Ref No.02
暗い部屋の中。
一人の女がたたずんでいた。
床には円陣。その中には六芒星が描かれている。そして、中央には供物なのだろうか、生命感のない蛙が紅くどす黒い液にまみれ、その身を沈めていた。
少女はただ立っていたのではない。
無限に続くとも思えるような呟きが彼女の口から漏れる。掠れがちなその声は、地を這うように闇に溶け、時として闇を切り裂かんばかりに高みにと昇華していった。
その姿は古代の巫女を彷彿とさせる。
闇は、彼女のために有った。
* * *
携帯から、穏やかな音楽が奏でられる。右目の動きが止まる。
「上主様お電話……」
右目はキーボードを叩く手を止め、液晶画面から目を逸らした。
上主……いわゆる魔王さまの号令一下、執務はコンピュータシステム化され、つい最近カット・オーバーを迎え本番運用されている。これにより右目は彼の背よりも高い『未決裁』の書類の束を抱えなくて済むようになったのだが、その壮大なプロジェクトの経緯は別のお話である。
「上主様っ!」
「……う?」
藤生氏は少し遠い目になりながら答えるとすぐ、もしもし、と応答していた。
(本当に、デスクワーク嫌いなのですな)
右目は再び、慣れぬ手つきでキーボードと格闘していた。
(居眠りはいいが、わからないようにやってほしいものです)
右目は藤生氏の部下ながら親代わりのようなもの、叱るや叱らざるやのジレンマに陥っていた。
「ああ……修復を急げ。こっちは了解した」
藤生氏は忌々しそうに電話を切った。
「どうかなさりましたか」
右目は首をかしげた。
「代理で、召還されることになった」
「……え?」
「システム障害らしい。五年も前の『魔のもの人事マスターデータ』をデータベースに移行してしてもうたんやそーな」
「なんですと! それでなぜ魔王とも称せらる上主さまが呼び出されねばならないのです!」
「どうも被召還者はサナリっぽい。だけどあいつ受刑中やし、サナリほどのクラスは今、出払っとるやろ。近場にいそうなんはやっかいな案件かかえてる方々やしなあ」
右目はそれでも机を叩いた。理に合わない、どうなっているんだと強調しながら。
「まあ『魂管理システム』に予算振ってもたんで、人事なんぞウチ内部のことやからってんで超ド短期間でつくらせたし」
「それにしたって」
右目のツッコミも意に介さず、藤生氏は語気を改め真面目ぶって述べる。
「トラブル時の責任をとるのは上級魔の仕事だ。そもそも、魔王の俺が自らシステム再構築プロジェクトの最高責任者だったわけだろう」
「それはご立派ですが」
本心は仕事をサボりたいだけとは、右目は先刻承知である。
だが、責任を進んでとる態度は(はた目には)立派だし、部下の魔のものにも良い影響を与えるだろう。
右目は管理職だった。
「では、お気をつけていってらっしゃいませ」
藤生氏は右目の言葉を聞くと、蜃気楼のゆらめきのように姿を隠していった。
ただ、少しばつの悪い表情を漂わせながら、だったが。
* * *
藤生氏が姿を現した場所は、暗い部屋だった。厚い黒いカーテンが閉じらているが、微かにカーテンと壁面の間から光が漏れる。
眼が慣れてくると、藤生氏はそこが学校の視聴覚室ぽい場所だと気づく。
対峙しているのはいまどき珍しい純白のセーラー服にひざ下三センチスカートの制服を身につけた少女。顔は結構可愛い。それに女優顔負けにスリムだ。
「ちわっす」
少女は突然現れたインチキくさい少年に不審の目を向ける。
「あなたは、どなた?」
「どなたって、あんたが呼んだっしょ。魔物」
無限なる魔法の技で、少年は悪魔○んのコスプレに早変わりする。ご丁寧に髪の毛がはねているのがご愛敬。
ただ、微妙な三頭身をまねする勇気はなかったらしく、結局あまり似ていなかった。
「……悪魔召還したはずなのに」
「いや、俺、召還されて来た悪魔ですけど」
少女は完全に意気消沈していた。あわてて、普段のシャツにワークズボンのスタイルに戻る藤生氏。
「一応、魔法もそこそこ使えるんですけど」
「がんばったのに。カエルも怖かったけど切ったのに……」
(泣いてるよこの子)
困惑のシチュエーションながら、藤生氏は冷静である。
とりあえず落ち着いて依頼を聞くことが先決だ。と思考を切り替える。
「とにかく、な? 呼び出されたからにはできることはするわ。願いはなんやのん」
少女は、じっと、藤生氏を見返した。
案外、頼れるのかもしれない。
少女の思考が読みとれる。藤生氏、ちょっと強気になる。
「あの……願いを聞いてくれるのですよね」
「まあな。魂を預ける生前予約してもらう必要、あるけど」
「なんですか。セイゼンヨヤクって」
「死んだら俺に魂くれるって、って今約束してくれること」
少女はさらに、じっと、藤生氏を見た。
少女の思考が読みとれる。……藤生氏の息が止まった。
