02.或る少年と其の使い魔
霧が懸命に私にまとわりついてくる。どうやら部屋からついてきて、私の持つ『呪』をも吸い取らんと画策しているようなのだ。
少々不快感を覚えるも、マンションの周囲、南城山町を散策した。
旧市街で再開発された繁華街からは外れている。一部居住用のマンション地区に再開発されつつ、ある一角には旧家も残り、原則として文教地区とされ、端正で伝統的で、落ち着いた町並みだった。
なにより近くにカイの母親やアキナリが住んでいる。カイに関わった以上、事件に巻き込まれる可能性はゼロではない。対処できる場所に私も居住すべきなのだ。
家賃相場が若干高価で悩ましかったのだが。
それもこの灰色の霧の女のお陰でなんとかなりそうだ。多少の妥協はやむを得ない。お互いしばらく仲良くやってゆこう。
* * *
若々しい声がする。
林を通り抜けると、古めかしい灰色のコンクリートの建舎が見えた。
学校だろうか。
丘からちょうど校庭を見下ろせた。
若々しい少年たちがボールを蹴りながらグランドを駆け回っている。隣接する別のグランドでは、地を這う小さな球を拾っては投げる動作を飽かずくり返している。
それらの輝かしい魂に、我が身につきまとう霧も反応し、色濃さを増していた。未来への憎悪は、今生に心を残す者に共通する愚かしい習性だ。
黒い霧が私から離れた。
その動きの意味はひとつ。理性を失した怨霊は欲望に忠実に、霧は呪わしい表情の具象をあらわし、眼下の校庭へと襲い掛かる。
混乱は避けたい。
この町の怨霊跋扈ぶり。私にも責任の一端はある。
「術の展開はままならないし。面倒だが、引っぱり戻すか」
と思案した矢先のこと。
唐突に、黒く小さな“かたまり”が霧の中へと飛び込んだのだ。
――フギャア!
それは細い獣の声。
霧は霧散し、逃げるように再び私にまとわりつく。
小さな黒い“かたまり”が着地した。
黒猫だ。
毛を逆立てて私を見ている。
最近の飼い猫は人と同様、魔を感知する能力も低下したものだが。どうして、彼女は私と霧とに反応し、敵意をあらわにしている。
霧の主と勘違いされている?
心外な。
「一人前に使い魔気取りかな」
私は黒い子猫を拾い上げた。
彼女は足を乱暴に動かすが、それ以上の抵抗はない。
一方の霧。子猫にちょっかいをだそうとするが、少し脅すと大人しくなった。
さて。
霧を退けたのは彼女だが……彼女からは『呪』の迸りを感じない。ならば彼女を一時的に魔法の発動体とした者がいる。そしてそいつはすぐ近くにいるはずだ。
近くの魔物の『呪』を探る。
……読めない。
可能性は二つ。『呪』が微弱か、私を軽く凌駕するほどか。まず後者の可能性は考えがたい。
「可愛いきみ、大人しくしなさい」
「ふみゅう」
「そうだよ、きみのご主人様はどこ」
彼女はやがて私の腕にしなだれかかる。
魔法でもなんでもない、ただの暗示だが、単純な子だ。
「マロ」
それは林の奥から聞こえた。
少年の声だ。
「姿を現したまえ。彼女の主なら」
「別に、身を隠してるわけやない」
木陰から姿を現したのは少年、いや少女かとその見目を疑った。
声は少年であると示している。
そして『呪』を使う。ただ人ではない。
「半人半魔ですか」
彼は押し黙った。
まあ、その態度では肯定するも同然だが。
私にとって彼が半人半魔か否かはさしたる問題ではない。
彼の保有する『呪』は微かで、警戒は不要だ。仮に攻撃を受けても正当防衛の範囲、いや片手でさえしのげよう。
