01.春の光さす部屋へ
「天宮さん、このあと用事ある?」
「ないけど」
「せやったら付き合うて」
私は軽くうなずいた。
久瀬くんは卒業証書の筒をリュックにしまうと、ブレザーの前を合わせた。
そのブレザーにボタンはひとつだけ。
寒そうだけど、同情すべきかどうか。
「つらいね、もてるニイチャンは」
「違うて」
「そうかね?」
正門を出て、歩を進めるたびに二年を過ごした学校は遠景にとけ込み消えていく。あの校舎は大事な思い出のカタチそのものだ。
「僕思うにさ」
隣の彼が語り始めた。私は再び、視線を校舎から久瀬くんに戻す。
「ボタンくれってのは、福袋買いに殺到する客の心理みたいなもんやろ」
出たよ。
久瀬くん、かなり分析好きなんだよね。これが始まったら、おとなしく何も考えずに耳を傾けて泰然自若とかまえているしかないわけで。
「思い浮かんだあの人のボタンを是非手に入れようと動く、アレ。集団心理のなせる技だね。卒業式みたいな感傷高めるイベントの熱にあてられて、みんな気分高揚してどっかイッてるから」
勢いっちゅうもんはあるわね。否定はしない。
けど冷たくない? ボタンください、と頼むまでには、勢い以前に想いというものがあるやろに。福袋求めてエスカレータをかけ上がるおばちゃんといっしょにするってどうよ?
「何人かは告白でもしたんちゃうの」
「ふたりほど、かなあ」
それでどうした、のどから出かけたが寸前で思いとどまった。
聞くだけ無駄だ。
「ほんで、どこ行くよ」
「藤生みほ三十四才のアパート」
「藤生みほって」
藤生氏の関係者?
「一大プロジェクトを天宮さんだけに明かそう」
久瀬くんは声を落とし、神妙な顔を私に向けた。
私もつられて真剣になる。声をひそめて問いかけた。
「プロジェクトとは?」
「卒業アルバムをお届けするのだ」
それが一大プロジェクトかいっ!
いっぺん大外刈りでもくらわさなければ、この秀才少年の大言壮語癖は直るまい。
いやしかし、と私は考える。
「藤生みほさんとは、もしや藤生皆少年のおかあさん」
久瀬くんは目を細めて笑った。
「ええ女ですえ? 天宮さん。是非見ときなはれ。ええ勉強になりまっせ」
……アルバム渡したら絶対に大外刈り。
私が苅野にやってきた二年前。
藤生氏は確かに教室の片隅にいた。クラスのみんなからひとり孤立していたけれど。
無関心なふりをしながら、魔法陣をつくって私を救ってくれた。日下部あおいちゃんの魂を救った。私に災いが降りかからないよう、魔の世界へ去っていった。はじめに目的としていた、父親に会うためでなく……。
魔の世界で『さようなら』の言葉を交わして以来、藤生氏は消えてしまった。ただ一度、再会したことはあるけれど……。
彼が教室に戻ることはなかった。席もなくなり、名簿からその名も消えた。
私と久瀬くん以外、だれも彼がいたことを覚えてはいなかった。
はじめから存在しない。そう考えなければならなかった。
「アルバム届けても藤生氏はいないのに」
藤生氏がいた証はどこにも見いだせない。卒業アルバムも藤生氏の姿を、面影を写し出していないのだ。確かな思い出なのに。
私でさえ胸が痛んだ。
藤生氏のお母さんが見たら、なおさら悲しむのではないだろうか。
「そうかも」
久瀬くんは言外の意味を察して相づちを打った。
でも、そういうときほど、彼は私が満足する言葉を返してはくれないのだ。
「けどさ、僕らは頼まれたから届けるだけ。こっちでいろいろ考えるんのもよけいなお世話や」
彼はそう言うと、冷たい目を前方へと向けた。
春の青い空は、霞がかかっている。
