7、こわいものは何?
夜、ボクは一人でボクの寝床の中で丸くなっていた。
眠くない。
旦那様がいないから、疲れる様な事が殆どなかったからかもしれない。
眠くない。
眠くないんだ。
「…なー(眠くない)」
口に出して呟く。猫の鳴き声だから、人には何て言っているのかなんてわからないだろう。いや、そもそもこの場には僕しかいないのだから関係ない。聞いているとすれば、いつも、僕の中にいる彼女。
『それで、眠くないからなんだって言うの?』
別に、どうという事もないけど。
でも、このままごろごろしているのは、何か、嫌だな。
『じゃあ、屋敷の中を歩き回ってみる?』
それも、いいかもしれない。
でも、行く所なんてないよ。今は旦那様はいないし、夜中に尋ねていって大丈夫だと思える人なんていない。だって、みんな忙しいから、夜はちゃんと眠らなきゃだもん。
ああ、でも、夜中が仕事の人もいるのかなあ。夜勤というか、何か、そういうの。でも、そういうヒトは仕事中だから、邪魔しちゃいけないよね。
『なら、誰の所にもいかなきゃいいんじゃない』
…ああ、そうだね。そうかもしれないね。
歩き回ろう。何の目的も持たずにウロウロするのも、いいかもしれない。
夜の屋敷の中を歩き回る。
静寂に満ちたそこは、何だか恐ろしい程に静まり返っていて、ボクは自然と歩みがゆっくりになった。
皆寝てるのかな。
立ち止まり、窓を見上げる。月は見えない。けれど、新月というわけでもない。ただ、視界にないだけだ。暗い空に、星が幾つも輝いている。
ボクは星座にはあまり詳しくないから、精々オリオン座ぐらいしかわからない。それも、見える範囲には無いようだった。いや、この空はボクの知っている空とは違うのかもしれないが。
『同じかもしれないわよ』
そうかもしれない。どちらにしても、詳しくないボクにはよくわからない。わからないから、どうでもいい。
どうでもいい。
『…あなたはいつもそうよね』
そう、って?
『どうでもいい、って。本当にどうでもいいの?』
どうでもいいから、どうでもいいんだよ。どうでもよくなかったら、どうでもよくないよ。だから、どうでもいいことはどうでもいいんだよ。
どうでもいいんだよ。
『…そう』
もう一度空を見上げる。星が輝いている。でも、その星の名は、そもそも星に名があるのかさえ、ボクにはわからなかった。
人とすれ違う事はなかった。夜遅くだからだろう。
それが、寂しいような、そうでもない様な、そんな気がしていた。気にするほどの事でもないとも思った。
ボクはとある階段の踊り場で、窓枠へ飛び移る。窓の外は、暗い世界が広がっている。
静かだ。
何にも聞こえない位に静かだ。
ボクはぼう、っと窓の外を見おろす。訳もなく、不安感を感じていた。
ふと、周囲の雰囲気が変わる。
何も目に見えた変化はない筈なのに、周囲が暗くなったと感じる。ボクは思わず身を固くした。そして同時に、奇妙な既視感を感じていた。
ボクは、この感覚に覚えがある。
「...chatte le duc volfe」
聞き覚えのある低音の、ボクの知らない言葉の羅列。
「なーん(名前忘れたけど、旦那様の部下?のヒト?)」
問いかけながら、ボクは振り返る。思ったとおり、暗い色の人外がそこに立っていた。そいつはボクを見て目を細めた。
「...sortir seul c'est risque...」
さっぱり何を言っているのかは分からない。しかし、何やら責められている様な気がした。
「なーおう(眠くないもん)」
「...parole nenni saisir...」
そいつはそう呟いて、冷たい手でボクを撫でると抱き上げた。
「みー(何?)」
「remportent...lieu en duc volfe...veto laisser a il y a...」
そう言って歩きだす。どうやら、何処かに僕を連れて行こうとしているようだ。敵意を持っている感じはないので、大人しくしていた方がいいだろうか。
…まあ、外に連れ出そうというのでなければ、大人しくしていても大丈夫だろう。多分。
それに、彼?は旦那様と違って抱っこするのが上手なのだ。触れる温度が冷たいのは、少し、心細くなるけれど。でも、その揺れ心地は、寧ろ安心する位で、ボクは少し、眠気を感じ始めていた。
『眠くない、って言ったばかりなのに?』
眠くなかった。けど、何だろう。揺りかごにでも揺れている様な感覚?
ちょっとずつ、眠くなってくる。
「...endormi?chatte...pourvu que dormir」
揺れが少し穏やかになる。もう眠ってしまおうか。でも、流石に眠るのは不味いかもしれない。彼は警戒するべき対象なのかどうか、ボクの中に答えがない。
でも、彼は旦那様の部下みたいだから、多分大丈夫…なのかなあ。どうなんだろう。
…まあ、いいや。なる様になるだろ、多分。
彼はボクを旦那様の部屋にあるボクの寝床に降ろした。そうして、音もなく部屋を出て行った。
どうやら、大人しく寝ていろ、という様な事を言われていたようだ。
相変わらず静かな部屋だ。
「…なー(ひとりは、寂しい)」
口に出して呟いてみた。しっくりくるような、そうでもない様な。
どうなんだろう。ボクは寂しいんだろうか。寂しいと思っているんだろうか。
寂しいと思う様な、心を持っているとでも言うんだろうか。
ボクに、心なんてない筈なのに。
『あるんじゃないの?心』
そうかなあ。ボクにもあるのかなあ。
『だって、もし心がなければ、何があっても辛いとか、悲しいとか、思わないでしょう?』
そうかなあ。そうなのかなあ。ボクにも心があるのかなあ。
ないと、なくしたと、捨てたと、壊れたと、いらないと、思っていたのに。もう、ボクには無いものだと思っていたのに。失ったと思っていたのに。
あるのかなあ。
『それでもきっと、本当に失う事なんてできないのよ』
そうなのかなあ。ボクは、本当に心を失っていなかったのかな。
もし、そうなら