10、みえないもの
結局、次の朝バトラーさんには怒られなかったけど残念なものを見る目で見られた。まあ、仕方ないかと諦めているようだった。さじを投げられたというとまた違うのだが。
何故だかわからないが旦那様は"いつも通り"じゃない。何が違うのかはよくわからないが、いつも通りじゃあない。何が違うんだろう?
「なーん(元気ない?)」
「ん?どうした、ネロ」
旦那様はボクを抱き上げる。ボクは膝の上。旦那様は書類を脇に置いたみたいだ。何となくこの人を今一人にしておいてはいけないと思う。根拠はない。何となくだけど、そう思う。オレは傍にいる事くらいしか出来ないけれど。ただ傍にいる事しか出来ないけれど、ただ傍にいる事ならできるから。
「なー(さびしいの、大丈夫?)」
「今日はやけに積極的だな、ネロ」
言葉が通じないのがもどかしい。ボクの言葉が伝わらないのが、彼がわかろうとしないのが、伝えられないのが、もどかしい。オレは猫だから、人の言葉を操る事が出来ないのだ。まあ、猫が流暢に人の言葉を話したらとても違和感があるだろうが。そもそも顎の構造とかの問題で発音できない音とかがあったような気がする。
片言ぐらいは話す猫もいるらしいが、それはまあ、別問題だろう。
「なうー(何処か痛いの?)」
「オレがいない間寂しかったのか?」
ボクらの会話はかみ合わない。言葉が通じないのにかみ合ったらそれはある意味奇跡みたいなものだと思う。旦那様は猫じゃないから、猫の言葉はわからないのだろう。ああでも、だとしたら、ボクはどうやって彼に尋ねればいいのだろう。彼に聞いてみたい事が、話してみたい事が幾つもあるのに。
でも、バトラーは最初からうまいこと僕の言いたい事読みとってくれてたよね?うーん。執事はハイスペックじゃないといけないのかな。何でもできないといけないのかな。旦那様の出来ない事を補うために。
「なーなん(いつもと違うの、何で?)」
「ネロがデレ過ぎててオレ幸せすぎて昇天する…」
ダメだこの人。燃えるゴミだ。
爪を立ててやろうか。引っ掻いてやろうか。いや、やっぱり猫パンチで我慢しておいてやろう。オレは旦那様の胸に猫パンチを叩きこむ。ダメージが殆どないのは知っている。大事なのは行動する事。意思を示す事。それを正しく受け取ってもらえなくとも、行動しなければ、主張しなければそれはないのと同じだから。
「なーう(真面目に聞いてるのに)」
「何だ、機嫌が悪いのか?」
旦那様は少し困ったような顔をする。そういう顔をさせたい訳じゃないのに。
オレはただ、ただ、ただ…
…。
ええと、オレは何がしたいんだろう。旦那様に何がしたいんだろう。旦那様にどうしてほしいんだろう。どうしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。
ボクの望みは何?
「…ネロ?」
「なうー…(オレは何にもできないから?)」
結局の所、オレにできる事なんて何もないんだ。何もしないことをすることしかできないのだ。
オレは此処に存在する事しか出来ない。誰かの為に何かをする事は出来ない。そんなこと、昔からわかっていた筈だろう?だって、オレは昔から無力だったのだから。逃げ回る事しか出来なかったのだから。立ち向かっても意味などなかったのだから。ボクはいつだってひとりで、何もできない役立たずだ。それなのに存在する意味なんてあるのだろうか?自分から消えたいとはけして思わないけれど、でも、誰かに消されそうになった時にそれに抗う事がオレにできるんだろうか。そうする権利があるのだろうか。
何も出来ないオレが、人に何かを望むなんておこがましいじゃないか。人の邪魔ばかりして、迷惑をかけて、怒られて、そうやって情けない思いをするだけじゃないのか?
「ネロ、大丈夫だ。お前はちゃんと役に立ってる。オレの大切なネロだ」
ぎゅう、と抱きしめられる。ボクは首を傾げる。僕が役に立ってる?そんな訳ない。ボクは何もできていない。
「なーう(慰めならいらない)」
自分の事は自分でちゃんとわかっている。オレは何もしない事と迷惑をかける事くらいしかできない木偶の坊だ。そんな僕が何の役に立てるというのだろう。何も成し遂げられやしないのに。
「ネロはオレを癒してくれるだろう。だからオレは今此処に居られるんだ」
アニマルテラピーとかいうやつだろうか。まあ、そういうものなら相手の心持しだいなのかもしれない。ボクには判断できない。癒されるってどういう事なのかよくわからないから。癒されたから此処に居られるってのはまあ、大袈裟に言ってるだけだろう。そこまでの影響があるとは思えない。
「そんな顔するなよ、ネロ。オレはお前に一緒にいてほしいと思ってるぞ」
「なー(本当?)」
「オレが嘘をつくと思うのか?」
どうだろう。この人は嘘をつくだろうか?隠し事はしそうな気がする。嘘をつくにしてもつかないにしても、己の利になる行動をするのだろう。それが当然の事だ。己の利にならない嘘も本当も、価値はないはずだ。
でも、それでも
「なーん(それが、本当だといいなあ…)」
この優しい場所に、ずっと居られるのならいいのに。
この所、やけに眠い。いや、猫なのだからおかしくないのかもしれないが、いつだってすぐに眠ってしまえそうな気がするのだ。オレはそこまで居眠りキャラではなかった筈なのだが。寝汚かったり、寝付くとさっぱり起きなかったり、睡眠時間が長かったりはしたかもしれないが、一度起きれば夜寝る時までちゃんと起きていたと思う。昼寝をしたりはしなかった。
…はて。猫は寝るものだ。なら、猫である筈のボクは何故昔は眠らなかったのだろう。眠らずにする事があったのか?猫なのに。いや、猫にやる事があったらおかしいという事はあるまい、多分。
『…あなた、思い出したいの?思い出したくないの?』
何を?ボクはきっと沢山の事を忘れているよ。忘れた事すら忘れている事すらきっと沢山あるよ。だって、昔から僕は忘れっぽかったんだもの。きっと、死んでも直らないんじゃないかな。ボクは忘れっぽいから。
『自分が"何"だったのか』
何って、何?
君は僕が何を忘れたのかを知っているの?
『あなたが知らない事は知らないわ。でも、あなたが思い出せない事は、知らないというわけではないから私にはわかるの』
オレは、思い出せないでいるのか。
『或いは、思い出したくないのかしら』
思い出したくない事なら沢山あるよ。当然だろう。だから僕は忘れるんだ。だから僕は忘れたんだ。覚えていたくないから忘れるんだ。それは、悪い事?
『…別に、いいんじゃない。それで支障が起こらないと思うのなら、別に』
ボクは忘れたいと思っていたのだろうか。だから覚えていないのだろうか。覚えていたくないほどに嫌な事があったのだろうか。どうだろう。どうなんだろう。どうだったんだろう。
何を忘れていたってまあ、関係ないよね。だって、此処は僕が元々いた場所じゃあないもの。
あの日、目が覚めた時に、それまでのオレとそれからのオレは違っていたのだもの。でも、だとすると、どうしてそうなったんだろうって思わないではないけど、それは多分オレには知りようの無い事だから。
でも、だけど、オレはそれでいいのかな。それでもいいのかな。
どうだろう。
忘れたままでも大丈夫?
今まで困った覚えはないから大丈夫かな。きっと、大丈夫だよね。大丈夫だといいな。
『…でもね、あなたにその気さえあれば、簡単に思い出せるはずなのよ』