02.或る明神と其の苦衷
やがて赤に白い文字で『籠谷神社』と染めぬいた幟を認めた。
私たち一行は鳥居をくぐり、手と口をすすいで、石段を上がっていった。
「貴公」
石段を上がりきり、両手二人分程度の本殿を前にしたときのことだった。
「誰です。私に声をかけるのは」
鈴ががらがらと鳴った。
夫妻のしわざではありえない。
彼らは拍手という手をたたく動作をし、礼を繰り返していた。
「誰です。隠れて呼びかける者に名乗る筋合いはありません」
「呼びだてたのは余。この社の主」
さい銭箱の上にふわり、と浮いたように姿をあらわした。
身体の大きさは子供だった。顔は犬の面をかぶっている。
「貴公はどちらさまです」
「私はただの参拝客ですが」
「人に非ずとは一目瞭然。しかも余などおよばぬ強力な呪力、ひしひしと感じます」
「そんなことはありません」
「ご謙遜を」
犬の面の下でからからと笑うが、その笑いは警戒心に満ちていた。
私の言葉は決して謙遜ではない。
呪力がこの身にいかに余っていても、行使できなければ地の精霊にさえ、かないはしないのだから。
「余は籠谷那来蘇明神と申しますが、貴公の御名は」
「『サナリ』です」
「なんと!」明神は大きく袖を払った、「なにゆえ、苅野農園領主の番頭閣下がかような場所へお出ましに」
口調とは裏腹に、犬面明神は輪をかけて警戒を強めた。
「番頭とはまたずいぶん古風な表現ですね。私はマネージャーかバトラーと言っていただくと嬉しいのですが」と茶化してから私は続けた、「ただ、もしなにか誤解されているとしたら困ったものです。私は人間と連れだってやって来た初詣の参拝客で、他のなに者でもございません」
「人間とは川尻の家の旦那と奥方」
「ええ」
「どうしてまた」
「アルバイトで農作業のお手伝いをしています」
「……アルバイト……??」
「今日はおせちをごちそうになりました」
「???」
川尻夫妻は本殿横のテントに足を向けた。
テントは仮設の神社グッズ販売所だ。破魔矢、絵馬、お守り袋、御籤……白い装束を着込んだ壮年の販売員――あとで私は『神職』と呼ぶのだと知った――に声をかけていたから、互いに顔見知りなのだろう。私を『農作業を手伝ってくれる外国の学生』というウソくさい触れこみで紹介していた。
しばらく犬面明神は彼らを観察し、口を開く。
「なるほど。『サナリ』さまは川尻の家の人とは仲が良ろしいようですね」
「取り入り、だまし、丸め込み、誘惑するのは仕事のうちですから」
「貴公のやり方に意見はしませんゆえ率直にお答え下さい。あの二人、だましているのですか」
「いいえ。そのように見えますか」
犬面明神はまたしても無言になる。
私は談笑する川尻夫妻の後ろ姿を見つめつつ、尋ねた。
「川尻夫妻の願い事、明神どのは聞き届けてさし上げるのですか」
「否……」明神は首を振った、「余の力では無理な願いでございました」
「無理と申しますと」
「遥か千葉、ましてやサイパンに居る者になど、余の呪力が届こうはずは……」
私はふと微笑した。
「明神どの。少々お耳を拝借」
二週間後――。
「農作業の口はありませんか」
「水菜の収穫作業があるよ。おいで」
私は急いで原付で向かった。
原付のガソリンを入れるにも厳しい財布になっていた。コンビニエンスストアの給料以外にも、もう少し補充が必要だった。
「こんにちは」
「来たね、サナリ君」
私はマダム川尻に案内され、水菜の畑へと歩いていった。
道すがら、彼女はいつものように世間話をした。
「先週、息子一家が来てね。もう三、四年ぶりなんやけど」
「はい」
「来たはええねんけど……あの嫁は生意気というか、全然なってへん。扉や冷蔵庫は、がたーんばたんと、えらい勢いで音たてて閉めるし、ご飯のあとも食器洗うだけ洗ったまんま。ふきもせえへんし」
「へえ。大変ですね」
真剣に願うわりに願いが叶うと不満をこぼす。
しょせん人間とはこういうもの。そしてこんな不満こそ、私どもには蜜の味――。
「でもねえ。孫がこれくらいに大きくなっててねぇ」
「へーえ。何歳ですか。女の子、男の子」
「四歳で女の子」
「可愛いさかりですね」
「生意気ざかりやわ!」
しかし、喜びも確かに存在するものだ。
こちらは私には必要ない。呪を私に提供した犬面明神に食わせてやろう。
「でもサナリ君。いきなり農作業ないのか、ないと困ってますって。年末に手伝ってもろたばっかりでしょ」
「ちょっと……使いこんでしまって」
「使いこむほど何に使うたんよ」
「旅行に」
千葉の住宅地の地名は、さすがに言えない。行き先はネズミ王国ということにしておく。
「なにしとんの! 無駄づかいせんと、計画的に使わな!」
「はい。反省してます」
私は苦笑しながら地面すれすれに鎌をはわせた。
丸々と太った水菜、まず一個めを収穫。
上主様。私はただ苅野で小さくなって待っているだけじゃ、ありませんよ。