Interlude 09.
今日一日の終焉は近いというのに、夜の帳はまだ下りない。
藤生氏が窓の外をうかがう。通行人はまばらながらも歩いている。まだ闇は近くて遠い。
「会わないわ。カイがそう言うのなら」
少女は礼儀正しくひざをそろえてベッドサイドに座っていた。
藤生氏は窓の外から視線をはずしてふりかえる。
「偽らざる魂は常に純粋なもの――あんたみたいに純粋でいて、偽りに覆われた魂も珍しい」
「どういう意味?」
「『嘘つきは泥棒の始まり』って言っている。あんたこそ分かっているのか。会いたいと願う相手が誰なのか」
少女はそっぽを向いた。
藤生氏はそんな彼女に、険しい視線を投げる。
「これはとある歌劇の話……『ヴァン・デル・ヴェッケン』という紳士がいた。彼は紳士であり、連合東インド会社の航海長兼船長であり、そして、神に背いた者だった」
少女は弾かれたように立ちあがる。
おののくくちびるからは息だけが漏れた。問いかけは声にならない。
そして、彼女は苦しげにかぶりをふる。
「あんたは『Flying Dutchman』という話を知っているかい?」
「……サッカーの?」
「それはヨハン・クライフ。八十年代オランダが誇ったエース・ストライカー……って、何歳だよあんたは」
私、知らない。ボケ・ツッコミにならないぞ。
「とりあえずそういうタイトルの歌劇がある。ワグナーの代表作のひとつだ」
神に背いた男は、彼の船と共に海にさ迷う運命が定められていた。死ぬことは許されない。なぜなら神の罰だからだ。
彼はただひとつの『救い』を求めて、ひたすらに海を漂い続けていた。
そんな永い航海の中の、ある短いひととき。入り江でその男と会ったある航海者は、宿泊の礼として財宝を授けられた。その航海者は財宝に目がくらみ、やがて時が来れば自分の娘を男の妻とすることを約束する。
娘ははじめは反目するも……乳母に教えられた神に背いた男のバラードを歌う。歌ううち、神に背いた男に激しい同情を寄せるようになる。彼女は純粋で、夢見がちな娘だった。だからこそ娘は、魅入られるように男を救う運命を自らに定めたのだ。
「娘が、私だというの?」
藤生氏はくちびるを結んだ。
「歌劇の話でしょ? 私が会いたい人は現実にいる。彼は会えると言ったわ!」
「出来すぎた想念は、夢を現実に変える」
「分かったわ……会いたい人はその『神に背いた男』だとする。私は彼に夢を見ているのかもしれない。でも、だから何だというの? 私が会うことで彼を救えるのでしょう? 可哀想な彼を救うことに、なぜあなたは反対するの?」
彼はまぶたをふせ、闇に溶けるごとくに沈黙する。