その弱さは多くの半人半魔の哀れな特徴だ。彼らは『呪』の集積能力が限られる。カイ――上主様が花瓶を用いる理由はそこにある。そして彼らの重大な欠陥は――人であるが故に『魂』を持ち、『呪』をも作り出す存在でもあること。上位の魔物にとって奴隷となすには最適の存在であることだ。一方で、上主様のごとく計り知れぬ強大な魔とも成り得るのだが、それは稀なる一部のものに過ぎない。
「その猫を離してほしい。彼女は私の大事な友」
彼の美しい瞳を見つめる。
日本人には異質な栗色の瞳。私と猫が映る。
私は彼の大事な友人を取り上げるつもりはない。まして上主様を差し置き、彼を配下にするつもりもなかった。
彼の美しさに、私はむしろ庇護欲をかきたてられていた。
「いいでしょう、お返ししましょう。ただ、ひとつ条件が」
「条件とは」
「君の名を教えてください」
彼はまぶたを伏せ、そして細い声で答えた。
「……コウ」
「それはニックネームですね」
「フルネームを、とはおっしゃらなかったから」
少年――コウは短く反駁した。それもごく穏便なものだ。
「コウ、彼女の行為は、悪霊祓いですね」
彼は答えない。正しいということだ。
私は尋問を続ける。
「『契約者』の依頼に基づく行為ですか。それとも貴方の考えのみによるものですか。そしてここ苅野を、とある方の<農場>と認識してのことですか」
「『契約者』と私の意思です。苅野がだれの<農場>か、それは存じませんが」
上主様の<農場>での無断の悪霊狩りは容認できない。
ただし人間との契約による行為なら話は別だ。『契約』が確かに完成されていること、つまり彼の言葉が真実だとは探ることができた。
だが、いかなる人間が彼と契約を?
興味はあったが、彼の『契約者』は見破れなかった。
「結構。『契約者』の意思でそれが<農場>を侵すものでないのなら」
私は彼の黒猫を放した。
彼女は私に媚びた鳴き声を聞かせ、地上に飛び降りると、女王のように悠然と歩んでいった。出迎えたコウ少年は彼女を抱くと、アホボケカスと愛ある罵声を投げつける。
無邪気な光景だが――彼は老獪だ。
私はそう判断を下した。
彼は契約に基づき『呪』を操り、魔法を行使している。すなわち<農場>の概念、法を理解している。そして『契約者』の存在を第三者に悟らせず、その探索を拒んだ。
会話、そして態度。彼自身は自然体に見えて、全く隙がない。
弱みを挙げれば『呪』の保持量の微弱さ、これは魔にとって致命的だろう。そして使えない黒猫・使い魔マロ。それらもますます私にとって彼が魅力的に映る。
さながら泥の中に咲く睡蓮のよう。
私は彼のような存在を好む――花は手折るものではなく愛でるものだ。
「私はサーニャ。貴方とは今後は友好的にお付き合い願いたい」
私は握手を求めた。
彼はじっと私を見つめたまま動かない。
「サーニャとかいいつつ、サナリ――王の農場の統括者ですね」
やはり彼は私の正体を読んだ。正確には読ませたのだが。
「いかにも。よくご存知で」
「ここって、名高い魔王様の農場、やったんですか」
「知らなかったのかい」
「知りませんでした。教えていただいてありがとう」
彼は理知的な柔和な笑みを浮かべつ、握手に応じた。
「コウ、きみは苅野には長いのかい」
「まだ一年半です。言い訳やないんですが」
コウ少年は一度、私の顔うかがってから続けた。
「ほんとうに魔王様の<農場>とは知らんかったんです。連れが苅野の出身なんで調べもせんと家を買ったんで」
「家? 買う? 一戸建?」
「え。そこに反応?」
成人済らしい。日本人は年齢不詳だ。
理不尽ではなかろうか。
子どものような半人半魔が一戸建住宅を購入でき、魔界でも名だたる実力者たるこの私が事故物件のレンタル・ルームに住まうことになる事実。
人の世の沙汰はやはり金次第だと、実感するのだ。
次回はせりちゃん短編です。