2、僕は猫
『いつまで惰眠をむさぼるつもり?そろそろ起きたらどう?』
…うん、起きる。何時迄も寝てるのはよくない。よくないもの。だから起きなきゃ。そうだよね、うん。
…あれ?何かおかしい。何がおかしい?おかしい。おかしい。おかしい。ねぇ、何がおかしいんだろう。何かおかしい?おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい。
『少し落ち着きなさいよ。ねぇ、何がおかしいと思うのか言ってみなさい?』
ボクは今、何処にいるの?
『口に出していってみなさい』
「にゃー(此処は何処?)」
・・・
『・・・』
ボクは、猫?
『猫ね。まごう事なき猫ね』
あれ?ボクは猫で、でも、人間で、猫で、猫で、猫で、猫で、…あれ?
『…まあ、とりあえず、歩いてみましょう。何処にいるのかわからないなら調べなきゃ。ついでに鏡でも探して自分の姿を見てみたら?』
うん。そうする。君がそういうなら、そうすべき何だろうね。とりあえず、歩いてみよう。歩いて、見よう。此処が何処なのか。歩こう、何処か。
ちりんちりん、鈴が鳴る。ボクの首には鈴が付いているみたいだ。鈴の音は好きだ。うん、好き。少し嬉しくなる。ボクが歩くと、鈴が鳴る。ちりんちりん、ちりんちりん。
ボクが眠っていた柔らかいものをでて、細く開いていた扉から外に出る。そこは見知らぬ家の中だった。知らない家。ボクの家じゃない。此処は何処だろう?何で此処にいるんだろう。わからない。
今の所、この家の住民らしき姿は見ていない。家が大きいのか、ボクが小さいのか、この家はとても大きいと感じる。角を曲がり、階段があったので駆けのぼる。階段を駆け上るのは好きだ。階段には踊り場があった。大きな窓から光が差し込んでいる。
『外は見える?』
窓は高い位置にある。ボクで届くだろうか?いや、届くはずだ。だってボクは猫だから。猫だから届くはずだ。だってそうだろう?猫は高く飛べる。そうだろう?
オレは少し下がって勢いをつけてジャンプした。
…ちゃんと乗れず、前足を引っ掛けてよじ登る事になった。情けない。まあ、ボクはあまり運動が得意ではないのだ。猫になったからと言って、初めから上手くやれるわけはないのかもしれない。
窓から外を見る。空は青い。見上げれば太陽が昇っている。まだ午前中だとは思うのだが…そういえば、今は何時なのだろうか。
まあいいや。どうでもいい。ボクは猫なのだから、時間など関係の無い事だ。だってボクは猫なんだから。
窓から見下ろすと、地面が随分下に見えた。どうやら、この家には大きな庭があるようだ。それも、西洋風の。まあ、この家自体が西洋風だから、西洋風の庭が付いていても何もおかしくは無い。寧ろ、当然の事だ。
「おやおや、お嬢様、そんな所に登ってはいけませんよ」
知らない人に抱きあげられた。男の人だ。多分、日本人じゃない。だって、髪の毛が薄い金色だもの。目も綺麗な青い色をしている。その青い目がモノクルの奥で、キラキラと細められる。
「お腹が空いたんですか?すぐに朝食を用意してあげますからね」
「にゃーん(それは助かるかもしれない)」
あまり、空腹だとは感じていなかったが、食事は必要だ。特に朝食は頭を働かせるためには必要不可欠だ。寝起きの頭はガス欠なのだ。エネルギーが必要なのだ。空腹でなくとも食べるべきなのだ。
男の人の長い指がボクののどを撫でる。ちりちりと鈴が鳴る。ごろごろとボクの喉が鳴る。気持ちがいいから、という生理現象の様なものだろう。目を閉じる。もうちょっと、耳の方も掻いてほしいなぁ。
陶器のお皿にお魚と思しきものがのっている。ボクの前に差し出された、という事はボクが食べていいんだろう、多分。
…いいんだよね?
