10.胡桃のお菓子に誘われて〔2〕
『バイトあと一時間入らな』
「ええから、来いっ!」
あとから思うと……私ってなに様だろ。
でもそのとき、私は心の余裕がなかった。だからあとで、歩きながら深く反省した。彼には謝んないと。
『分かった』
携帯電話の向こうの声は、それ以上異論を唱えることもなかった。
『どこに行きゃええの?』
「東城山町のコンビニ」
ホワイト・クリスマスは今年も訪れそうにない。
道は湿ったままで、雲も去りつつある。闇の裂けめから星がのぞく。
携帯電話をカバンに投げこむと、オリオン座のまんなかの三ツ星をあおいだ。
負けるもんか。
私は足取りを速めた。
「負けないぞ。絶対っ」
下手くそな即興詩人よろしく、妙なスローガンを考える。
空は晴れる、いつか晴れる。幸せはふだん気づかない、すぐ近くにいつもある。羽を無くしてもまたいつか、飛べるはず。
いくつか思いついたあげく、やめた。アホくさくなったのと、センスのなさに気づいたのと、コンビニにたどり着いたからだ。
* * *
私はまず、とびきりの笑顔を無理やりにつくって、レジにプレゼントした。
「こんばんはっ、サナリさん」
サナリさんはおでん汁の中に具を入れていた。玉子や大根はすでにいい色している。
「すみません。お話うかがいたいのですが、いろいろと作業がありまして」
と、断って銀縁メガネを上げるサナリさん。おでんの具を入れていた袋やおなべ(油抜きをしていたらしい)をかたづける。さらに素早くチョコの棚に向かい、商品を前に出して。ナナメ行列になっているおにぎりをいくつかとってかごの中へ、残りは一直線に並べなおして。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
次なるお客様は、久瀬くんだった。
少し肩で息をしている。急いで来てくれたのだろうか。改めて申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
私は、深々と頭を下げた。
「ごめんなさいっ」
「謝るこたないっしょ」
「でも」
「たぶん緊急と思ったし。そやから呼び出したものと信じてるけど」
ひねくれた嫌味なのか、本心でそう思っているのか。
今の彼は飄々としていて、にわかには判別しがたい。いつもの愛想笑いがない分、率直ではありそうだ。
「緊急。緊急やないかも知れへんけど」
私は早速、教会とバスターミナルでの出来事を話した。
会話の内容、夢の中の二人、彼らを見たときの橘の反応。それらをつぶさに正確に……ただし一部事象は自主規制のうえ、内容より削除している。
緊急やん、久瀬くんの第一声はそうだった。
「サナリに同時に聞かせる点も大正解やと思う」
「ええ。ありがたいことです」
サナリさんもゆっくりうなずいた。
「ごめん。私、なにがなんだか分からへん……」
「夢は現実でもある。その証明がされただけでも重大やろ」
久瀬くんが自信たっぷりに話すと、サナリさんも柔らかな微笑を浮かべ、
「私も『上主様』と『皆』と『橘』の繋がりが見えてきました」
私はひとり、取り残されたような感覚を覚える。
彼らは一を聞いて十を知る。なのに私は混乱するばかり。私って、なにひとつ自分で解決できない。
……いかん。マイナス思考に陥る。最近こんな感じでへこんでばっかりだ。
「天宮さん。オペラの結末は知っとお?」
久瀬くんの問いかけに私は小さく首をふった。
寡聞にして知らない。歌劇といえばタカラヅカなもので。
「ノルウェーの娘ゼンタは幽霊船の男と結ばれる。おたがいに救い、救われたいもの同士。心の深層ですでに想いは通いあっていた」
「ハッピー・エンドなんや」
「いや。オペラの定石は悲劇」
相手はしょせん、幽霊。そして娘は生身の人間。結ばれるなら道はただひとつ。『死』しかなかった。
二人の霊は滅び、しかし魂は天の高みへと昇華する。天へ召されること、それは神の許しを得たことを意味している。
「悲劇と呼ぶか否かは、鑑賞者に委ねられる。それが『Flying Dutchman』のツボとゆうか、ヤラしいとこやんなあ」
たしかにドラマとして巧妙だ。悲劇として泣けるし、成就した恋を喜べる。神様に許されたんなら、クリスチャン的にはハッピーエンドだし。
「ただ、ここでは作品のツボを論じたいんやなく、現実の娘さんの話をしなけりゃね」
素直に考えたら。
亜麻色の髪の少女が夢で会った人と結ばれてジ・エンド、のはずである。
ところが彼女はゲランのナントカって香水を香らせて、苅野に現れた。あの銀髪美形のフロリアンも一緒にだ。
なぜ、苅野に?