少女は、真剣な眼差しを寄せる。
「自分、どこが太ってるて?」
「私の願いがわかるんですか」
少女は目を光らせた。
「この腕見てください。上腕、中指と親指広げてくっつかないし」
「普通、くっつくのは手からひじまでの間くらいやろ」
「足もひざの裏側の下。ふくれてるし」
「ふくれてるから『ふくらはぎ』て言うんやろ」
「ヒップも肩幅に近いし」
「おしり小ちゃかったら、色気ないで」
「とにかく、太ってるんです。嫌なんです。こんなんじゃ彼氏もできないし、死にたいくらい」
(頭痛が痛い)
素直に痩せさせりゃ簡単だ。だがこれ以上痩せたら体を壊すんじゃねえか? 殺人幇助の厳禁は、天界・魔界の鉄の協定である。願いを叶えたあげく死なれては、諸方からクレームが来る。その後のアフターケアだってまっぴら御免だ。
一世代前の上主であれば、適当にあしらって、魂をいただくくらいはしたかもしれない。だが藤生皆は、ひねくれてはいるが案外、素直な少年である。
「自分、今のままで十分可愛いけど。卑下しすぎちゃう?」
「そんなこと、ない」
少女は引かなかった。
システムのバグとはいえ、サナリレベルを呼び出すくらいだ。精神力は高く、意思は固い。
藤生氏は心中、困っているのだが、さりとて説得もままならず。
(ゴメン。勝手に利用します)
彼は渋々、カードを切った。
「俺には、好きな女子がいるんですけど」
少女は少し、不思議そうな顔をした。
藤生氏が「えいや」と唱えると、ヒトガタが現れ、ヒトガタはショートボブの女の子に変わる。
「こいつはかなりのぷっぷくぷぅです」
「この人ですか?」
「イエース。チビっ子ですけど、腕は筋肉とぷにぷにの両質感があります」
藤生氏は『こいつ』の二の腕をつかんだ。白い肌が伸びる。
「あんたの基準からしたら、相当に丸物やろうけどさ」
「でも、このひと可愛いから」
「あんたも十分可愛い思うよ?」
少女は大きく首を振って言い張るのだった。そんなはずはない。絶対私は太っていて、醜いんだ……。
ええ加減にせえよと藤生氏は思うのだが、良心的に受け止めようとすれば痛々しくもいじらしくもある。これは心の病だ。いたわりの言葉を重ねても、素通りするだけだろう。
藤生氏は沈思黙考を試みる。
ちーん。
藤生氏の頭の中で音がした。
藤生氏はどこからともなく取り出したペンライトをかざした。
暗室の中、壁面に映像が浮き上がる。
学校の廊下のようだ。静かな廊下を歩む、異国の少年。
突如、藤生氏が少女の袖口をつかんだ。
「きゃあああああっ!」
少女は絶叫した。
藤生氏は画像の浮かぶ壁面に少女を叩きつけたのだ。
そして画像の中。
少女はふらつく体勢を立て直していた。
「あれ、壁にぶつかってない」
「シヨクインシツ、は、どこですか?」
異国の少年がたたずむ彼女に問いかける。
不安と安堵の入り混じる表情は、整った表情に少しエキセントリックさを添えている。
少女は――彼に魅惑された。呆けた顔で、かろうじてことばを口にした。
「あなたは?」
「コウカン・リユウガク、セイ、で」
少女は、頬が紅潮するのを止められなかった。
「しばらくほかのことで忘れてもらおう」
ペンライトを消し、藤生氏はつぶやいた。
恋でもすりゃ他のことに悩むだろう。痩せる痩せないより、よほど重大事に考えるに違いない。現実味を帯びてない相手なら、なお困難度も増すだろうから、たぶんそのうち願い事すら忘れるに違いない。
藤生氏は勝手に決めた。
これで解決。依頼完了。
暗室に残るは藤生氏と『こいつ』。
ふと『こいつ』に目をやった。
ごくりと、つばを飲む藤生氏。
暴言失言の類が『こいつ』自身にばれたら。殴られるか、大外刈りか、熱いお茶をかけられるか。はたまた。
(ここって苅野の学校とかとちゃうよな)
藤生氏はおどおどと、あたりを見回した。
そして『こいつ』のヒトガタ抱えて、ゆらりと姿を消したのだった。
* * *
「ヒトガタ、消しなさい」
右目は短く叱った。
「左目どのに申し伝えますよ」
「消します」
藤生氏は、肩を落とし両手をひざにそろえて座っていた。
うだうだとぼやき……に近いつぶやきとともに、その物体は、ぱっと姿を消す。
(まあ思春期後半戦ですからねえ)
と、右目は思う。
「ところで上主様。承認を求める申請がわんさか入っています」
「え?」
「人事データの修復処理の回復と、魔物員配置の再考結果の最終決裁をお願いします」
「あ、そうだ。おれ、出張します。ほらほら、自分で状況を確認しなきゃーいかんと思ってたんや」
「どちらへ」
「えーと、えーと」
「後回しにするとまた呼び出されますよ」
右目は話すと、もとどおり黙ってキーボードと格闘しはじめた。
「……ハイ」
藤生氏もまた、いつも通り仏頂面に戻り、ひじ掛け椅子に身体を投げ出した。