19.名もなき氷の海で〔2〕
「天宮さんっ」
視界のはしに久瀬くん。
起き上がって前を見ると、進路にはなにもいない。あれだけ船で埋め尽くされていたのに。
「消えた」
「後ろにまだいる」
見てきたら、と言われて船のはしへ。
数秒だけ遠くを望む。確かに、いる。
ただ、その数秒で観察はあきらめた。強すぎる向かい風で目を開けるのさえつらい。風にあおられて髪の毛抜けそう。てなわけで、すぐ退散。
「瞬間移動したみたいな」
逃げ戻って久瀬くんに報告すると、
「正解やろね。この船の特殊能力かも」
「ナナツギもワープしてたけど」
「海図とにらめっこの入念な計画のうえ、準備に半日がかりでね」
さまよえるオランダ船は思いつけば短時間でできる。そこが特殊性……って、うわ!
景童子、久瀬くん、私そろって上空に注目。今度は吹き流して模様をつけた紙を折ったような、なんとも例えがたい空模様。またもや気持ち悪くなりかける。
がすぐ、マトモな空に戻る。立ち上がって船べりへと駆けよった。
「今度はつき放してる!」
明らかに距離が開いていた。
号令とともにふたたび風がほおを刺し始める。急いで箱のうしろに待避した。
外の景色の移り変わりが激しい。この船、モーター付きですかと問いたくなる速さで水面をかけて行く。箱の影から顔を出すと、それだけで前方から大きな風のあおりを受けた。あわてて顔をひっこめる。
これだけのスピードやし、じゅうぶん逃げ切れそう。現にあの船団をぐいぐい引き離して突き進んでいるようには見える。
再び久瀬くんにたずねると、
「こんだけの圧倒的機動力ならね」
「なら大丈夫」
「否」
景童子だった。風を背にして船長に険しい視線を向けている。
驚いた。
船長は柱にもたれてぐったりしていた。ただでさえ白い顔が真っ青。病的に落ちくぼんだ肌には灰色の染みができ、白い髪は乱れている。幽霊というより、幽鬼ってやつだ。
船の存在の根幹は船長にある。きゃつが衰弱すれば船もまた動きを止めるであろうーー景童子は警告する。
突然、和太鼓をどんっ、と叩く音がした。
次いで、船が大きく揺れる。
「風?」
「背後から大砲をぶっぱなされてる」
「うそっ」
罵声と恐怖の声がそこかしこで上がっている。
スミタカさまの船とは違う。あの七鬼水軍なら自信たっぷりに抗戦態勢に入ったろう。負けるわきゃない、てノリで。しかしこの船はオペラの設定によれば商船であって、まあ海賊対策の多少の戦闘能力はあるかもだけど、本職ではないのであり。つまり、真っ向勝負になればおそらく負けるであろうと、船員が一番理解しているわけであり。
ああ、絶望。あの一言一句カチーンとくる、安賀島大地さえも懐かしい。
……いかん。末期症状だ。
その懐しくない氏の先祖、景童子どのがオレサマ姿勢でツッコミを入れる。
「外海に退却し呪を回復させるべきでは」
ヴェッケン船長は顔を横に動かした。目が飛びださんばかりだ。ギョロリと目玉が動き、不気味に光っている。
「私は一刻でも早くたどり着くべきなのだ」
「百歳経るまで待ちながら、なぜ焦る」
「ゼンタは十数年しか生きていない」
船長はゼンタ嬢至上主義なのだ。愛だな、いいなあ。
なんて思ったのは私だけらしい。
「素人考えですが」久瀬くんも問いかける、「今あなたは策なくがむしゃらに突き進んでいるだけに見えます。地点の記録と瞬間移動を組み合わせて、巻き返しをはかる手も」
「拙速でも前へ進む。犠牲も見越している。それが私の判断だ」
景童子が信じられないという顔をした。
「船頭が拙速だの、犠牲だのと申すか!」
「逃げよ、前へ進め」
