17.海上のオペラ〔8〕
にわかに頭上の空が大きくなった。
オープンカフェ状態の部屋。そこには見覚えがある。壁面が壊れ、吹きさらし。久瀬くんがす巻きになっていた場所だ。
さっきは外との間隔が分からなかったが、今は距離を目測できる。壁面がないところは、足を滑らせたら甲板に落ちるか海へドボンだ。
そして足もとには槍が数本、転がっている。
槍の持ち主は……カンヅメの中か?
「さあ、形勢逆転」
久瀬くんはカンヅメを左手ににこりと笑ってみせた。彼の視線の先には、たったふたつの影がたたずむ。影が声を上げ、笑った。低く、くぐもった、ざらついた声だった。
切りつけるような風が通り抜けた。
私の手が無意識のうちにコートのえりをきゅっと握りしめ、かき合わせた。身体が勝手に動く、寒さをこらえる「おまじない」だ。
ヴェッケン船長の白い髪が揺れる。
「実に元気な客人だ」
意味の分からない外国語ではなかった。
ないしょ話を耳もとでされているようで、声ならぬ声であり。だけど話し手は「船長」。この前提条件は「1+1=2」とすぐさま答えられるのと同じく、頭に刷りこまれていた。
「客人て待遇とは思えんかったけど」
「主観の相違だ」
「相違しすぎやろ」
聞こえているのは私だけではないらしい。
久瀬くんは表情を崩さず、余裕さえ見せていた。
ゼンタ嬢の顔が見える。おびえていた。
なにかしらの攻撃を加えたら甲板へと逃げられそうだ。でも久瀬くんはそうしなかった。
「そこのお嬢さんにお願いがあります」
久瀬くんは大げさな動作で彼女を指差した。
彼女は肩をすくめ、大きな目をさらに見開く。くちびるがふるえていた。
「藤生君の居場所に案内してください」
ヴェッケン船長はまた、こもった声で笑う。君はこの私に要求するのかい。この子に命令するのかい。
「キャプテン・ヴェッケン、僕らはあなたを追いつめてるんですよ。僕の主観では、ですけどね」
「追いつめている、だって? それは周りを見て言いたまえ」
言われたとおり周囲を見渡した。
海にはいくつも船が漂っている。十隻近いだろう。
しかしそれらはアンティークな帆船。それも私たちが乗ってきた箱型の和船ではない。どう見ても西洋風味だ。
私は息をのんだ。
「どうなっておるのだ」
景童子をふりかえる。
彼はまゆを寄せ、私と目が合うと吐き出すように言った。
「七鬼の船は一隻も見当たらぬ」
「さっきまで攻撃されとったのに」
「さあ、これでも自分が優位にあるなどと言い張るかね」
船長の低い笑いは、しだいに高笑いへと変わった。勝利を確信しているに違いない。
「しかもあの船らて、なんなん」
「フロリアンに誘われた他の幽霊船か」
久瀬くんは船長を正面に見たまま、私に答えた。
「他の船って」
「フロリアンが誘ったんは、澄隆さんとヴェッケン船長だけやなくてさ。喜望峰やバミューダ海域でも準備が整ったとかなんとか」
去年の夏、みんなで幽霊船探検をしたとき若い男――今思えばたぶん右近さんだろう――がスミタカさまに報告していたのを、僕は記憶してるんやけど。
そんな話あったっけ。よくそんな細かいこと覚えているもんだ。
「ま、あの船が僕らになにかするわけでなし。驚くには値せんわ」
久瀬くんは余裕しゃくしゃく。
その自信の根拠はなんだ。確信があるのか、単なるハッタリ?
驚くには値しない、って。私も驚きはせんけど、状況的には絶望的でしょうが。ナナツギの船がいないってことは、私らに逃げ場はないんだぞ。
「客観的に見て、あなたは矛盾が多すぎる」
私の不安もおかまいなしに、久瀬くんは声を落とした。
「船長。あなたの望みは『神の罰』なるものから解放されることやないんですか」
「なんだって」
「時の流れも忘れるほどに永く海を漂いつづけ、どうあがいても逃れ得ない。その苦痛から解放される方法はただひとつ、存在を消滅させることだけ。そうあなたは信じている。違いますか」
船長は黙っている。
否定はしない。まあ、久瀬くんはヴェッケン船長がスミタカさまに話した内容を言い替えてるだけだ。イエス・ノーを答えるべくもないのだろう。
久瀬くんはかまわず論じつづける。
「その『この世から消えたい』という強い願望がありながら、どこか遠くの海へ『行きたい』と願いますか。ロジックが破綻してますよ。ならばこれは偽り、もしくは裏に含みある提案だと七鬼は受け止める。あなたに同意するはずがない」
そこまで久瀬くんの追及を聞いて、ふと頭によぎる。
ぼんやりとした映像。船上で見た幻。難しい顔のヴェッケン船長。向かいに座り、始終笑みを返す、フロリアン。
「ああーっ!」
「何じゃい驚くぞ、天宮どの」
景童子は私の名前、知ってはるんやね。
って、それはいいとして。
「思い出してん。船長さんて。ええと」
船上で見た幻を頭の中で再生する。そしてにわかにひらめく、結論。
「ナナツギを勧誘したのってフロリアンに約束したからっしょ。海を意のままにできるようになれば、そうすれば神様に、呪いを解くよう言うてくれるって。それに」
それに。ゼンタ嬢をちらりと見た。
フロリアンは脅迫したのだ。「彼女がどうなってもいいのか」と。
一瞬、ちゅうちょした。彼女がもしこの事実を認識していないのなら、彼女の面前で暴露するのは配慮に欠けないか。いや、日本語だから分からないかな。
どうする?
「それが分かったところで君たちになにが出来るのかな」
私が言いどもった間に、船長はやり返す。
「少なくとも彼の方が信頼できる。ネズミのように騒ぎたて、火を点けて回る君たちよりはね」
船長があごをしゃくり上げた。
私が以前、出て行ったドア。そこには顔がいくつも浮かび上がる。まるで亡霊のよう、って相手は幽霊か。
聞く耳持たぬとばかりに、亡霊たちは飛びかかってきた。
久瀬くんがカンヅメをかざした。
「……あんみつ缶!」
「地獄へ落ちよ!」
亡霊たちが次々消えるその間から、縄がいきなり伸びてきたかと思うと、両腕にからまっていた。
痛い、と思った後は、全身の感覚が失せて視界が逆転した。
久瀬くんが逆立ちして驚いている。
波間は空になり、空が海になり。それもやがて……フェードアウトしていった……。