17.海上のオペラ〔6〕
「天宮さん、たーすーけーてー」
久瀬くんがす巻のまま、床に転がっていた。
言いたいことは分かる。
布を取ってくれ、ということだろう。
ていうか、久瀬くんの雰囲気といい表情といい、ガラリとひょう変している。いつも通りの愛想笑いを浮かべていた。それだけで私はなにか救われたような気分になる。
が、少しムカついたりもする。
「なんか妙な気分。時代劇のお約束を思い出して」
「お約束て、なに」
「あれーお代官さまぁー」などと裏声で言ったかと思うと今度は低い声で、「よいではないか、よいではないか、って町娘の着物の帯を引っ張るやつ。時代劇であるやん。あれ一生に一度はやってみたいって思ってたんやけど」
「……」
「人生は意外性の連続やな。まさか先に引っ張られる側に立つとは」
「そのままにしとこか」
というのは口だけで、す巻き放置なぞしないけどさ。
そうかこれまでのはすべて演技なんだねと納得する一方、さっきまで漂わせてた絶望感は、真に迫っていた。私も完全にだまされてたし。ホント、役者だ。
さておき。
久瀬くんは床に座りこみ、足を伸ばしてため息をついた。
「疲れたふぅ」
「疲れたふぅ、ちゃうわ。めっちゃ心配したし」
「そんなに本気に見えた?」
改めて感想を求められると……。
かなり怒りに青筋が立ちかけたところ、絶妙の間で彼はフォローを入れる。
「そないに怒らんといて。あれも、人畜無害な人質である必要があってのことで、そらもう必死やった」
「人質って」私は顔をしかめてみせる、「それどういうこと」
「交渉は決裂しました」
「え、交渉って」
久瀬くんはきわめて簡潔明瞭に話した。
スミタカさまはヴェッケン船長の申し出を拒否。理由は不明だけど、海の「世界制覇!」の話は乗らない、ということだ。そこでヴェッケン船長側は、スミタカさまたちを捕らえようとした。乱闘騒ぎのすえ、久瀬くんだけ捕らわれた、というわけらしい。
私がお手洗いを借りて、そのまま閉じこめられた間のできごとだった。
「いったいどうしたらええんやろ」
ひととおり、現状を聞いてまず思った。
フロリアンに誘われて、海を仕切ろうとするヴェッケン船長。それを断ったスミタカさん。ふたつは対立している。
その話には乗ってはいけない、とは私も思った。
でも現実として、じゃあこの先どうなればいいのか。ビジョンは全くない。
また、床が大きく傾いた。
「さっきから大揺れしてたり、あの壊れてますって感じの状態って」
交渉決裂になにか関係があるのだろうか。
「攻撃されとんやろ」
「攻撃て。だれが」
「ナナツギ水軍」
「私ら乗ってんのに?」
久瀬くんはこともなげに答える。
「しょせん便乗してただけやしな」
しょせん便乗してただけ、か。
たしかに、助けて、と強く言える立場じゃない。
でも頭で分かっていても、ひっかかる。スミタカさまたちは、人質の久瀬くんとお手洗いに消えた私がいると知ってて、攻撃しているわけで。やっぱりこの現実はショックだ。
「これ、キリスト?」
久瀬くんは壁面の絵を見つめていた。
いきなりネタが船とは関係ないところにそれる。もう少し、今がどうなっているのか知りたいのだけれど、とりあえず答えておいた。
「キリストの『ピエタ』。知らへんの。博学才英な久瀬くんが」
「へえ。『ピエタ』って、これのことを言うんや」
タイトルと実際の絵がつながってなかったみたい。彼はそうつぶやいて、絵を眺めた。
「私が知ってて、久瀬くんが知らへんことあるんや」
「ナニ様やと思てるの、僕を」
彼は苦笑してから、ぼそぼそとつぶやいた。
「復活……復活かあ」目を離さず数歩下がって、「滅びは再生に繋がる。そういう考え方って、仏教的なもんやと思ってたけど。キリスト教でも、あるもんなんかな」
