19.名もなき氷の海で〔1〕
「では、彼女は無事にいるのだね」
「おそらくは」
私の答えにヴェッケン船長は胸をなでおろした。
そしてようやく私の質問に答えてくれた。
「我々は今から、あの中を航海する予定にしている」
船長が指さした先。そこには高い崖がふたつ、門のように並んでいた。その間を進むというのだ。
久瀬くんは感嘆の声をあげた。
「フィヨルドかぁ。めっちゃすげー」
「ふぃよるど。ってなんやったっけ」
「氷河の侵食によってできたリアス式地形、って入試の社会の問題に出たよ、お嬢さん」
「覚えてませんっ」
横から景童子が哀れむような目を向ける。
「中学一年の地理の問題であろうが。愚かな」
「ほっとけ!」
船長さんは私たちの知的漫談を完全に無視。船をガンガン進めるよう、航海長に指示した。数時間で適切かつ効率的な私たちへの対応方法を覚えたようだ。そして前を向き、風を背にして立っている。
久瀬くんと私は船長から数歩退いて、大きな箱の後ろに身を沈めた。後ろからの風が強いのだ。強すぎて前に飛ばされて、さらには転がっていきそうだ。そんなわけで、風除けのために箱に隠れていた。これでも船の中にいるよりマシなのだ。どんな魔力なのかは分からないが、船長の近くにいないと寒くてたまらない。逆に近くにいると寒さもまぎれる。
一方、景童子はスミタカさまより預かったコンパス監視のため、船長から離れず目を光らせている。
海の門が近づくにつれ、大きく複雑な岩肌がはっきり見えてきた。
二対の女神像。
想像をはたらかせると、確かに見えないことはない。
女神の視線をかすかに感じたのは、私の空想が豊かすぎるんだろうか。見守られているのか、見張られているのか。妙に緊張感をおぼえつつ、切り立った断崖絶壁の間を粛々と船は進む。
「フィヨルド、思い出した。藤生氏がホテルで会った夫婦が観光に来てたんよね」
「豪華フィヨルド・クルーズ・ツアー。四〇万円コース」
久瀬くんの知識の幅はツアー相場にまでおよぶのか。
「私、そんな老後をすごせる老夫婦目指したいな」
「老いるまで待たんでもほら、今まさに幽霊船で逝くフィヨルド・ワンダリング・ツアー」
「逝っちゃあかんでしょ」
霧が濃い。上の方、崖のてっぺんが見えない。
ゼンタ嬢視点らしきモノローグのとおりだ。奥へと進むにつれ、垂直に切り立った壁の間は霧が濃くなっていった。まるで空は白い天井だ。ときに白いもやとなって船にまとわりつきさえする。
「この奥に彼女、ほんとにおるんかな」
と私がつぶやく。
久瀬くんは確信をもって答える。
「今までハズレはなかった」
「ん。まあ、そうやけど」
夢は幻でなく事実でありつづけた。
でもやっぱり不安。最後の最後にウソ、なんて展開も絶対ないとも言い切れないし。
「ええと、彼女と、いっしょにいるシギンという女の人を保護すればええんよね」
と確認・復習する私に久瀬くんはおごそかに答えた。
「そうすれば、チェック・メイト」
それは橘の締めのせりふだった。『マイ・スイート・ハニー』のすぐあとで、ただ結論だけ一方的に告げてきたという。どういう理屈でそうなるのかは明かさずに。
んで、藤生氏はどこに。その答えもなく。
「右一四度、五五フィート浮遊物、接近」
「絞帆」
命令を下しているのは船長さんの横にいるヒゲおじさん。航海長のウィレムさんという。
進行方向を見る。確かに浮遊物、白いものが水面に存在する。
「あれ。船、かな」
「禍つ気を発しておる」
景童子は険しい顔をした。
久瀬くんが微妙に顔をしかめて、
「てことはあれも幽霊船か」
「転回用意!」
ウィレム航海長の声がとどろいた。細くて今にも干からびそうな外見なのに、意外としっかりした声だ。
船は針路をななめに変えた。反対側の岸に向かっている。
「回避するんかな。ケイくん」
「身の程を知り賢明、と言いたいが」
景童子が舌打ちしたのは、久瀬くんに『ケイくん』呼ばわりされたからではない。明らかになにかヤバいことがおこりつつある、と予見したからだ。
壁面のラッパから絶叫があがった。つづいて、
不明船複数!
後方、左手に浮遊物発生!
と不穏な伝令が次々となされている。
後方から怒鳴り声も聞こえてくる。
「船団です!」
私の中途半端な〇.八の視力でも見えてきた。
白いもの、船は一隻ではなかった。翠色の水面に白い帯を広げたように、帆船がずらりと並んでいた。確実に行く手をさえぎり、この船の針路をはばむ。
再びラッパ型通信装置から絶叫があがる。のどが詰まったような声で、
「背後に黒い船団!」
久瀬くんも私も、いっせいに身を乗り出して後方を見た。
「寒っ!」
といいながら、彼も私も、ああ、とため息。
後ろにも白い帯が水平線に沿って横並び状態。もしかして、はさみこまれたのか。
あんまり寒いのでやっぱり箱の後ろに戻って縮こまって、
「あれって敵なんかな」
と、あえて聞いた。
そうじゃなけりゃいい。違うという答えを期待してみる。
しかしくそ真面目な景童子は、見事な空気の読めなさをあらわしてくれた。
「この禍つ気、歓待されてはおらぬだろうな」
あかんやん。どうすんの。
「総員、船体内側へ入れ!」
ヴェッケン船長が命じると、いっせいにデッキから人……じゃなくて幽霊船員さんたちが消えた。船長の横にいたウィレム航海長もいない。
「隠れろと言っているだろう」
「離れすぎると寒い」
好きにしろ、と船長が吐き捨てたらば、灰色の空がぐにゃりと曲がった。その折り目からは油がにじみ出たようになり、やがて空はマーブル調の筋目模様となっていった。それはあまりに不自然で非現実的で怖かった。が、怖さに負けないように、うわぁきしょいっ、と不愉快さを茶化してみせた。
久瀬くんのようすをうかがう。と、彼は棒立ちで絶句していた。
「素敵クルーズ・フィヨルドの海が」
海面は激しくうねり、やがて渦を巻いた。渦の外側からさかんに泡しぶきがあがり、やがて円形の渦も形を変えてゆく。なにが起ころうとしているのだろう、とぼう然と見守る私たちの目の前で、水面に亀裂が走り、やがて海が……割れた。
それはまるで映画『十戒』の世界。旧約聖書の世界。
モーセはイスラエルびとを率いてエジプトを脱出し、約束の地カナンへと向かっていた。しかしその行く手を紅海が阻み、エジプトの軍が彼らを追いつめる。ここで捕らえられれば、彼らはもとの奴隷生活に逆戻り。いや、それならまだいい。一度逃げた奴隷は、前よりひどい扱いを受けるだろう。
そのとき神はモーセに告げ、モーセはことばに従った。
モーセが手を海に向かって差しのべると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。(『出エジプト記』14章)
私たちは、救われるんかな……。