私は藤生氏が去って一年たったいま初めて、藤生氏の家を知った。
苅野市の旧市街、細い路地を歩く。
苅野に二年住みながら通ったことのない道だった。古くからの商店街らしい。街頭を彩るプラスティックの花飾りが風に揺れる音がする。たまに毛糸の帽子をかぶったおばあさんが通り過ぎた。
シャッターの閉じた店の並びに埋もれて、二階建てのアパートが一棟。
裏には焼鳥屋さんがある。木造らしいアパートは、火の粉が飛んできたらすぐに燃えてしまいそうだった。
私たちは錆びた階段をあがっていった。湿り気を帯びたような金属音が重なる。
二階の奥には、洗濯機がぽつりと置かれていた。
はがれかけた合板のドアの横、ビニールに包まれた紙には油性マジックで『藤生』の文字。走り書きのようだが整った字だ。
ドアの前に立ってみたけど、緊張してノックをためらってしまう。
救いを求めるように久瀬くんの顔をのぞいてみる。彼はポケットから鍵を出し、ノブに差し込んだ。
ちょっと待て。
「なんで鍵を持ってるん?」
「愛人やったら当然っしょ」
そこで笑顔を見せてくれるな。
どこからどこまでが本気なのか分からないから、怖い。
金属がこすれ合う不快な音がした。
ドアが開くにつれ、差し込む光に奥の様子がわかってくる。玄関口に段ボールが三箱。閉じたカーテンの手前に布団のないこたつテーブル。
生活のにおいが感じられない、殺風景な空間だった。
戸を閉めて玄関に立っていると、体の底から寒気がして身震いが止められない。
「おじゃまして、いいですか」
返事はどこからも聞こえなかった。
久瀬くんは無造作に靴を脱ぎ捨てた。私はためらいがちに、
「おじゃまします」
と言いつつ、音を立てないように上がった。
こたつテーブルにはノートパソコンが眠っていた。部屋のすみの半間のクロゼットは開け放しで、スーツが何着か掛かっていた。淡いピンク、ビジネスライクな黒、幼稚園のスモッグみたいな水色。それに今から活躍しそうなトレンチ風味のスプリングコート。鏡の前に転がる、木の箱は上ぶたがはね上がり、カラフルなパレットと十本以上のルージュがのぞいている。少し、香水っぽい香りが漂う。
雑然と、しかし機能的でこだわりが見えない部屋。女性の暮らす家って感じがしなかった。
久瀬くんがカーテンを開けた。春の光がおぼろげにさしこむ。
私の体のふるえは、ようやくおさまった。
アルバムをテーブルに置くと、久瀬くんがあぐらを組んだ。つられて私も座った。正座で、背を丸めて身をすくめた。
うしろ暗そうにしなくたってええやん、とそのうち思いなおして背筋を伸ばした。
目の前にはアルバムがある。私はアルバムをめくろうとして、手を出した。……手を出して、そして手を止めた。
顔を上げて久瀬くんを見た。目が合うと、彼は口を開いた
「初恋やったんよ」
はつこい。私は、彼の言葉を復唱した。
「そ」
「愛人やないの」
「それはあ。夢、希望、願望」
「でも、初恋は成就したんじゃないですか。鍵持ってるということは」
「これ?」
久瀬くんは鍵を持つ手を挙げた。
「藤生君は僕にいろんなものを押しつけてん。鍵もそうやしアルバムを届けるのもそう」
「……もしかして、以前言ってた久瀬くんの好きな人って」
「鹿嶋やと何度いえば」
もういいです。
私は再び、卒業アルバムに視線を落とした。
藤生氏の頼みだった。なぜ?
藤生氏の姿がどこにもないアルバムを、どうして届けろと。
私は止めていた手を再び動かし、アルバムを開く。
「あ」
久瀬くんの動揺した声が聞こえると、周囲が真っ白になった。
しまった。藤生氏の頼みなんだから、なにか起こっても不思議ではないんだ……。