Interlude 19.
小さなころ、母が教えてくれた。
あのころの母は毎夜、眠りに就くときには物語を語ってくれた。
寒い夜、木のベッドの中。外はまっくら、でも部屋の中は白熱灯のあかりで照らされている。寄り添う母がわたしの亜麻色の髪をなでながら、もうひとつの手で本を持って、穏やかな声で物語を語る。
* * *
トールにつかまったロキは氷の牢屋に閉じ込められて、冷たい三枚の岩にナルヴィの腸の鎖でしばりつけられました。
さらに鍾乳石の七色に光る蛇の牙から毒をしたたり落とされ、毒がロキの顔にかかるとロキは焼けつく痛みで苦しみました。
妻でナルヴィの母のシギンは主神オーディンに悲しみを訴え、お皿でその毒を受け止めることを許されました。
でもお皿がいっぱいになると捨てに行かなくてはなりません。
そのときはどうしても蛇の毒が顔にかかってしまうので、ロキは岩から鎖を引きちぎりそうなくらい苦しがります。
その鎖をひっぱる振動が伝わって地震は起こるのでした。
こうしてロキは岩にしばりつけられ毒に苦しみながら、ラグナロクの日まで罰を受けつづけるのでした。
* * *
静かな静かな、夜。
幸福だったあのころは記憶の彼方の幻。
目を覚ますと、その身にはベルトが巻かれていた。
「ここは」
鼻孔を襲う臭い。
車の……排気ガス!
脳の深奥に横たわる扁桃体という器官がひどく刺激されて暗い想像力が増幅された。わたしは鎖につながれ、闇に満ちた目の前には毒が滴っている。生命を奪い取る毒。神話のロキには毒をすくい取る妻シギンがいた。でも、わたしにはなにもいない。
わたしは生きながらに罪深い。母はわたしに憎悪しか見ていない。
わたしは、罰せられたの?
――逃げなければ、さもないと深い闇の底へと……
ベルトがぷつんと切れた。
――早く逃げなさい、さもなくば……
ああ、神様……わたしは逃げてよいのですか。
――私に会うのではなかったのかい!
わたしは突き動かされたように車内を漁った。助手席の下のカヴァーをめくったところ、ハンマーが見つかった。他には物らしい物が無いから、すべてを取り去ったものの、ハンマーだけは気づかなかったのだろう。
すべてを取り去ったのは、わたしから逃げる手立てを奪うため。
身震いし、絶望をふり払う。
――いま、会いにゆく。
力をこめてハンマーを握る手をふるう。窓ガラスが派手に割れた。
ライトをつけて車の外に出、手探りで排気パイプのホースを外し、再び車に乗った。見よう見まねの運転で夜の森を走る。でもサイド・ギアとブレーキの操作を誤って、緩いスピードで潅木の中に突っ込むと、ドアから飛び出した。傾斜が、枝をあちこちに装飾した車を転がして行く。やがて激しい水音がした。
紙一重の運命に冷や汗が流れる。
無言で立ち上がり、あてどもなく早足で歩いた。「主よ、わたしをいざないたまえ」……心で何度も祈った。一時、肺を満たしかけた一酸化炭素を完全に吐き出して、かわりにトネリコの香りを含んだ大気を吸いこんだ。
自分が住む町は、森を抜けると眼下に見えた。小さな町ながら夜中でもわずかな明かりが見えた。そこまでたどり着けば自分の家はすぐ分かる。
わが家は真っ暗で、誰もいず、鍵すらかかっていなかった。
キッチンはしんとして、慣れたジャムの香りがする。猫のように歩むと、足になにか固く冷たいものがぶつかった。
ガラス瓶。
拾い上げるとすぐ、めまいに襲われた。顕微鏡の中の微生物が目の前を漂うように見えて、気持ち悪くて身震いがする。冷たい固い、空き瓶の手触りを感じながら、すべてはこれが生み出したのだ、と手の内の諸悪の権化に対して憎悪に満ちた視線を送る。
床に投げ付けると、粗い破片が床に飛び散った。
さらには貯蔵庫の木箱の中のボトルをあさり、いくつもいくつも叩き壊した。
無言で、口を開いて、肩で息をする。
――来ればいい、私のもとに。
「行くわ、今すぐ。ええ、ここから逃げ出すわ」
サイフ、クレジットカード、身分証明カード、わたしの通学証。コートのあらゆるポケットに、持てる限りを突っこんだ。忌み嫌われ存在を消されるくらいなら、自分から消えよう。そうだ出て行け! 今のわたしには、毒をすくってくれる人はいない。
去りぎわに注意深くキッチンのなかを眺め回した。テーブルの上にはナイフでぎざぎざに開けた「M・スパゲティー・ソース」の空き缶が転がっている。二人分の内容量――二人のうちにわたしは含まれない、その絶望すべき現実が追い打ちをかける。涙はもう出ない。
朝一番の列車に飛び乗った。
ゼンタ・クヴィスリングは一人ぼっちだ。希望を持とう。声に従えば彼が待っているに違いない。
そう信じるしか、救いの道はないのだから。