Interlude 07.
藤生氏は、道を歩く日本人の老夫婦と目が合った。
老夫婦はぱっと表情を明るくし、足どり軽くカフェの扉をくぐった。
「昨日はほんとうに助かりました」
妻は深々と頭を下げた。
老夫婦の柔和な笑顔は心温まるものであった。対する藤生氏の愛想笑いはぎこちない。一見して、応対の不慣れが分かる。
「今日は奥さんはいっしょではないの?」
藤生氏の頭に疑問符が浮かんだ。
奥さんというのは少女のことを指しているらしい。そのことに気づくまでに多少時間を要したようだ。
「今、お手洗いに」
老夫婦は隣のテーブルに腰をかけた。
とはいえ彼らはこの国のことばはおろか、英語もまた不得手な様子。メニューもわからず、しぜん、藤生氏が手助けをすることになる。ひととおり注文を済ませた後――それは実は大変な作業だった――夫はため息と愚痴をこぼしはじめる。
「私たちはね、今日はフィヨルド観光に行くはずだったんだが、荒天で船が出ないというんだ」
「メインはフィヨルド観光船ですしね」
「そうだよ。これを楽しみにしてきたんだ。なのに船は出ない、ここで一日過ごせというんだからね」
「残念ですね。でもまあ世界遺産の街ですから見所は」
興味を示した老夫婦に、藤生氏は少し押し黙った。「しゃべりすぎかも」と思ったかもしれない。
しかし藤生氏は思い直して、話を続ける。
そのころ少女はなにをしていたのだろう。
私は目を他に向けてみた。
……窓辺に立っていた。お手洗いをすぐ出た場所にある窓、そこは開いていた。雨と潮の匂い、そしてコーヒーの香りが交じり合う―――夢でさえ嗅覚があるのだろうかと私は驚く。
「ええ、私は彼を存じ上げていますよ。貴女が彼にお会いできるよう、私がご案内してもよろしい」
窓の外に立つ青年は声をひそめた。
「……本当? あなた、ウソを言ってはいないでしょうね」
彼の姿を瞳にとらえながら、少女もまた声を落とす。
彼は昨晩、レストランで会った。フロリアン。藤生氏はそう名を呼んだ。青年の端正な顔は微笑を添えても崩れることなく、香り立つような甘さを感じさせる。
「約束しましょう。ヴェッケン氏に引き合わせると」
ヴェッケン……少女はお気に入りの詩篇を謡うように、何度もその名を口ずさむ。
―――初めて知ったわ。夢のみに出会い未だ巡り会えない、あの人の名前を。
少女はそれだけで幸福であった。だが幸福は即、満足ではない。
彼女は今、ひとつ、幸福の破片を手に入れた。長く夢見続けてきた邂逅という、さらなる破片は眼前の青年が握っている。
―――手に入れたい。
少女は切望し……ほぼ無条件に、彼を信じた。
「私、会いたい。必ず会いたいわ」
「分かりました。ではこのメモにあるところに、今晩十一時半においでなさい」
メモを半ば奪い取る少女。その全身は震えていた。
フロリアンはささやき続ける。
「ただし約束して下さい。このことはムッシュ・フジオには口外しないように。貴女を引き止めるかもしれません」
張子の首ふり人形のように、少女は何度もうなずいた。
「約束するわ」