Interlude 10.
部屋は湿り気と寒気に包まれていた。
藤生氏がこめかみを押さえ、のどの奥でうなる。
その感覚は、ただの傍観者でしかない私をも容赦なく巻きこんでゆく。
今すぐ断ち切りたい程にひどく、辛く、苦しい。沈み込む様な頭痛。こみあげる吐き気。息も詰まらんばかりの胸。重石を結び付けたような手足。目覚めてもなお、音もなく、まどろみの中に溶けてゆく。痺れて再び薄らぎゆく精神。遠くなる意識。
少女はいなかった。
柔らかなベッドの中、毛布に包まれて眠りに着く。
ライティングデスクのほのかな灯りが少女に陰影を添え、彼はそれを眺めていた。
確かそのはずだった。
だが今は、きれいなままの抜け殻だけがベッドにその痕跡を残している。
揺らめくように立ち上がった藤生氏は、そのまま大きく傾いた。ソファーの角で堪えるように体を支え、窓際ににじり寄る。窓は開け放たれ、外の闇と霧を呼び込んでいた。
「<眠りの霧>やったかな」藤生氏が頭を上げる、「白夜の、闇」
窓の外は墨を空に散らしたようだ。
港に停泊する船はおろか、街灯でさえもその視界に入らない。この地の夜は今、自然の有るべきかたちを崩しているのだ。
窓の桟に怒りを叩きつけ、藤生氏は嘆きの息を吐く。
「花瓶ないと、おれ、なんもできんのな」
夜陰から空ろな眼をはずす、藤生氏。
色だけは温かく満ち足りた部屋。彼はその中をさ迷うように歩く。戒めを引きずるように、緩慢に。
サイドテーブルには彼のバッグがあった。錆びた十字架も残っている。だが少女の持ち物である茶色いリュックは無かった。ベッドサイドからその姿を消していた。
「気づかずに行ったのか。おれが『あれ』くすねてたって」
藤生氏はひざまずき自分のバッグを探った。
それもまた素早く終え、その手を止める。わずかに口の端を上げ、頭をもたげる。
「一応、探したっぽい、かな」
パソコンも小物も数冊の書籍も。彼は、すべての荷物をバッグの中におさめた。
そして藤生氏は壁面に手をかざす。
するとその手と壁面のすき間から光があふれ出し、インクが染みるように円状に、その面積は広がっていった。やがて光の円がフラフープの大きさになった頃、そっと、その手は外された。
そこにバッグを押し込んで、光に触れて引き戸を閉ざす動作を行う。
暫時、壁面から光は消えた。
「花瓶なしで魔法使ってもた。となると、おれの居場所はそこら中バレてもとんのやろな」
藤生氏は深く首を垂れた。
彼の前にあるのは灯りに黄みがかったなんの変哲もない壁だ。
追うか。いや逆に追われるかも。そうなったら、逃げて隠れるか。
「<呪>はぜんっぜんないし、ケンカは勝てるみこみないし」
そんな弱気さをうかがわせる発言とは裏腹に、藤生氏の表情は薄ら笑いだ。
柔らかな灯りより背を向けて、藤生氏は再び窓際にもたれかかる。
「結果どうあれ、追うのが王道、かなあ」
彼は天をあおいだ。
そして窓を飛び越え、そのまま漆黒の空に吸いこまれてゆく。