19.名もなき氷の海で〔5〕
「私が呼んでくれと言うたんって」
私が不審の目を向けつつわめくと、久瀬くんが愛想笑いをも凍らせていわく。
「欲張りすぎて失敗したかも」
欲張りって、いったいどういう呼び方をしたんですか。
しかも冷静沈着が身上のあなた様が凍りつくとは。もしや、思いっきり想定外。
しかしお呼びでなくはない。むしろ良い結果なのかもしれない。この御仁、ナナツギスミタカさまはかなり期待できるかも。
そのスミタカさまたちは悠々と近づき、高らかに宣言する。
「キャプテン・ヴァン・デル・ヴェッケン、貴殿の真意、見届けましたぞ。貴殿が求めるなら今をもって我が朋友とし、お救い申し上げる」
おお、期待を裏切らないな。
今度は船長の対応に注目だ。
「感謝する、東の国の公子よ!」
ありがたい。こっちも判断力を取り戻してくれている。
スミタカさまは軽くうなずくと、矢継ぎ早に指示をくり出した。
「伝左は放水の指揮。丹嬰衆は伝左の指揮下に入れ。安賀島衆は救命舟を出し誘導。大地と神官衆は霊魂を守る祓いを執り行え。ヴェッケンどのは」
「私はこの艦の指揮がある」
「我らは状況を正確に把握する必要がある。貴艦の乗員、装備データをあまさずこの右近に伝えてもらう」
といった流れで、さりげにスミタカさまは主導権を握ってしまった。朋友とか言っときながら、鮮やかなもんだ。
今はすごく危険な状態だ。
船はぎしぎしと音をたてていたし、船から見た岩がさっきより高い位置にあるのは気のせいではなかろう。浸水をはじめたので消火要員も逃げ出してしまってもういない。
この船の沈没か焼失は目の前に、しかも確実にせまっている。
たくさんの小船が寄せられるや、われ先にと船員たちが飛び乗った。今度は姿がぱっと消えてしまうことはなかった。おそらくさっき船長が「ありがたい」とOKを出した返事、スミタカさまが命じた儀式のいずれかと関係があるとみた。さっき消えたのはきっと、彼の許可もなく逃げ出そうとしたからだ。
……消えたあとはどこへ行ったんだろう。
じっくり考えこんでる場合か。
私も早く逃げなくては。
とは思うが、避難の流れに乗れずにいた。
電車に乗ってるときの毎度のパターンだ。ドア付近にずっと立ってたのに、シートに座っていた人に押しやられ、あとから降りるという、あれ。私のトロい人っぷりは遠い北の地でも健在らしい。
「勝手な真似を」
フロリアンが低くつぶやいた。
重苦しい曇り空が再び雷鳴を轟かせる。
「やめて」
金切り声が岸辺から届く。
シギンさんだ。彼女ののどもとには依然としてナイフが鈍く光っている。
久瀬くん妙にうれしそう。だが、それはどうでもいい。
「お初にお目にかかる、フロリアどの」
一方、御座船はロープでつなげるくらいの距離まで近づいていた。
呼びかけを無言で迎えたフロリアンに、船上のスミタカさまは、
「おやおや?」
と大きな声を送る。芝居っぽいわざとらしさだ。
「違いましたかな。フロリアどのではなかったかな」
「……なにをしに来たのか」
「間違いなさそうですな」
スミタカさまはエリマキをずらして、イケメン顔をさらすと微笑。
「いやなに、ヴェッケンどのの船に客人と童を残したままゆえ、おっつけ参ったもの。貴殿が同乗されているなら一石二鳥」
いっせき、にちょう?
「ここな貴人がまみえたいと申されたゆえな」
「ども」
その声!
「藤生氏っ」
「藤生君!」
船の上と岸から同時に声が上がった。
久瀬くんと私、だ。
藤生氏は目を丸くしてまずは……途方に暮れた。
「え、あれ」
どうも自分を呼んだ相手がだれか分からないらしい。
でも知り合いらしいから、視認しようものの複数方向から呼ばれたもので、どっちに視点を定めてよいものやら分からない。そんな藤生氏の混乱、私には手に取るように分かる。
でもスルーされるのは困るし。
というわけで私は、さらに藤生氏に向かって声をはりあげた。
「藤生氏っ、ここー! わたしー!」
「なにとぼけとんねん、ヴォケー!」
また久瀬くんとかぶってしまった。
ごめん、混乱させる気は全くない。
しかし幸いなことに、ようやく藤生氏は久瀬くんと私の姿を認識したらしい。だけど不幸なことに、認識したはいいが「?」マークと蝶々が頭のまわりを飛びかっているご様子である。口を半開きにしたまんま、目は私たちの間を行ったり来たりしている。
そして長いような短いような。
一分ほどの沈黙。
その沈黙の果てに藤生氏が言いはなったせりふは、私には少なからざる衝撃だった。
「なんでここに?」
久瀬くんと私が即刻、言い返す。
「なんでって、なんやの?」
「なんでて、僕が呼んだんやんか」
またかぶった。気が合うね。
藤生氏はぼーっとした寝起き同然の顔つきだった。
「まあ、えーと、なんだ。とりあえず」
なにがとりあえずなんだ、とツッコミ入れたくなったところだ。
藤生氏はぴしっ、とフロリアンを指さした。顔が眠たそうではない。真剣だ。
「詐欺、未成年者誘拐略取。言い逃れ無用」
そしてまるっきり棒読みで藤生氏は宣言した。
「もういいなりになるの、おらへんぞ」
腰が砕けそうになった。
顔は真剣だがまるっきり言い方に緊張感がない。正義の味方ネタのコントでも始めようかという雰囲気だ。神戸弁の功罪を目の当たりにした瞬間である。
藤生氏登場から見事に空気がゆるんで間延び状態っぽいのも、気のせいでしょうか。
「たぶんおそらく今度はおれ負かすん無理やと思う」
たぶん、おそらく、思うって。
いま少し自信を持って敵に対抗できませんか。上主さま。
「……どうだろう?」
フロリアンが歪んだ冷笑を浮かべる。
伸ばした手の先から炎の鎖が藤生氏の身体にからみつく。が、藤生氏が片手でなぎ払うと、炎は一瞬で霧散した。
藤生氏、淡々として余裕。
やっぱり無敵の魔王様なんだな一応は。と思った矢先、藤生氏の背後に星が蒼白く瞬き、
「藤生氏、足もと!」
瞬間、藤生氏の足が凍りつく。
なにかを思う間もなく刺すような冷気に襲われ、そして上空から無数の氷のつぶてがオランダ幽霊船、ナナツギ船団へと降り注いだ。