それと藤生氏はどこ行った?
夢で藤生氏と少女は決別状態にあった。その少女とフロリアンがいっしょにいるってことは、少女は藤生氏とあのあと別れたのだろう。では藤生氏の次の動きは?
苅野に少女が現れた。なら藤生氏も登場するのでは。淡い期待をいだかずにはいられない。
「『藤生皆』の消息をつかむすべはあったのです」
私も久瀬くんもサナリさんを注視する。
サナリさんは一息ついて、つづけた。
「私を懲罰から解放していただければ、簡単でした。人間としての『上主様』をお守りする役目として『皆』の居場所を追うことは」
「ないモンねだりしたってしかたない。もう一人の『上主様』の橘はどっか行ってしもたし」
もう一人の『上主様』の橘。
久瀬くんは橘を『上主様』と認めているようだ。私にはその関係性がまだ見えない。
「はるこさんの目の前から消えたのはフェイントで、橘はまだ苅野に滞留している可能性もあります。残像かも知れませんが、気配は残っているように思えます」
「でもあんたの魔力は今、アテにならへん」
「そこを突かれると」
自動ドアが音をたてた。
あわててサナリさんは、いらっしゃいませと笑顔をふりまく。
ふらりと現れたのは、見覚えのある人だった。黒いダウンジャケットに身を包み若々しかったが、初老には違いない。
「胡桃のお菓子の」
私はぽそっと漏らす。
以前この店で会った覚えがある。胡桃のお菓子同好の士である、あの男性だった。
その人もまた、私に目を止めた。
「きみは胡桃のお菓子買ってた子やろ」
やっぱりあの人だ。
胡桃のお菓子がここに入荷しなくなって、しょんぼりしていた老人だ。
さらにその人は、私の隣にいる少年にも目をやった。細めの眼のまぶたが上がり、小さな驚きをあらわしている。
「白河の、あきなり君やないか。ひさしぶりやなあ!」
彼は思いのほか大声だった。そしてつかつかと歩みよってきた。
白河といったら久瀬くんの前の名前で、お父さんのほうの名前だ。
この品のいい老人は彼のお父さんの知り合いなのだろう。上品な旧市街である東城山の住人らしいし、苅野の名士とやらかも。
「安賀島さん。両親がその節はお世話になりました」
久瀬くんは実にキレイなお辞儀をした。温厚そのものな好青年ぶり。完璧な愛想笑い。パーフェクトだ。
「私は横からしゃしゃり出て口をはさんだだけや。一番大変だったのは君やないか。いきなり弟があらわれたり」
「その話はちょっと。それより、胡桃のお菓子って」
「そうやった」
安賀島さんは相づちを打って私に向きなおる。
「家内が通販で見つけたんや。今度、きみに会ったら教えんとあかんな、って思とってな」
「うわあ、ありがとうございます!」
その通販情報、ぜひ入手したいです。
「たくさん買うたし、なんやったらおすそ分けしようか。取りに来るかね。家はすぐ裏手やし」
私は行く気満々だった。お菓子につられるアホさ加減、どうか笑わないでいただきたい。
が、ふと思う。この場をほったらかして行くか。胡桃のお菓子のために。
サナリさんと久瀬くんの様子をうかがった。サナリさんは店員モードに戻っていた。久瀬くんのほうは少し考えたのち、
「僕も行ってかまいませんか」
と、にこやかにたずねる。
安賀島さんは少し間を置くと、にわかに声を上げて笑いだした。
「白河の息子なら是非に……ああ、私も無粋やったな。クリスマス・イヴのデートのお邪魔をしたわけやなあ」
ちょっと勘違いしてるみたいだけど、まあいっか。