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魔法の壺  作者: 鏑木恵梨
Spiral Stairway
136/168

Interlude 18.

 心臓が波打っている。ああ、私はまだ、生きている。


 ここは白い。まぶしい。青い。

 ここは生命の存在を感じない。

 ここで私が生きている。それを不思議といわず、なんといえばよい?

 私は起き上がった。正しくいえば、かろうじて起き上がることが出来たのだ。私の体はあちこちが軋んでいた。疼痛に顔が歪む。

 目の前に壁がそびえている。

 ここはどこか、と問いかけに答えてくれる者もいない。吐き出したため息は霧を生んで、そして消えた。

 壁は崖だった。悠久の時の中で絶えず削り取られ、雪も積もらないほど垂直にそびえている。表面は、無数の剥き出しの傷に覆われている。

 神々の爪痕。

 昔、神々が争った後なのだ。そう私が教えられたのも既に遠い記憶の彼方……。

 ふたつの断崖絶壁の間を凍れる水が隔てている。大河ではない。白と緑の海だった。

 振り返れば、私が居るここはV字の谷間なのだと気づく。険しい峰を頂上から白の海へと、天から大きな手が掻きすくったあとのよう。掻きすくわれたその底は白緑の海へと続き、海のすぐ向こうには、神々の傷痕を刻んだ崖を望む。峰の頂上は常に白い霧に覆われ、霧の谷間を這うように流れる水は、まるで天から垂らした白糸に見え、そのか細さは蜘蛛の糸のようでもある。私は平らかな地を白糸を求め歩いた。果たして、私がたどり着いた滝壷で、思いがけない光景を目にした。

 こんなところに人が……。

 後ろ向きで離れてはいるが、豊かに長い髪に柳のような腕、重みを視覚に捉えられる臀部は、まぎれもなく女性。さっき見た、美しく輝く女神たちを想像する。私は岩陰に身を隠し――悪いことをしている訳ではないのに――そのようすをつかのま、うかがっていた。

 たたずむ女性は壷を捧げ持ち、絶えることなく流れ続ける水を受け止めている。水の流量はごく少なかったけれど、小さな壷から水は溢れない。汲んでは枯れてゆくのか、永遠に満たされることがないのだろうか。

 にわかに渇きを感じ、私は彼女のいる場所とは別の支流に近づいた。細い糸も黒い岩肌にぶつかると、激しく飛沫をまき散らしていた。私はその飛沫を浴びようと手を伸ばす……。


「その水に触れては駄目!」


 私は驚いて肩をすくめた。


「これは」

「毒よ」


 彼女は鋭く告げた。


「これが毒? 澄んだ奇麗な水なのに」

「触れれば即、全身に回り、身を穢し、手足は麻痺し、激しい苦痛にさいなまれ、もがき苦しむでしょう。これは呪わしい毒なのよ」


 彼女の震える声は私に畏怖の念を起こさせる。


「その毒をあなたは壷に受け止めている。まるで永遠のように」

「永遠。そうかもしれない」


 彼女は憂いに満ちた瞳を私に向けた。

 私はどう答えればよいのかを知らず、目をそらしてうつむいた。

 すると足元の黒い土には、小さな芽がすがたを現していた。目に見える光景のほとんどが冬なのに、ただその一点だけに春が訪れている!

 彼女のいう『毒』は芽の上で受け止められていて、飛沫さえかぶることはなかった。微かな息吹は彼女のお陰で命脈を保ち、静かにこの地のすべてが春となる日を待ち焦がれている。


「なんて……神秘的」


 私がそうもらすと、彼女の瞳から憂いの色が薄らいだ。彼女と私を隔てるものも時同じくして薄らいだように思え、私は彼女の元へ歩み寄ると、思い切っていくつかの質問を重ねてみた。

 ここはどこ?


「さあ、どこかしら。私も連れて来られただけだから、分からない」


 あなたは誰?

 あなたはどうして、この芽を守っているの?


「私の名はシギン。この芽を守るのは、したたる毒という逃れても逃れきれない、呪わしい神々の罰から、夫を守るため」


 あなたの名前は知っている。私の育った国の神話に残る女神。

 そして呪わしい神々の罰は、強者が強者であり続けるための物語の筋立てに過ぎない。そう私はいつも思ってきた。それゆえに神をはじめとする強き者は、罰と称して掣肘を好み、束縛を好むのだ。

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