『ピエタ』はキリストの滅びを描く。
磔刑のキリストは朽ち果てない。数週間の時を経て、復活を遂げる。
そのへんのことを言っているんだと思うけど。なにをこ難しいこと考えてるんだか。
というより、絵をじっくり鑑賞している場合か。
私はできるだけ落ち着いて質問する。
「ところで、余裕かましてるってことは、なにか秘策があるんよね」
「秘策」
彼は絵をまだ注視していた。
「この船から逃げる方法とか」
「ないよ」
「うそん」
「これから考えてみる」
「うそーん」
そんな行き当たりばったりでいいのか。ていうか私の専売特許を奪うな。
がっくり肩を落とす私に、彼は少し申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんよ。ご期待にそえなくて」
いやいや、彼のせいではない。
過剰に期待して頼りにしすぎだ。たしかに久瀬くんをナニ様レベルに期待しすぎだ。
そんなとき、コンコン、とノック。続いてドアの下部が小さく開き、そこからベージュの物体がごろん、と乱暴に差し入れられた。ドアには下部、床近くの部分に、上げ下げ開閉の差し入れ口があったのだ。開けられた今、はじめて存在に気がついた。映画で、牢屋に入っている登場人物に、小窓から食事が差し入れられる場面を思いおこす。部屋自体は応接間っぽいインテリアにもかかわらず、ますます造りは牢屋仕様だ。
で、投げ入れられたのは。
「私のカバンやん」
ドアごしの早口はあの彼女だろう。
彼女の口上が終わったら、足音が遠ざかる。
「久瀬くんはなんて言うてたか分かる?」
「うん。英語で助かったな。彼女いわく、どうせ缶詰とかハンカチとかしかないから返すって」
「親切やね」
「メシは出さへんから缶詰で食いつなげと。大事に食べなさい、やって」
「薄情やね」
「天宮さんの携帯電話、取りあげたらしい」
「ええええっ」
「ええやん。どうせここやと使われへんし」
「ええことない!」私は地団駄をふんだ、「みんなのメアドどうしてくれるんよ。返せ返せ返せーっ。こんな仕打ちを受けるやなんて、こうなったら、生きて脱出せんことには、死んでも死にきれへん」
「その心意気は良いけど、言うてることが矛盾しとうよ」
「矛盾しててもええの! なにしてくれんねんボケー!」
「大地さんのくれたスマートフォンは」
「それは」
コートのポケットだから無事だ。ついでに久瀬くんのレシートだらけのサイフもね。
「とりあえずさ、中、確かめてみてよ」
「分かった」
「いや僕の財布はええから」
私は下くちびるをかみつつ、カバンの中身を順々に確認していった。
カンヅメはみかん、桃、パイン、みつまめ。ハンカチ、ティッシュ、ブラシにヘアミスト、リップスティックにマニキュアと。ついでに、自分のサイフ。お札よりコンビニのレシートの方が多く、一円玉が小銭入れをふくれ上がらせている。久瀬くんのを馬鹿にはできない。
やっぱり私の携帯電話はなくなっていた。それに学生証もないのはなんでだ。
「ないと困るもんばっかなくなってる」
「あ。天宮さんこれ」
「なんなん?」
なかばヒステリックな返事をかえしてしまう。
久瀬くんは変わらずほのぼのつづける。
「缶詰、サナリの差し入れって言うてなかったっけ」
「は?」
「ほれ、ここに注目」
彼が指さしたところは一見、みかんカンヅメの商品説明だけに見える。しかしよくよく見ると、「厳選した広島県瀬戸田町産みかんを、甘さひかえめのシロップにつけました。」のつづきに、さりげなくこう書いてあったのだ。
「開けるとみかんの粒分の魂を奪取できます。ただしみかん粒以上の大きさは収容できません。」