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魔法の壺  作者: 鏑木恵梨
Chocolat
153/168

01.2月14日(火)〔1〕

久瀬の受難@バレンタインデー。

 悪魔のように黒く

 地獄のように熱く

 天使のように清く

 恋のように甘く


 そして

 失意のように苦い



「なんですかそれは」


 思わずオヤジに問いかけた。

 バイト先のバーのオーナー兼マスター。略して『オヤジ』。まだ四十ちょいだがすでに額に光が確認でき、偉そうに髭をたくわえている。真っ当な社会人人生を逸脱した感のある、素敵なオジサマである。

 バンドの練習先スタジオで顔をあわせた縁で、高校生の俺を学生待遇で雇っている。そんな彼への敬意も謝意もあるのだけれど……。


「名言やろ、久瀬君。覚えておきなさい」


 一八世紀フランスの恋多き政治家タレーラン。彼はコーヒーを評し、かく述べた。ただし、最後の失意がどうのは完全にオヤジの創作だ。


「寒い冬に温かい恋の飲み物や」


 さらにはオヤジが鍋に煮立たせている、それ。どう見てもショコラだ。コーヒーでは断じて、ない。


「それまさか僕がもろてきたやつ」

「あれ、そうやったか」


 とぼけんなボケ、とは心の声だ。


「すまんな。奥のテーブルにチョコ盛り合わせ、持ってってくれ」


 製菓用でもないチョコ煮立たせてなにするつもりやねん。興味深くあるが、やっぱりふざけるなボケが、やな。

 そんな不幸な事故で、今年のチョコはゼロとなった。まあこれまでのイメージ戦略の結果、本気チョコはないはず。そう信じつつ、心の中で合掌したわけである。



  *  *  *



「ねえ一緒に飲も」


 テーブルにチョコ盛り合わせをサーブし、空のグラスを引こうとしたときのこと。

 独り座る彼女が言った。

 流し場を見やると、店主のオヤジがくいっとあごで示した。付きあってやれ。

 だから言うとるやろ。俺は高校生やと言うに。

 頭を下げ彼女の向かいの椅子をひくと、


「そこじゃなくって、ココ。ワタシの、隣」


 彼女が隣の椅子をひいて、コツコツ叩く。

 アタマ悪ィぞ、久瀬よ。オヤジは小ばかにした視線を向けた。

 俺は愛想笑いを浮かべながら、しぶしぶその座に赴いた。


 しがないバイトに絡む理由は分かり過ぎるくらい、分かっている。寂しくて哀しい、でもありふれた心の傷。

 今日と二ヶ月前と半年前にご来店いただいた時分。彼女は彼氏連れであらせられた。

 最初の来店時、男は徹底してレディー・ファーストだった。まずドアを開けるにも男が開け、先に彼女を店に入れる。俺がドリンクを持ってくると間髪入れず「モスコミュールは彼女」と、先に彼女の分を置くように促す。追加の注文も必ず彼女の希望を確認。彼女がお手洗いに行っている間に、会計を済ませる。

 次の来店時は、勝手に彼女が先に入ってきて男は遅れて入る。気を利かせたつもりで彼女のドリンクを何より先に置いたが、先に口をつけたのは男だ。会計も彼女の目の前で、いくらか払ったかを見せつけていた。

 今日は……語るのは酷だろう。先に男が帰った事実以外は。


 オヤジは足音を潜めてテーブルを訪れ、黙したまま去った。

 彼女の前には、恐らくソルティドッグ。

 その隣には赤い液体に満たされたタンブラー。トマトジュース、なわけはない。ブラッディ・サムだろう。これ、俺の? 高校生やと何回言うたら。ついでにバイト代から天引きなんてセコい真似はするなよ。


「乾杯」


 澄んだ音をたてグラスが重なった。

 天気の話、世間話。実のところ間を持たせるのはつらい。聞き役に徹すればいい、というオヤジのアドバイスを有難く感じるのは、やっぱり俺が所詮、高校生たる証だろう。いや、橘先輩なら上手く話を引き出してしまうだろう。鹿嶋も空気を読んで会話の流れを作っていける。自分は二人には及ばない。

 会話というか彼女の話が途切れ、沈黙。

 空気がつらい。

 ややあって、彼女が口を開く――(マスター)に聞いたんやけど。


「なにか、歌って」


 この展開、オヤジの仕込みだろうな。

 慌てず騒がず立ち上がり、バックヤードへ入り、オヤジのアコースティックギターを勝手に借りる。ギブソンのスモールボディ。ヴィンテージなこいつに触れる役得。座って、軽くチューニングして、このギターと俺とのフィットする位置を見つけて、と。


「リクエスト、あります?」

「……癒されそうなの」


 癒し、もしくは慰めを歌うなら。具体的にイメージすべく、ゼンタさんを思い浮かべる。彼女になら何を歌おうか。

 決めた。


「山崎まさよしの、『One more time, One more chance』」


 四つのコードのイントロから、独り言をわざと聞かせるように歌い出す。


 その後は彼女は何か話すでもない。

 唐突にこう命じた。


「食べさせて」


 言外の意味はないだろう。あっても困る。

 断る云われもない。チョコのビニールを外して彼女に与えた。前に傾きついばむように口を寄せる彼女。指先に唇が触れる。客観的に見れば婀娜な二人の光景だろう。

 こうやって、彼氏に甘えたことがあるのかもしれないな。

 だけど俺ときたら、ヒヨコにエサを与えている気分になっている。飼い主はヒヨコに元気になれと願う。だがヒヨコがせっついたところで、エサは適量までで終わり。

 ダメだ自分、これ以上、本当に無理。

 オヤジはカウンターの中でやれやれという表情を見せていた。

 だーかーら、始めっから無理なんやって、ホスト役は。

 人当たりよく愛想よくしてる人畜無害なアルバイト、てだけが取り柄やし。

 オヤジは再びテーブルを訪れた。手には灰褐色のマグカップ、ただ一つだけを持っていた。


「本日限定のドリンク。私からのサービスです」


 どろどろの闇のような液体。表面を描く螺旋。

 熱い、ショコラ。

 カップを両手に抱え、温かさまでも味わう彼女。

 横から眺める俺までも、カカオの香りに噎せる。


「美味しい」


 彼女の瞳は上気していた。

 湯気の向こうをひたむきに見つめ……何が見えているのだろう?

 空のマグカップ。内側には年輪を刻んだような、ショコラが造った幾重もの筋。


 恋のように甘く、失意のように苦い―――


 ショコラは過ぎ去った幾重もの想いをも流していく。

 オヤジのロマンチシズムが彼女に通じたのか。今日が特別な日だからだろうか。彼女は口直しの水も採らずに席を立った。

 オヤジはレジに素早く回り、手早く数字を叩く。

 明細がちらりと見えた。『chocolat ... Free!』走り書きでそう、書いていた。

 そして彼女の口元が動く。


「アリガトウ」


 俺はドアを開けて待ち構えた。

 半年前、この店を訪れた帰り、彼女が男にされていたように。

 彼女が上目遣いに俺を見る。

 眼差しへの答えは、いつも通りの愛想笑い。


「また、お越しください」


 と、柔らかい蛇が首筋に絡みついた。


 長いのか短いのか、分からない時間。

 やがて彼女は自分から俺を振りほどく。そして彼女は星の見えない空を見上げて歩いた。俺は彼女が角を曲がるまで、見送った。

 彼女の姿が見えなくなった後、口の中に苦い味だけが残った。

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