12.籠の中の鳥〔3〕
眠いはずだった。
なのに、午後十一時になっても目はさえていた。
自室でベッドにつっぷしながら、ただ、ぼう然と、ばく然と、今日のことを思い出していた。
いまだ分からないのは久瀬くんの反応。
もう一度、声を出してつぶやいてみる。
「知ったことか」
いったい、久瀬くんは藤生氏のことをどう思っているのだろう。あの言葉は誇張でも比喩でもない。ほんとうの気持ちに違いなかった。
私なら平気で言えない。どうなろうと、知ったことじゃない……とは。
私以外に唯一、藤生氏のことを知る人間で。そして私以上に知っていて。上方落語ファンつながりは仕込みネタだとして。
藤生氏の<左目>。
魔のものの上主様としての、藤生氏のキーらしい。現在と感情をつかさどるという。
ベッドの上でごろり、寝返りをうつ。
「左目と右目。そうや、右目さん」
藤生氏にはもうひとり、キーになる人がいる。
ごめん。人、というのは間違い。過去と知識をつかさどる、魔のもの。E.T.みたいな、右目さん。
久瀬くんは右目さんの連絡先、知らないんだろうか。
以前、久瀬くんのメールボックスを見せてもらったとき。右目さんあてというものはなかった。知らなさそうだ。そもそも魔のものの世界とメールのやり取りってできるんかね。
まったく眠れそうにない。私はむくりと起き上がった。
カーテンを開けた。窓からの冷気に少し、体をひいた。
外をながめた。苅野旧市街が一望できる。
リビングからの眺望は城山の向こうにニュータウンのマンション群が望めて最高なのだが、わたしの部屋も悪くはない。旧市街は高い建物がない。平板な黒い板に白い絵の具をスプレー状に散らしたような夜景だった。『苅野幹線』と呼ばれるニュータウンへの道は、この時間でも光の粒が行き交っている。
「サナリさん」
ふと思い浮かんだのは、コンビニの魔物さん。
そうだ。右目さんに連絡を取ってもらうのだ。サナリさんに。
ただネックになるのは、あの会話だ――手段としてはあるけど、やっちゃいけないってことですか。そういうことです。
サナリさんに、禁をやぶってもらおう。
禁を破ってもらうサナリさんには申し訳ないけど。……藤生氏は分かってくれる。このことでサナリさんを罰するのなら、私は説得しよう。サナリさんに頼んだのは、私だって。
じっと手をこまねいているより、よいはずだ。
そうそう。久瀬くん、サナリさんにも話すと言っていた。そのときにサナリさんに頼んでもらおう。私の案、彼は夕方には考えついていたかもしれないけど。
とりあえず連絡だ。
私は携帯電話に手をのばした。
手にしたとたん、それはぶるぶると、震えた。
びっくりして液晶の表示を確認する。電話番号と、久瀬くんの名前が表示されている。
えらいタイムリー。
なんだかうれしい気がした。
滅入る気持ちも少し晴れた。着信ボタンを押して、語調明るく応答する。
「はいー」
『久瀬ですけど。今、ええ?』
声はいくぶんかすれ気味に聞こえる。気のせいだろうか。
「問題ないよ」
『鹿嶋から電話があって。妙な写メが来とおって』
「鹿嶋くん?」
『その画像、一見、夜の一コマってだけやけど、どうも総領神社の石段っぽいんや』
総領神社。
気になりつつも、私はうんと相づちだけうって、次の話を待つ。
『だれからのメールかってーと、アドレスからして武崎さんからやと、鹿嶋は』
「なつき、から?」
ぞくっと、背中をなにかが走る。
『本文もない。ただ暗闇の写真だけで、鹿嶋、パニくってる』
こんこん、と音がする。
悲鳴が出そうなのをこらえて、音のするほうをふりかえる。
「はるこー。電話よー」
お母さんのノックだったのだ。
ほっとした代わりに、イライラがつのる。
「今、電話は」
「武崎さんのお母さまからやけど」
『いったん切る。そっちに出て』
耳もとの電話は音が途切れた。
立ち上がって自室を出る。お母さんはドアのすぐ側で受話器を持ち待っていた。
私は親機のあるリビングには向かわず、その場で電話に出た。
『武崎の母です。あなた、天宮はるこさん?』
との問いに答える間もなく、その人は矢継ぎ早にたずねるのだった。
『なつき、ちゃんと病院行ったか知らない? いつまで一緒にいたか教えてくれへん?』
一瞬、頭が真っ白になる。
かろうじて話せたのは、
「なつき、なにかあったんですか」
私、動転している。なにかあったから電話をかけてきたに決まっているのに。
『まだうちに帰ってへんのよ。病院にも問い合わせてみたけど、来てへんって。天宮さん、いつまでなつきと一緒にいたか、教えてほしいのよ』
鹿嶋くんの写真メール。
総領神社の石段……。
さっきの久瀬くんの話が、頭をぐるぐる、めぐっている。
だめだ。まだよけいなこと言ったらだめだ。
こみあげる出来事をすべてのみこんで、受話器を両手でささえた。
「四時頃まで、グラスタウンのお店にいました。渡辺さんと、苅野北英高校の友達とで。それで、四時前になって、なつき、一人で出て行ったんです。……なつき、帰ってないんですか? 病院にも行ってないんですか?」
なつきのお母さんは短く礼を言うと、電話を切った。
私は……コートとマフラーをクローゼットからひっぱり出した。
「こんな時間にどこ行くんよ!」
背後でお母さんのわめき声が飛ぶ。私はおざなりに答えた。
「友達のところ!」
その友達は今、どこにいるのか分からない。
それでも私は夜闇へとかけだしていった。