10.胡桃のお菓子に誘われて〔4〕
「イヴでお楽しみのとこ、邪魔してごめんな。実は頼みがあるんやけど」
久瀬くんは電話中。相手はかのん。工作手配中である。
「……いや事後とか鬼畜とかええから」
事後。鬼畜。なんだそりゃ。
「そう、要するに今日は渡邊さんも一緒やったってことに」
久瀬くんはよろしく、とゆっくりと告げる。話がまとまったようだ。大仰な手ぶりで通話を切ると、携帯電話を私に返して、
「以上、了解とった」
「かのん、なんて言って」
「分かったぁ。うまくやっといたげるから任しといてー」
久瀬くんは深く、息をついた。いつも以上に疲れている。
「よけい泥沼化を招く懸念ハンパないんやけど」
今晩は、安賀島さんのお宅に泊まらせてもらうことになった。
ナナツギスミタカの話を聞いていたら、遅くなってしまったのだ。さらに明日の早朝、文書とかを見せてもらえる約束になっている。
安賀島さん一家はとても多忙な年の瀬なのだ。小さな神社もいろいろ準備があるらしい。手作りしめ縄を編んだり、あいさつ回りをしたり。別の神社も兼務してるそうで、そちらの準備はもっと多忙。お守りや破魔矢のチェックしてご祈祷して、氏子さん巫女さんと打ち合わせもして。さらに地域史家としての活動もあり、その納会も。
そんなもろもろで時間的に余裕がない。「どうせやから泊まってき」ということになった。「寝巻きは息子と妻ので良ければ」「なかなか外泊できる機会もないだろう」って。
そこには多分に、勘違いが含まれているかもしれない。
家には安賀島夫人にお電話を入れてもらった。お話を聞かせてもらうことと、『友達』と泊まること。スンナリ話がまとまったようだ。意外と安賀島さんは有名人で、苅野カトリック婦人会とやらの関係でうちの母親が知っていた。それですぐに信用したようだ。
『友達』役にはかのんを抜擢。お願いのメールをしたところ、なぜかこんがらがってしまい、見かねた久瀬くんに交代とあいなった。
「まあなるようになるでしょ」
「潔いね。天宮さんて」
「北英って、休みも補習あるって聞いたけど大丈夫なん」
「そっちの心配するん? まあ、別に出ろって言われてへんし、バイトのほうが大事」
そこで休むあなたもまた優秀なのですね。ハイハイ。
「でも天宮さん。藤生君が現れたらちゃんと弁解してな。僕、なにもしてませんて」
なにもしてません、か。
そうなんだろうなあ。久瀬くんは。私のこと、女の子じゃなくてRPGのパーティ・メンバーみたいに思ってるんやろし。
たぶん妙に意識してるのは私だけなんだろう。すぐそばに、男の子がいる。
眼鏡をかけた顔。洗いざらしにドライヤーで乾かす手を抜いて、半乾きの髪。シャンプーの香りが私といっしょ。
舞台道具だけは素敵なイヴ。……だめだ思い出してしまう。
『エサイの根より 生い出たる 奇しき花は 咲き初めけり 我が主イエスの 生まれ給いし この良き日よ』
去年までは好きな歌だった。今年は……だめだ。
「その歌は?」
あれ。無意識に口ずさんでいたのかな。
相当、私、病んでるかも。
「賛美歌。『エサイの根より』って題名」
「そのまんまなタイトルやな。でも良さげ。もっかいリクエストしてええ?」
ためらいがちにもう一度歌う。
久瀬くんはギターを持つふりをする。弦を押さえ弾くように指を動かす。ここのコードは、とうつむいてぶつくさ言ってる彼の姿は少し、変だ。
分かった。そうつぶやくと、抑えた声で歌を奏でだす。
『イザヤの告げし 救い主は 清き母より 生まれましぬ 主の誓いの 今しも成れる この良き日よ』
霧が少しずつ、晴れてくる。
不思議だ。雪解けのように不安は解けていく。
やるせないのは歌のせいじゃない。ひとひらの歓びを語る歌で自らを嘆くなんて、どうかしているに決まってる。
三番は私も歌ってみた。即興のデュオだ。
『妙に貴き イエスの御名の 香りは遠く 世にあまねし いざや共に 喜び祝え この良き日を』
いかん。目から涙が。
疲れ目のふりをして、すかさず指でぬぐう。
思いっきり感情に流されてるわ。
見られたかな? 頭もカンも鋭い彼のこと。なにかあったのか、と問われかねない。
「……天宮さん」
案の定、久瀬くんはこちらを向いていた。
さあどう言い訳する。目が疲れた。目にごみが。どちらにしようか。
「ゲスト・ヴォーカル頼もうかなあ」
「は?」
彼はぽんと私の肩を叩くと、
「自衛隊、やなくて<Pot de Magie>に入りませんか?」
「全力で遠慮します」
「なんで」
「人前で歌うの、苦手」
「もったいないなあ。声質澄んでてうらやましいし。もはや橘イラネ。ガールズ・ヴォーカルの方がメジャー受けするし」
「メジャー目指してるん」
「それはない」
「そんならなんでメジャー受け、狙うよ」
刹那のこと。
久瀬くんの表情が険しくなる。
「……外」
私も外へと意識を向けた。
久瀬くんが部屋の中のテレビやオイルヒーターのコンセントを抜く。電気製品の音でかき消されないようにだ。
耳を澄ます。
寒風が駆けている。竹や、庭の木々がざわめく。落ち葉が宙に舞い踊る。彼方から、すすり泣く声がする。
女だった。だがこの声は人のものだろうか。虚空をつかむような、悲愴なこの慟哭は。
「境内の方、やな」
「行ってみよう!」
「もう一二時やん。ご迷惑をおかけするわけにはいかんやろ」
「窓から庭へ出よう」
「門に警備会社のステッカーがあった。庭うろついたら大騒動になる。ひとまずあきらめるしか」
やがて声は消えた。
だが脳裏からは離れ得ない。鳥肌が立ち、背筋が寒くなり、なのに血液が逆流しそうになる。
「ナナツギスミタカの神社、なにかあるよ。絶対」
「ある、必ず」
久瀬くんは障子を開けはなし外を望んだ。
「初詣は総領神社に決定やな」