17.海上のオペラ〔3〕
「私は、貴方が行きたくとも行けない世界へ向かう手助けをしよう」
あの銀髪の貴公子が語りかける。
と、ヴェッケン船長は食い入るように身を乗り出した。
「それで解放されるのか。この呪わしき拘束から、私は解き放たれるのか」
ヴェッケン船長の頭上、灰色の雲が層をなす中、青い旗がたなびいていた。それはマストにのぼれば、すぐつかみ取れそうでいて、でもはるかに手の届かない、空の高みにあるようにも見える。
フロリアンは空に目を向ける。
でもそれは一瞬のこと。彼は呼吸をするようにきわめて自然に、ヴェッケン船長に視線を戻した。
「私は貴方のためになろう」
彼は真正面に船長を見すえた。相手の真剣なまなざしに真摯に対峙するように。
そして、とうとうと語りかける。
「極東の島国に優れた海賊集団がいる。彼らと手を組みたまえ」
「……なんだって?」
「彼らは航海術こそ不慣れだが、海上警固に略奪、戦争となればお手のものだ」
「ありえない。東洋の海賊などと」
「海賊といっても貴方が想像するような無頼の輩ではないよ。彼らの歴史をひもとくと、キャプテンは貴方の国でいえば、ネーデルランドの名家・オレニェ公相当の地位といえば良いかな。公のごく私的な海軍を構成するのは、彼に仕える騎士にあたる」
ヴェッケン船長はふん、と答えてそっぽを向いた。話にならない、と言わんばかりだ。背もたれに身を投げ、足を組む。
しかしフロリアンは彼の反応を気にする風もなく、世間話をする調子で言った。
「それと話は変わるのだが、コンパスの少女」
船長が目を大きく開く。
フロリアンはその反応を見、ただ口を閉ざした。いや、楽しげに笑った。相手の反応を楽しんでいるのだ。
船長は声を荒らげた。
「彼女がどうしたというんだ?」
――天宮さん。
思わずぴんと背筋をのばした。
「天宮さん」
もう一度呼ぶ久瀬くん、不審の目を向ける。
私はスミタカさまの背中を見た。しかし視界が定まってくると……うん、間違いなく、目の前にいるのは久瀬くんだ。
今のって幻とか白昼夢とかかな。
はなはだ疑問だ。自分は今、ちゃんと起きてるんだろうか。つま先がしびれ、身を切らんばかりの寒さ。これに間違いはなさそうだ。
「えーと、なんか、ぼーっとしてた」
納得したのかどうか、久瀬くんは前を向いた。
ウソではないが、ウソをついたような気分。少し心苦しい。
詳しく説明できればいいけど、それも無理。なにしろ、なんの場面なのか全然分からないのだ。
いや、なにも考えずにありのままを話すか。
今見たシーンは想像や妄想なんかじゃない。根拠はないが確信する。情景も会話もいやにリアルで具体的だった。『オレなんとか公』て、どこのどなた。そんな固有名詞、聞いたこともないのだから、私の想像や創作なわけがない。
ならいったいさっきの白昼夢はなんなのか?
ずいぶん前から「藤生氏視点」でさえない。複数のだれかが私に見せているのか。寝ている時だけでなく、起きている時にまで。
……一連のできごとにかかわるヒントを?
あー、やっぱダメだ。私の脳みそじゃ。グダグダでもいいから話をして意見を求めるのが最善な気がしてきた。いや確実にベストだ。
なにから話そうか。
ふと、気づく。ほっぺに近づけたままのカップはすでに冷たい。代用カイロの役割を終えたカップをテーブルに置こうと、少し前かがみになった、まさにそのとき。
おなかに痛みが走った。
ただ、それも一瞬だったけれど。
冷えたかな。手をおなかにあてる。うつむく。あ、痛い。背筋を伸ばす。うわ、じわり、鈍痛が広がる。
まずい。差しこんできた。ひいたと思ったのは勘違いだ。これはやばいかも。痛みだしたのも急激な上、痛さ加減も尋常じゃなさげだ。いや、しばらくしたら治まる、と思いたい。
じいっとうつむいて待った。
だが、快方に向かう気配はなし。
顔を上げた。まだまだ会談は終わりが見えなさそうだ。
やばい、やばいぞ。素の顔もしていられなくなってきた。寒いのに脂汗さえ流れはじめて。
「すみません!」
久瀬くんが立ち上がった。
ああ、助けてくれる。気づいてくれた?
