17.海上のオペラ〔4〕
どうしてこうなったのだろう。
どれだけの時間が経ったのだろう。
分からない。
静寂の中にあり、その静けさが邪魔でしかたがない。恐れだけをふくらませる静けさに押しつぶされそうになる。
私はいすの上でひざをかかえ、丸くなっていた。
ただ―――ただひと筋だけ、望みがある。
戻らない私を不審がってくれるだろう。久瀬くんは今頃、なにか手を打とうとしてくれているかもしれない。
絶対そう。信じよう。
私は頭を上げた。
コトリ、コトリ。
扉の向こう、奥から響いて近づいてくる。
なにかがやって来る。
不安だけがふくらむ。身震いがした。
ドアノブが動いた。耳障りな金具のきしむ音。
私は動くに動けなかった。じっと見つめたなり、扉から目が離せなかった。怖くとも目を離せば最後、そんな不穏な考えで頭がいっぱいだったのだ。
果たして、そこには白い毛皮に包まれた少女が立っていた。ゼンタ・クヴィスリング。ほっぺたの赤さに対し、まなざしは冷たく固い。
きしむ音、そして金属どうしが軽くぶつかる音とともに扉は閉まる。
閉ざされた空間には、彼女と私のふたりきり。
なんでこんな仕打ちをするよ、と心の中は非難ゴウゴウだ。でもことばにできない。ことばの問題より、頭がこんがらがって声が出せない。
彼女は私になにか言葉を投げた。語調の鋭さだけが伝わる。
「アイ・ノウ」
彼女は一歩踏み出した。ぎしり、と床板がきしむ。
「カイ、コンパス」
藤生氏!
反応しそうなところを寸前で抑えた。
気づかれるな。知らぬ存ぜぬで通せ。久瀬くんの注意がすぐさまよみがえった。
努めてポーカーフェイスだ。私のポーカーフェイスはすなわち、ぽやーっと口を開けてアホ面。強調しておこう、地ではなく演技だ。
その一方、今なら逃げられるのではと果敢な考えを思いつく。彼女をふん縛ってしまえば、ここから逃げられる。
いや待て。乱闘騒ぎになり、この船の暗い幽霊たちがやって来るかも。逃走中、船内で迷うかも。彼女を人質にすれば逃げ切れるかも。いや、逃げ切れる保証は多くはない。
保証?
ここにいたままでいて、なにか保証ある?
ひとつ案が浮かんでは、否定し、また肯定する。出口は見つからない。でもいつもみたく、考えなしで動くのはダメだ。
どうしたらいい。久瀬くんならどうするだろう、どう考えるだろう。
藤生氏、コンパス。
彼女はそう言った。質問にもとれる言い方をしていた。彼女が私を閉じ込めたのはなぜ。なにかを聞き出そうとしていたのなら。知らぬ存ぜぬよりも、会話するほうが事態が動くのでがないか。
「なんで閉じこめたん」
日本語で通じるわけない。頭をひねって言い直す。
「ほゎい、ゆー」閉じ込めるってどう言うんやろ、「くろーず、どあ、アンドごー。ぜあいず、いんでぃするーむ、おんりー、みー」
たどたどしい点は開きなおる。
自分でも「ナニ言いたいねん」とツッコミたい。知ってる単語、並べてみたけど。通じてますかね、お嬢さん。
そのお嬢さんは頭を垂れ肩をすくめて、はーっとため息をつく。
カチーン。
なんだろねこの態度。確かに話せん女だけどさ。でも努力してんだから、温かく見守ってくれても良さげだろうに。
とまあ、グチっている場合ではない。
意志の疎通をはかるのが先決。
全然聞き取れなければ、筆談すればいい。さしあたって必要なのは。
「ペーパー、ペーパー、ペン、どぅーゆーはぶ?」
書くジェスチュアをくりかえした。
アホだ。でも必死。
彼女は、私のパントマイムをじっと眺めていると、やおら立ち上がった。クロゼットテーブルの引き出しを引く。メモとペン、インクが現れる。彼女は固い表情を浮かべたまま、それらをテーブルの上に置いた。
ブラボー! 通じたっ!
私は感謝を述べた。
どうせ分からんやろ、とは思いつつ。
「ありがとサンクス。意外と友好的やん、ネエさんてば」
少なくとも敵意はないかも。敵意があるなら、紙やらペンやらを出してくれるわけはない。ましてや、私の壊れ英語を聞き取る努力はすまい。
凍りついた態度も理由ありかもしれない。理由の推測は今時点では情報不足。なんとなくな希望的観測だけど、絶望的になるのは早い気がしてきた。
ペンは時代がったつけペンだった。映画でしか見たことない。初めてのつけペン。インクをつけて紙に書く。手が汚れた。紙はインクを吸わず紙の上に浮いたままで、書くにつれ手が汚くなる。
「ムキーっ」
なんて声を出して怒ってみたりした。どうでもいい話だけど。
真ん中に大きく書いた。
Kai Fujio
ゼンタ嬢は視線を紙から私の顔に移した。
どう出るか、カケだ。
彼女は私に藤生氏のフルネームを告げていない。分からんことばでも、さすがに藤生氏の名前なら聞き取れる。これは間違いない。なのに、私は藤生氏のフルネームを知っている。
そのことに気づいたかどうか。
彼女は無言だった。
問いつめているか、待っているか。そのいずれかだ。
私はていねいな書き方で、横にもう一筆添えた。友達――「my friend」と。
「ユア……!」
彼女は絶句し、私の両肩を押さえ揺さぶった。
表情は一変、険しく厳しい。激しくなにかを訴えて私を問いつめようとしている。やはり言うことは理解できない。でも彼女はひどく興奮している。
なにがそんなに、と頭が混乱しかけたところ。
どん、という音と衝撃。地面が傾ぐ。
ゼンタ嬢は悲鳴を上げつつ後ろに転び、私はその場にしゃがみこんだ。
船の中だ、地震なわけない。とはいえ、直下型地震の縦揺れに似た揺れだった。地震に慣らされた日本人な私は、揺れても冷静になに次にすべきことーー結局外に出ることだよなって考えるんだが。
慣れていない身にはショックだろう。ゼンタ嬢は呪うがごとくがなりたてた。オーマイゴッドの類だろうか。
「船が揺れただけやって、落ち着いて」
ゼンタ嬢は目をつりあげて、私をにらむ。私をにらんでもしゃあないやろに。まあ、騒がなくなっただけマシだ。
ところが、さらに衝撃音。
遠いけど確実にこの船だ。どこかで木が割れる。これは自然現象ではない。人為的な事象だ。
彼女が両手で耳をふさぎ、金切り声を上げた。
ぎしりぎしり、と室内ぜんたいが音を立てた。部屋ごとしぼりあげられているような。そのまま、この部屋はつぶれてしまうのではないか。冗談でなく本気で想像してしまう。
しかもゼンタ嬢はこの船の人間だ。その彼女がこんなパニック状態。この状況、どう考えても彼女には想定外なのだ。
そのことがなお恐怖を覚える。
いったい、なにが起こっている? 起ころうとしている?