Interlude 08.
「博物館はなかなか面白かった。なんていうのかな、北欧の中世世界の息遣いというものが感じられてね」
「暖房は同盟の集会所でしか許されなかったなんて、商売している人たちは、冬場は大変だったんでしょうね」
夫は多少興奮気味で、妻は冬の厳しさに思いをはせる。
「ヨーロッパもいろいろ旅行したけど、他のところは城でも町でもみんな石造りだった。この町は木造なんだな。今ごろ気づいたよ」
夫婦は仲良く感想を述べ合っている。
藤生氏はふっと息をついた。
ため息ではなく安堵の表情である。夫婦が楽しんでくれたことを歓ぶ、そんな心遣いがあらわれている。
以前の藤生氏と比して、驚くほど細やかな優しさ。以前は他人のことなどどうでもいい、という態度だった。しかたないかと嫌な顔をあからさまにしつつ、重い腰を上げる。それがかつての藤生氏だった。
この夢が夢でないならば、現実だとしたら、彼はこの二年で大きく成長しているのだ。私も追いつけないくらいに……。
「奥さんはどうだね。なんだか疲れてたようだけど」
「え? ……ええ。ひと風呂浴びれば、疲れもとれるでしょう」
「すまないね。呼び止めて。お礼が言いたかったんでね」
「いえ。とんでもない」
ホテルのショップで藤生氏と老夫婦は別れた。
白夜が訪れる。夜を迎えても太陽は沈まない。
藤生氏は自室に戻った。シャワールームからはまだ水音が聞こえる。ベッドのふちに座り、サイドテーブルを引き寄せノートパソコンに向かう。
メールはまた、何通も届いていた。
『藤生君の要求は断る。
天宮さんには協力を仰ぐ。
どうせネタ振りも煽りもせんのに100%首を突っ込んでくるし、同じこと。』
送信の主は久瀬くんか?
ひどい書かれようだ。事実だけど。
メール本文はまだ続いている。藤生氏の視点とともにさらに文面を追う。
『思うに、藤生君は独力でなんでも叶えられる。だから、他人を巻きこんだら余計に面倒、と思っているんじゃないのか。
天宮さんをかかわりない場所にいさせたいのは、君の思いやりか? 違うだろ?
違うなら反論をどうぞ。』
彼は眉をひそめ<返信>をクリックした。
『なんでも』
次々にディスプレイに踊った文字も、ここまでだった。
しばしの間、藤生氏はまぶたを伏せた。
目を閉じたまま文字を一文字ずつ消していく。すべてが消えてもなお、彼は惰性で<DELETE>キーを押し続けていた。
不意に彼は立ち上がると天井をあおいだ。そして席を立ち、なにか考えごとをしていたかと思うと、緩慢にベッドに倒れこむ。光沢ある暖色のベッドカバーに半身が沈んでいった。
「白河の文句言い……あーもう、めんどくせっ」
藤生氏はそうはき捨てると、身体をよじった。ベッドメイクはご破算。カバーはよじれてくちゃくちゃになる。そんなのも知ったことではない、藤生氏は子どものように大きなまくらを両腕でかかえ、顔をうずめる。
すると突然、奇跡の情景が生まれた。ベッドカバーには照明によって陰影と輝きを刻みこまれ、折れた翼を描き出していた。その翼の主はまぎれもなく藤生氏。ベッドをキャンバスにして描かれた、中世の宗教絵画がそこにあった。
現実的にも見え、空想のようでもあり、そしてただ静寂がある。
なんでも叶うわけあるか――藤生氏の小さな嘆きの後は、パソコンのCPUファンとシャワーだけが音を奏でていた。