私を見おろす顔は愛想笑いでも怒りモードでもない。それだけは認識した。
「からだの具合が」
気づいてくれていた。助かった。
助かるけど、恥ずかしい。いや、恥ずかしかろうがかまわん。なんとかしてくれえ! ってだれに文句ぶつけてんだろ。いつしか頭の中は混濁状態、理解力は限りなくゼロに近づいていた。
安賀島大地が近づいてきて、
「彼女が案内するそうだ」
彼が指さした先、白い毛皮に包まれた少女が立っていた。
「!」
彼女はまさしく、あの夢の中の彼女。
だが観察をするゆとりはない。
おトイレ、間に合うかな、のほうが今は切実で重要だったから。
* * *
私はふう、と太息をついた。
洋式の女子お手洗い完備の幽霊船だった。ちなみにナナツギ船は共同利用だ。もともと女子の乗船を想定してないから、当たり前か。この船のトイレ、あの亜麻色の髪の彼女に対する配慮なのかな。
しかし廊下は暗い。少女が持つ古びたランプだけが頼りだった。もし穴や溝があったら気づかずはまる。それほど足元不如意な状態にある。ナナツギ船はLEDのランタンを備えてて、やけに現代装備で行動に不自由はなかった。
女子トイレあり、明るい船内。もしどっちかを選べと言われたら、甲乙つけがたい。
ともあれ前を進む少女にお礼を言った。
「サンキュー」
彼女は足を止め、ふり返った。
表情は固い。
でも拒否一辺倒ではなさそうだ。
とかく気まずいのは苦手。笑いはとれずとも、和やかになればといろいろネタを考えた。で、結局、ありがちなネタにおさまったわけだが。
「ファット・イズ・ユア・ネーム。マイ・ネーム・イズ・ハルコ」
反応なし。
どうしろってよ。間、持たへんやん。
そもそも間をもたす必要ないけど。なんか空回りしてるかも。にっこり笑ってすませた。ことばも通じないし、ムダに神経使うこともなかろう。しゃべるとぼろが出そうだし。と適当に前向きな理由をつけてひとり納得し、私はついて行く。
案内された先は、小ぎれいな応接間のような部屋だった。
「ほええ」
感嘆。白いクロスの壁、木のテーブルと皮張りのいす。卓上には白いポットとカップがあり、季節はずれの黄色いガーベラが可愛い。小さなクロゼットテーブルも備え付けてあり、これでベッドがあれば、ちょっとしたホテルだろう。
ナナツギの一等船室はもはや思い出してはならない領域だ。
ぼう然としているところ、彼女がはじめて声をかけてきた。
「なんですか」
彼女はイスをひいて指さした。
イスに座れと。
面食らってもじもじしていると、彼女は再びポット片手にイスをすすめる。どうやら座らねば次の展開はなさそうだ。しぶしぶイスに浅く腰かける。
彼女はカップにお茶を注ぐ。
お茶会か?
ついて来てなんだけど、ここでのんきにお茶をいただいてる場合やないよね。甲板で会議中やし。私がいようといまいと会談は進むけど。でもなんかね。
断ろう、と彼女を追った。
そして追いかけた先、目に飛びこんだものに私ははっとした。
壁面の白いクロスを大きな絵が暗く彩っていた。
『ピエタ』――イエス・キリストを描く宗教画だ。ゴルゴダの丘で十字架にはりつけられ、処刑されたイエス・キリスト。刑罰のあと十字架から降ろされ、横たわるキリストを抱え、悲しみに暮れる聖母マリア。キリストに泣きすがるマグダラのマリア。悲痛を胸にひざを折るヨハネ。絶望に満ちた滅びの光景。
その絵は古び傷んでいて、何カ所か剥落がある。でも絵の力は失われていない。失う悲しさを伝える力は。
私はその絵をしばし眺めていた。なぜか分からないけど……魅入られたかもしれない。
でも時間が頭の中で、自分にどつきツッコミを入れた。そろそろ甲板に戻らんとアカンなと、自分に言い聞かせ直した。そのときだ。
ガチリ。
背後で重たげな金属音がした。
「えっ」
もしかしてその音は、カギ?
ハルコ、とドアの向こうから私の名を呼ぶ少女の声。
反射的に、ドアに両手を当てた。
「……ゼンタ・クヴィスリング」
すでに知っている彼女の名乗りのあと、こもった足音が、遠ざかる。
それもまた消え。
それっきり、だった。
もしや私、閉じこめられた?
私は扉の前につっ立っていた。茫然自失、口をぽかんと開けたまま、しみのついた木の扉を眺めていた。
「またまたご冗談を」
私はそう言いながら扉に耳を寄せた。
ただただ、静か。
こんこん、とノックをしてみた。
「開けてくれませんか、オープンドアー」
再び耳を近づけた。
静かだ。
ぽたり、ぽたり。どこかで水滴が落ちる。
他にはなんの気配もない。
じわりと目が潤む。ごくっとつばを飲みこんで、息を大きく吸った。
「開けろぉー、開けんかーい!」
私は今度こそ叫んだ。げんこつで扉を叩き、ケリを入れて暴れた。あわよくば蹴破ろうかという勢いでだ。
だが扉は頑丈だった。騒音だけを作り出し、部屋の中で空しく反響する。
手が痛い。足がしびれる。
私はその場にへたりこんで、うなだれた。床板の筋目がにじんで見えた。