「どうぞ、お嬢様」
男の人がにっこり笑う。ボクは遠慮なく食べる事にした。まずは、注意深く匂いを嗅ぐ。どうやら、刺激物の匂いは無い。魚そのままの匂いがする。…いや、他にも何か入っている…かな?まあいいや。ゆっくりと口をつける。塩味が少なく、素材そのまま、という感じの味だ。そういえば、猫には調味料をあまり与えてはいけないと聞いた覚えがある。それでだろう。まあ、元々食事にそれ程執着は無い。ちゃんと栄養が取れれば十分だ。
不味いわけじゃないし。
「――バトラー、ネロがいない!!」
「旦那様、落ち着いてください。お嬢様ならここにいらっしゃいます。お食事中です」
騒がしい音を立てて、男が走ってきた。何やら騒いで、さっきの男の人に怒られている。まあ、放っておこう。ご飯が先だ。食べてから考えよう。食事は大切だ。うん。
「こんな所にいたのか…目が覚めたら居なかったから心配したんだぞ」
「しゃーっ(食事の邪魔をするな)」
「?!」
「旦那様、お嬢様はお食事中だと申しあげたでしょう」
そう、食事は邪魔してはいけないものなのだ。取られるとかは別に思ってないが、食事中に触られるのはちょっと不快だ。邪魔する奴は怒られればいい。…もう少しで終わるんだから待ってくれればいいのに。
目の前の皿に入っていた料理を平らげると、顔を洗う。ひげとか、口の周りとかに食事の跡を残すのは行儀が悪い。ついでに毛繕いもする。どうやらボクの毛色は黒であるようだ。そういえば、ネロとか何とか言っていたな。何処かの言葉でネロは黒と言う意味だった…ような気がする。あれ、違ったっけ?…まあいいや。多分、ボクがネロと呼ばれているとしたら、この毛色からだろう。艶やかな漆黒の短毛。尻尾は長い。まあ、所謂テンプレート的な黒猫で間違いないだろう。瞳の色が何なのかは今のところわからないが。
「満足されましたか?お嬢様」
「にゃー(まあ、大体)」
ご飯をくれた方の男の人に背を擦りつける。猫はご飯をくれる人に懐くものである。むふぅ。
そうしながら、二人を観察する。ご飯をくれた人(確かバトラーと呼ばれていた)は金髪碧眼だが、もう一人(確か旦那様と呼ばれていた)は綺麗な空色の髪の毛をしている。目の色は緑と紫だ。何だか、とても目立ちそうな色合いである。というか、地球にはありえない色合いだ。青系の色素は人間の髪の毛にはないのだと聞いたような覚えがある。だが、どうやら染めているという様子ではない。自然な髪色があれなのだろう。
ふむ。どうやらここは、ボクの常識など通用しない世界なのだろう。
さらに二人を観察する。バトラーは黒いスーツというか…燕尾服?を着ている。その名(呼び名?)の通り、執事なのかもしれない。よく見ると、左手には白い手袋をしているが、右手は素肌のままだ。そういえば、撫でてくれたのは右手だった気がする。ボクを撫でる為に手袋を外したのだろうか?対して、旦那様の方は、恐らく寝巻であろうシルクのガウン?だ。着崩れている。
…っていうか、今更だけど、ボクの気のせいかな?耳が尖ってる気がする。後角が生えてる気がする。羊みたいな巻き角。飾り?それとも本当に生えてるの?ボクの気の所為?
「ネロ、もう触ってもいいか?」
「にゃーん(勝手にすれば)」
恐る恐る、というように旦那様がボクの前に手を伸ばす。仕方がないので、ボクの方から頭を掻かれに行く事にした。ていうか、動きが不審すぎるんだよ、あんた。
旦那様の指は細くて長くて白い。後、爪もちょっと長い。ちゃんと切るべきだと思うけど。
「…ところで旦那様、お召し変えがまだの様ですが」
「ネロが見当たらなくて心配だったんだから仕方ないだろう!」
「ヴェルフォール家の当主たるもの、どんな時も泰然自若を心がけずしてどうするのです。屋敷の中と言えど、ナイトガウンで歩きまわるなどもってのほかです」
「へいへい」
「旦那様」
どうやら、旦那様は”ヴェルフォールケノトウシュ”であるらしい。偉いんだろうか。まあ、旦那様と呼ばれてる時点でそれなりに偉いんだろうが。まあ、猫であるボクにはあまり関係ないか。しかし、屋敷という事は、この家は大分広い、という事で間違っていなかったらしい。まあ、ボクの体が小さいのもまた確かだが。
旦那様がボクを抱き上げる。抱き方が下手なので左の後ろ脚が宙に浮いている。ちょっと不快だ。そのまま蹴りを入れてやる。
まあ、何処にも当たらないんだが。
旦那様の着替えの間、ボクはまた毛繕いをする事にした。野郎の着替えに興味なんかない。美女の着替えとかならちょっと見たいかもしれないが。でっかいおっぱいはロマンだ。まあ、自分がほしいとは思わないが。
とはいえ、さっき一度毛繕いした所だったので、すぐに毛繕いは終わってしまった。仕方がないので少し部屋の中を見て回る事にした。未だに着替えをしている旦那様は意図的に視界から外す。野郎の裸を見て何が楽しいというんだ。
そしてオレは大きな鏡を見つけた。所謂、姿見と言う奴だろう。それに自分の姿を映してみる。黒い、猫だ。しなやかな長い尻尾、とがった耳。目は、青と緑。いや、鏡に映っているんだから緑と青、と言うべきか?まあ、とにかく左右で違う色の瞳だ。異色症とか、オッドアイともいう。そういえば旦那様もオッドアイだった。
ボクが手を上げると、鏡の中の黒猫も手を上げる。引っ掻く様にしてやれば、鏡の中の猫も同じように動いた。
「どうした?ネロ。鏡が珍しいのか?」
旦那様がボクを抱き上げる。矢張り下手な抱き方だ。というか、抱き上げると言うよりも、持ち上げる、という方があっているかもしれない。後ろ足が何処にもつかなくて揺れている。不愉快だ。思いきり暴れてやったら旦那様は手を離した。そのまま一回転して着地する。旦那様は意外と背が高い。
「…お前はオレが嫌いか?」
別に嫌いじゃないがお前の抱き方は下手すぎて不快だ。
オレを一緒に連れて行こうとしてバトラーに怒られたりしつつ、旦那様は何処かに出かけていった。まあ、出勤的な何かだろう、多分。どうやら成人の様だし、学校とかではあるまい。大学とかに行くにしては格好が、何とか云うか…礼服、という感じだ。かっちりしていて、尚且つ派手、というか。まあ、旦那様が何処に行こうと、オレも一緒に行くわけじゃないから関係ない。玄関の扉は閉められてしまったし。
ボクはとりあえず、屋敷の中を探検する事にしようかな。見ると、幾つかの部屋は細く扉が開けてある。どうやら、開けてある扉には入っていい様だ。逆に、入ってほしくない部屋は扉をきちんと閉めてあるのだろう。面白いものがあるかは分からないが、まあ、色々見て回ってみようじゃないか。