17.海上のオペラ〔7〕
がたん。ばたん。
今度は廊下が騒がしい。
私は急いでカバンの中身をもとに戻した。
つづいてカギの摩擦音。ギシリと重たい開閉音。何度聞いても耳ざわり。
またあの少女か。今度はなにをしに?
私は身がまえた。
だが、顔を見せたのは彼女ではなかった。黒っぽいアースカラーの着物に、すそを絞った袴をはいた、
「景童子、やったっけ」
私を海に放りこもうとした、あの仇敵。長い黒髪を頭上で結い、キリっと美少年なのはあいかわらず。目つきの鋭さもあいかわらず。
身がまえるどころか、無言で三歩、退いてしまう。
まさか天宮暗殺じゃ、ないよね。
「ありがたい。助かります」
久瀬くんは笑顔を浮かべてみせた。
「喜ぶのは早計ぞ」景童子は冷淡に答える、「潜り込むのは容易なれど、この船の者どもに見咎められず脱け出すすべは、皆目見当つかぬ」
肩から力が抜けた。
助けに来てくれたのか。どういう風の吹き回しだろう。
まあ、味方が増えるのはよいことだ。でも希望を壊すことを言うてくれるなとツッコミたい。
「見つかっても力押しでいけます」
「力押しでか」
「強力な武器、持ってるし」
部屋さえ出りゃ大丈夫。久瀬くんは自信たっぷりに宣言した。
今度こそ彼の考えがくみ取れた。
「ミカンのカンヅメか」
私がカバンからカンヅメを取り出すと、彼は笑顔でうなずいた。
「『みかんの缶詰』で幽霊たちを脅すって、くだらん世界征服方法を企てるしょーもない悪の総帥になったみたいで、血沸き肉踊るよなあ」
沸かないし踊らないです。
ともあれ。
うだうだ駄弁っている時間ももったいない。とっとと廊下へ出た。
まさに一寸先は闇。真っ暗だ。
私の記憶が確かなら、ランプがあったのに。どこへ向かえば良いのかさっぱり分からない。船が傾いたりきしんだりはおさまったが、視界はゼロ。不安は解消されない。
景童子が先頭を歩いた。私は彼の着物のすそをつかみ、ついて行く。
だがしばらくも歩かないうち、景童子は足を止めた。
その矢先、背後から叫び声があがった。
「やつらか。走るぞ」
ヤツらって、幽霊さんですか。
部屋から出てすぐなのに、さっそく見つかったのか。
着物のすそを離さぬよう、必死で走った。
どたどた、ばたばた。
その足音、どう考えても近づいてきている。
一方、私は暗くて足もとが分からない。景童子をつかんで走るのはつらすぎ。力いっぱい走れない。
ていうか、どうして景童子とかあやつらは見えてるんよ。幽霊さんは暗闇に耐性があるのだろうか。
明かりがぼんやり見えた。
やがて明かりの正体が分かった。壁にかかっているランプだ。
「離れて」
久瀬くんはランプに手をかけた。
そしてランプの上ぶたを開けて、床に投げつけた。ランプはひしゃげ、壊れた。ランプが炎に包まれた。
その炎は瞬く間に大きくなった。ランプから油がこぼれ、火が燃え移ったのだ。一気に床一面に燃え広がった。炎のじゅうたんだ。
その鮮烈な色に目が痛い。油臭さにむせ返り、熱さにじりじりと焼かれそうになる。
火と向かいあわせ、火に目が離せぬまま、私は無意識のまま後ろに下がっていった。
炎の向こうで幽霊数体がほえていた。ドクロマークのような顔が暗闇に浮かびあがり、舞台で生首を見せる、不気味な奇術のようだった。こちらへ来い、と呼ばれている気がして、熱いのに今度は寒気をおぼえた。
「早くしろ」
景童子が鋭く言った。
そうや、逃げんと。私はあらためて自分に言いきかせた。
煙と臭いで頭がクラクラしかけている。
景童子は自分の着物の袖をくわえ、私は久瀬くんにティッシュを渡し、私自身はハンカチで口と鼻をおさえ、たちこめる煙と悪臭をふりはらい、走った。
思うに、船に火を放つなんて、私ら放火犯やないのか。彼らはどうなるんだろう。炎に巻かれてしまうんだろうか。幽霊が焼けたらどうなってしまうんだろう。船全体に火の手が回って私らも巻きこまれたりして。
そんなことを漠然と考えてしまう。
前方、明かりが差しこんでいる。光の筋道は上方向からだ。はるか遠く離れているように見える。遠近感はまるでなかった。
ともかくも、光の下へと全力で駆けた……ら、意外と近かった。
「空や」
そこから見えるのは、鈍い色の曇り空。
重苦しく雲が動き、崩れ、流れ、消えていく。私たちは光のシャワーを浴びているようだった。
「外へ出られる。あー生き返るーっ」
「ふたり分の大きさだが」
景童子は穴を見上げた。
久瀬くんもとなりに並び、腰に手をやる。
「順番に片付けよう、まずは」
私、自力で上がれるかな。ジャンプすれば穴のへりに手は届く。だけど足場もなく腕力だけではちょっと……彼らに上げてもらうしかないかも。肩車とか。台になってもらうとか。うーん、足手まといこの上ない。なわばしごとか、うまいことないのかな。
相談しようと思ったら、景童子は無言で羽織を脱いだ。そして久瀬くんに目配せをし、やおら羽織を勢いよく穴に放り上げた。
すると穴の上でなにかが光った。
「あ」
羽織は空中で浮いている。
いや、違う。
横から剣やら槍やらで突かれている。だから浮いたように見えるのだ。
「チイッ」
頭上から舌打ち。
待ち伏せされてた!
剣やら槍が羽織から引き抜かれるや、久瀬くんは素早く半身、穴によじ上る。
そして缶詰を開ける、小さな音がした。
「缶詰に、入れ」
一瞬の静寂ののち。
―――アアアアア!
―――コオオオオ!
声ならぬ悲鳴が何重ものコーラスとなり、あたりにとどろいた。
そして久瀬くんが上りきると代わりに、はらり、と羽織が落ちてきた。
羽織は穴だらけで裂けていた。それを受け取った景童子は身軽にジャンプし、穴の上に姿を消す。
私はどうなるよ。
と思ったら、上から景童子が手をさしのべてくれた。当たり前のように。
前は海に突き落とされかけ、今度は上に上げてくれて。なんと不思議なめぐり合わせだろう。