぐ旦那様が帰っていらっしゃるそうですよ」
「なーん(本当?)」
「ええ。私は嘘は申しません」
バトラーはそう言って優しい笑みを浮かべてオレの頭を撫でる。オレはごろごろ、喉を鳴らす。
窓から門の方を見ていたら帰ってくるのが見えるかな?
『あら、随分楽しみなのね』
だって、旦那様とちゃんとお話してみようって決めたから。彼の事をちゃんと知らなくても全く問題はないけど、名前ぐらいはちゃんと聞いておこうって決めたから。…帰って来たばっかりだと疲れてるから質問攻めにするのはよくないだろうけど。
『考えているのか考えていないのか、よくわからないわね』
あと、いってらっしゃいを言ったんだからおかえりも言うべきかなって。
『…。あなたはそういう性格だったかしら』
そんな驚くほどの事は言ってないと思うんだけどどうだろう。ボクおかしい事言った?
『そんな事はないけれど』
そういえば、バトラーの名前も知らないな、とボクはふと思う。それともバトラーという名前なんだろうか?何となく、違う気がするのだけど。聞けば教えてくれるだろうか?
まあ、聞くとしても旦那様が先だ。何となく、そう思う。彼を差し置いてバトラーに聞いてはいけないと思う。特に根拠はないのだけど。
それにしても、もうすぐというのはどれくらいの時間を言うのだろう。一時間?二時間?三時間?半日?一日?二日?三日?どれくらいまでならもうすぐって呼べる?
分単位ではないだろうとは思う。この世界の時間の数え方は知らないけれど。そう考えると、ボクは知らない事ばかりで、知らない事の方が多い。知っている事を上げた方が早い位だろう。
ボクはオッドアイの黒猫でネロという名を旦那様に付けられている事。
旦那様がヴェルフォール家の当主だってこと。バトラーは彼に仕える人である事。
ファニーはフランシスカという名前で旦那様の妹だって事。普段は学校に通っていて寮で過ごしているらしい。
ヴェルフォールは王家とエルシオン(地名?)を守っている事。それは特別な役目であるらしい。
散歩に出る時に旦那様の護衛をする人はオセーとバラーム。豹の人と虎の人。
旦那様の部下の冥い色の人外の人は冷たい体をしているけど悪い人じゃないみたい。
この世界には人間じゃない人で構成されているという事。魔法の様なものが使える人もいる事。
旦那様はアンゲルと戦う為に出かけたという事。
ざっと思い付く所でこれ位だろうか。ボクという猫が存在する為にはそれで十分だった。だって、僕の世界の外の事なんて知らなくても問題はないもの。何かあったとしても猫のボクにできる事なんて殆どないし、バトラーたちが解決するのだろう。
ボクは害的存在に対しては無力だ。鋭い爪があるといっても、そもそも体が小さいし、相手が堅い皮膚を持っていたり厚い装甲を付けていたりすれば無意味だろう。足もそこまで速くはないだろう。高い所に飛び乗れるようにはなったが、オレの運動能力が低い事に変わりはない。
ボクにできる事など、そう多くはないのだ。
『己の無力が嫌になった?』
オレにできる事が少ないのは今更の話だ。どうせ、昔から僕は無力だった。何もできなかった。出来る事は何でもやったけど何も成せなかった。何もできなかった。何もできていなかった。だから、僕はずっと昔から無力なのだ。今更嫌になっていても仕方がないことだ。どうせ僕は力を得たいと望んだ事もない。
力を得るための努力をしないものに力ない事を嘆く資格はない。
『でも、だからって諦めるの?』
諦めるって何を?僕が何かを望んでいたとでも言うの?望む事もしていないのに何を諦めるというの?求めるものなんて何もないよ。だから、何も諦めたものはない。ボクは与えられたものだけで充分だよ。それが理不尽に奪われなければ何も言わないよ。
ねえ、知っているでしょう?君はちゃんと知っているでしょう?
ボクは多くを望んだりしない。ただ、平穏に日々を過ごせればそれでいいんだ。僕を愛してくれる人の傍に荒れればそれでいいんだ。居心地のいい場所にいられればそれでいいんだ。
『それは愛してほしい、居心地のいい場所にいたい、と望んでいるということじゃないの?』
ボクは、望んでいるのかな。此処にいたいと、此処が居心地のいい場所だと思っているのかな。ただ単に出ていくのが面倒だから、外に出た所で生き延びられる自信がないから出ていかないだけじゃないのかな。ボクは望んでいるのかな。
『それを判断するのはあなたでしょう』
そうだね。ボクはきっと、そう思っているんだ。そう望んでいるんだ。
窓辺に座ったまま、うとうとしてしまっていたらしい。気付けば既に日は落ちかけていた。
旦那様はまだ帰っていないのだろう。けれど、幾分屋敷の中の気配は慌ただしい。今日中には帰ってくるという事だろうか。
オレはあくびをかみ殺す。変な所で寝た所為で微妙な体勢のまま眠っていたらしく、微妙に身体の節々が痛い。大きく伸びをしてからまた座り直す。
暗くなれば帰ってくるのが見えないかもしれない。猫の目は暗くても見えるとは言っても、距離があるのだ。だが、暗い中を暗いままで帰ってくるというのも変な話だから、明かりでわかるかもしれない。ならば、やはり見えるのだろうか。まあ、その内わかるだろう。
今日の月はどんなものだろうか。いや、そもそも最後に月を見たのはいつだっただろう。この世界に来てから見ていないという事はなかったような気がする。いや、見ていなかったか?どうだったかな。覚えていない。
「なうー(はやく、帰って来ないかなあ)」
そんな事を呟いてみる。それに意味なんてないけれど。
もうすぐの時間が早く来ないかなあ。
そろそろ、もうすぐの時間にならないかなあ。