01.2月14日(火)〔1〕
久瀬の受難@バレンタインデー。
悪魔のように黒く
地獄のように熱く
天使のように清く
恋のように甘く
そして
失意のように苦い
「なんですかそれは」
思わずオヤジに問いかけた。
バイト先のバーのオーナー兼マスター。略して『オヤジ』。まだ四十ちょいだがすでに額に光が確認でき、偉そうに髭をたくわえている。真っ当な社会人人生を逸脱した感のある、素敵なオジサマである。
バンドの練習先スタジオで顔をあわせた縁で、高校生の俺を学生待遇で雇っている。そんな彼への敬意も謝意もあるのだけれど……。
「名言やろ、久瀬君。覚えておきなさい」
一八世紀フランスの恋多き政治家タレーラン。彼はコーヒーを評し、かく述べた。ただし、最後の失意がどうのは完全にオヤジの創作だ。
「寒い冬に温かい恋の飲み物や」
さらにはオヤジが鍋に煮立たせている、それ。どう見てもショコラだ。コーヒーでは断じて、ない。
「それまさか僕がもろてきたやつ」
「あれ、そうやったか」
とぼけんなボケ、とは心の声だ。
「すまんな。奥のテーブルにチョコ盛り合わせ、持ってってくれ」
製菓用でもないチョコ煮立たせてなにするつもりやねん。興味深くあるが、やっぱりふざけるなボケが、やな。
そんな不幸な事故で、今年のチョコはゼロとなった。まあこれまでのイメージ戦略の結果、本気チョコはないはず。そう信じつつ、心の中で合掌したわけである。
* * *
「ねえ一緒に飲も」
テーブルにチョコ盛り合わせをサーブし、空のグラスを引こうとしたときのこと。
独り座る彼女が言った。
流し場を見やると、店主のオヤジがくいっとあごで示した。付きあってやれ。
だから言うとるやろ。俺は高校生やと言うに。
頭を下げ彼女の向かいの椅子をひくと、
「そこじゃなくって、ココ。ワタシの、隣」
彼女が隣の椅子をひいて、コツコツ叩く。
アタマ悪ィぞ、久瀬よ。オヤジは小ばかにした視線を向けた。
俺は愛想笑いを浮かべながら、しぶしぶその座に赴いた。
しがないバイトに絡む理由は分かり過ぎるくらい、分かっている。寂しくて哀しい、でもありふれた心の傷。
今日と二ヶ月前と半年前にご来店いただいた時分。彼女は彼氏連れであらせられた。
最初の来店時、男は徹底してレディー・ファーストだった。まずドアを開けるにも男が開け、先に彼女を店に入れる。俺がドリンクを持ってくると間髪入れず「モスコミュールは彼女」と、先に彼女の分を置くように促す。追加の注文も必ず彼女の希望を確認。彼女がお手洗いに行っている間に、会計を済ませる。
次の来店時は、勝手に彼女が先に入ってきて男は遅れて入る。気を利かせたつもりで彼女のドリンクを何より先に置いたが、先に口をつけたのは男だ。会計も彼女の目の前で、いくらか払ったかを見せつけていた。
今日は……語るのは酷だろう。先に男が帰った事実以外は。
オヤジは足音を潜めてテーブルを訪れ、黙したまま去った。
彼女の前には、恐らくソルティドッグ。
その隣には赤い液体に満たされたタンブラー。トマトジュース、なわけはない。ブラッディ・サムだろう。これ、俺の? 高校生やと何回言うたら。ついでにバイト代から天引きなんてセコい真似はするなよ。
「乾杯」
澄んだ音をたてグラスが重なった。
天気の話、世間話。実のところ間を持たせるのはつらい。聞き役に徹すればいい、というオヤジのアドバイスを有難く感じるのは、やっぱり俺が所詮、高校生たる証だろう。いや、橘先輩なら上手く話を引き出してしまうだろう。鹿嶋も空気を読んで会話の流れを作っていける。自分は二人には及ばない。
会話というか彼女の話が途切れ、沈黙。
空気がつらい。
ややあって、彼女が口を開く――彼に聞いたんやけど。
「なにか、歌って」
この展開、オヤジの仕込みだろうな。
慌てず騒がず立ち上がり、バックヤードへ入り、オヤジのアコースティックギターを勝手に借りる。ギブソンのスモールボディ。ヴィンテージなこいつに触れる役得。座って、軽くチューニングして、このギターと俺とのフィットする位置を見つけて、と。
「リクエスト、あります?」
「……癒されそうなの」
癒し、もしくは慰めを歌うなら。具体的にイメージすべく、ゼンタさんを思い浮かべる。彼女になら何を歌おうか。
決めた。
「山崎まさよしの、『One more time, One more chance』」
四つのコードのイントロから、独り言をわざと聞かせるように歌い出す。
その後は彼女は何か話すでもない。
唐突にこう命じた。
「食べさせて」
言外の意味はないだろう。あっても困る。
断る云われもない。チョコのビニールを外して彼女に与えた。前に傾きついばむように口を寄せる彼女。指先に唇が触れる。客観的に見れば婀娜な二人の光景だろう。
こうやって、彼氏に甘えたことがあるのかもしれないな。
だけど俺ときたら、ヒヨコにエサを与えている気分になっている。飼い主はヒヨコに元気になれと願う。だがヒヨコがせっついたところで、エサは適量までで終わり。
ダメだ自分、これ以上、本当に無理。
オヤジはカウンターの中でやれやれという表情を見せていた。
だーかーら、始めっから無理なんやって、ホスト役は。
人当たりよく愛想よくしてる人畜無害なアルバイト、てだけが取り柄やし。
オヤジは再びテーブルを訪れた。手には灰褐色のマグカップ、ただ一つだけを持っていた。
「本日限定のドリンク。私からのサービスです」
どろどろの闇のような液体。表面を描く螺旋。
熱い、ショコラ。
カップを両手に抱え、温かさまでも味わう彼女。
横から眺める俺までも、カカオの香りに噎せる。
「美味しい」
彼女の瞳は上気していた。
湯気の向こうをひたむきに見つめ……何が見えているのだろう?
空のマグカップ。内側には年輪を刻んだような、ショコラが造った幾重もの筋。
恋のように甘く、失意のように苦い―――
ショコラは過ぎ去った幾重もの想いをも流していく。
オヤジのロマンチシズムが彼女に通じたのか。今日が特別な日だからだろうか。彼女は口直しの水も採らずに席を立った。
オヤジはレジに素早く回り、手早く数字を叩く。
明細がちらりと見えた。『chocolat ... Free!』走り書きでそう、書いていた。
そして彼女の口元が動く。
「アリガトウ」
俺はドアを開けて待ち構えた。
半年前、この店を訪れた帰り、彼女が男にされていたように。
彼女が上目遣いに俺を見る。
眼差しへの答えは、いつも通りの愛想笑い。
「また、お越しください」
と、柔らかい蛇が首筋に絡みついた。
長いのか短いのか、分からない時間。
やがて彼女は自分から俺を振りほどく。そして彼女は星の見えない空を見上げて歩いた。俺は彼女が角を曲がるまで、見送った。
彼女の姿が見えなくなった後、口の中に苦い味だけが残った。