叫んで再び命令を出し、ヴァン・デル・ヴェッケン船長は固い決意をしめした。ウィレム航海長も帆の操作を命令している。
「物狂いの異人めが」
景童子は船長をにらみつけた。迷惑極まりない、といわんばかりに。
そして力いっぱい床を踏み抜くと、ずんずんと大またで船首へおもむいた。角のように張り出した根もとに勢いよく腰を下ろし、あぐらを組んだ。座りこんでストライキでもはじめるつもりだろうか。
「えっと、景童子さん」
「これより天祇海神に気象を問う。あわよくば雷神を招来する。それで逃げ切ればしめたもの」
「おお、えらいっ」
「かような軽挙妄動、指をくわえて眺めておれるか」
攻撃的な言い方なのがタマに傷だけど、前向きなのはえらいっ。ついでに力の限り踏み抜いたあと、床に穴が空いちゃってますけど、見なかったことにして。総合的には、えらいっ。
というわけで景童子。
その姿たるや、威風堂々と敵陣へと駆けてゆく勇者のようだ。
座ってるけど。
『真白なる地に神留まり坐す 掛まくも畏き……』
景童子はそこでいったん、切った。そしてしばらく黙りこくった。
いやいや、よく見ると、完全に沈黙しているわけじゃないようだ。うつむいて難しい顔してごく小さな声で、ぶつぶつ何かを言っている。
なんだろう。
すると、彼は空を見上げて朗々と歌う。
『おん名告げさせたまえ』
「名前が分からんかったんや」
そうみたい、と久瀬くんも笑った。
『八百の御寶を己がすがたと変じ給いて 雨渡る天界凍れる地界春の緑の芽を治め給ひ 禊祓へたまふろき神なるを尊み敬いて 六根一筋に御仕え申す事の由を受給いて 我乞い願い奉ることの由をきこしめして 六根の内に念じ申す大願成就なさしめ給へとかしこみかしこみもうす』
久瀬くんの顔色が変わった。
「景童子、呼ぶなっ!」
「どういうこと」
久瀬くんはひとつ、間を置いて答えた。
「ロキは北欧神話のトリック・スターとして有名な神。そんなん呼んだ日には」
空は灰色が濃度を増している。
波も荒くなってきた。甲板の中央にいるのに、おもいきり潮をかぶった。
「呼んじゃったんじゃない」
「空模様がひどすぎる」
雲はついに日の光をさえぎり、黒い霧が満ちてくる。重く垂れこめる雲と霧が、今にもこの船を押しつぶしそうだ。
「落雷でも来そうな」
景童子がにこりと笑って私たちを見ていた。
背筋に悪寒が走る。
景童子本人じゃありえないカオだ。こいつがロキ――っていう、神さま。
「我が名を呼ぶ声に導かれ、参りました。お呼びいただけて光栄」
「それはご丁寧にどうも」
と、思わず会釈。
ますます笑顔のステキな、景童子。全くありえない。
「いかにも落ちそうでしょう、この雷雲。ごあいさつがわりに近くに呼んでさしあげましょう」
「え、ちょっとそれは遠慮」
突然、青白い稲妻が鋭く鈍色の空を切り裂いた。
次いで、船に大きな衝撃。
「火柱が!」
マストに直撃し、火の手が上がった。
「早く消し止めろ!」
ウィレム航海長がわめきながら、甲板を走り回った。帆をすべて絞れ、ボートを降ろせ、水をくみ上げろ……。
「なんつうことを」久瀬くんが歯がみする、「僕らも幽霊に追っかけられて火ぃ放ったけど。いのちが危険にさらされてやむを得ず」
「……フロリアン」
「えっ」
「フロリアンや。分かる」
たしかに、夢や冬の苅野で見たムッシュ・フロリアンではない。
だけど、姿は違うけど分かる。
「理由は問うてくれるな。直感やから」
「信じる」
久瀬くんは一言返して、箱の陰、フロリアンからの死角で、リュックからアレを出した。私たちにはこの武器がある。ていうか、これしかない。
一撃必殺・サナリさんのあんみつ缶。
彼はあんみつ缶を開け、敢然と立ち上がった。
「入れっ!」