Interlude 18.
心臓が波打っている。ああ、私はまだ、生きている。
ここは白い。まぶしい。青い。
ここは生命の存在を感じない。
ここで私が生きている。それを不思議といわず、なんといえばよい?
私は起き上がった。正しくいえば、かろうじて起き上がることが出来たのだ。私の体はあちこちが軋んでいた。疼痛に顔が歪む。
目の前に壁がそびえている。
ここはどこか、と問いかけに答えてくれる者もいない。吐き出したため息は霧を生んで、そして消えた。
壁は崖だった。悠久の時の中で絶えず削り取られ、雪も積もらないほど垂直にそびえている。表面は、無数の剥き出しの傷に覆われている。
神々の爪痕。
昔、神々が争った後なのだ。そう私が教えられたのも既に遠い記憶の彼方……。
ふたつの断崖絶壁の間を凍れる水が隔てている。大河ではない。白と緑の海だった。
振り返れば、私が居るここはV字の谷間なのだと気づく。険しい峰を頂上から白の海へと、天から大きな手が掻きすくったあとのよう。掻きすくわれたその底は白緑の海へと続き、海のすぐ向こうには、神々の傷痕を刻んだ崖を望む。峰の頂上は常に白い霧に覆われ、霧の谷間を這うように流れる水は、まるで天から垂らした白糸に見え、そのか細さは蜘蛛の糸のようでもある。私は平らかな地を白糸を求め歩いた。果たして、私がたどり着いた滝壷で、思いがけない光景を目にした。
こんなところに人が……。
後ろ向きで離れてはいるが、豊かに長い髪に柳のような腕、重みを視覚に捉えられる臀部は、まぎれもなく女性。さっき見た、美しく輝く女神たちを想像する。私は岩陰に身を隠し――悪いことをしている訳ではないのに――そのようすをつかのま、うかがっていた。
たたずむ女性は壷を捧げ持ち、絶えることなく流れ続ける水を受け止めている。水の流量はごく少なかったけれど、小さな壷から水は溢れない。汲んでは枯れてゆくのか、永遠に満たされることがないのだろうか。
にわかに渇きを感じ、私は彼女のいる場所とは別の支流に近づいた。細い糸も黒い岩肌にぶつかると、激しく飛沫をまき散らしていた。私はその飛沫を浴びようと手を伸ばす……。
「その水に触れては駄目!」
私は驚いて肩をすくめた。
「これは」
「毒よ」
彼女は鋭く告げた。
「これが毒? 澄んだ奇麗な水なのに」
「触れれば即、全身に回り、身を穢し、手足は麻痺し、激しい苦痛にさいなまれ、もがき苦しむでしょう。これは呪わしい毒なのよ」
彼女の震える声は私に畏怖の念を起こさせる。
「その毒をあなたは壷に受け止めている。まるで永遠のように」
「永遠。そうかもしれない」
彼女は憂いに満ちた瞳を私に向けた。
私はどう答えればよいのかを知らず、目をそらしてうつむいた。
すると足元の黒い土には、小さな芽がすがたを現していた。目に見える光景のほとんどが冬なのに、ただその一点だけに春が訪れている!
彼女のいう『毒』は芽の上で受け止められていて、飛沫さえかぶることはなかった。微かな息吹は彼女のお陰で命脈を保ち、静かにこの地のすべてが春となる日を待ち焦がれている。
「なんて……神秘的」
私がそうもらすと、彼女の瞳から憂いの色が薄らいだ。彼女と私を隔てるものも時同じくして薄らいだように思え、私は彼女の元へ歩み寄ると、思い切っていくつかの質問を重ねてみた。
ここはどこ?
「さあ、どこかしら。私も連れて来られただけだから、分からない」
あなたは誰?
あなたはどうして、この芽を守っているの?
「私の名はシギン。この芽を守るのは、したたる毒という逃れても逃れきれない、呪わしい神々の罰から、夫を守るため」
あなたの名前は知っている。私の育った国の神話に残る女神。
そして呪わしい神々の罰は、強者が強者であり続けるための物語の筋立てに過ぎない。そう私はいつも思ってきた。それゆえに神をはじめとする強き者は、罰と称して掣肘を好み、束縛を好むのだ。