Interlude 16.
私は誰にも話さなかった。
大事にしていた妖精ニッセの人形を母に捨てられたこと。
私の家は、クリスマスにユーレニッセンからプレゼントをもらったことはない。彼のためにオートミールを作ったこともなければ、妖精ニッセのためにクリスマスプディングを飾ったことさえない。だけど……だから学校の友達の家の話を聞いて私は、夢の光景、と憧れていた。
クリスマスイヴの夜は、大きな袋を背中に提げてユーレニッセンがやって来る。私の家も例外じゃない。妖精ニッセが扉を開いてお出迎え。ユーレニッセンは私たち家族が用意した食事を、おいしそうに食べる。「おいしかったよ」お礼代わりにそっと窓辺にプレゼントを置く。帰りまぎわ、彼は「来年もまた来るからね」と静かにささやき、次の家へと向かうのだ。……私は朝、目を覚ます。窓辺には可愛いプレゼント。私は食いしんぼうの聖人に喜び、はしゃぎ、そして祈りを捧げる。
友達と会話の合うクリスマス。それが私のささやかな夢。ニッセの人形は私の「夢」を形にしたものだった。
捨てた、と聞かされてすぐ私はごみ小屋に走った。
でももう、ごみ小屋は空っぽだった。
プレゼントをもらう「夢」でさえ捨てられてしまったのだ。
夢はもう見ない。願いなど持たない。捨てなさい、私の母はニッセの人形でそう教えしつけたのだ。
涙も出ず、泣くこともなく。ただ、ぼんやりする頭を支えて家に戻るとき、そのがらくたを見つけた。ごみ小屋の外、草むらの影に捨てられていた。それがあの壊れたコンパスだった。
私は手を触れた。
「助けて」
人の声を聞いた気がした。
「私を、助けて下さい」
古びたコンパスは針がはずれていた。私は持ち帰ってコンパスを組み立てた。壊れたところを直せば助けてあげられる。誰かが私に助けを求めている。助けてあげなくては。
ニッセの妖精と私の夢を取り戻すことができなかった。
その代わりに手に入れたものが、コンパスだったのだ。
母に知られたらまた、捨てられてしまう。誰も知らない木陰に隠し、心の奥に閉じ込めた。
幸せな時間。
すべてが苦しくすべてが辛いときも、傷つけられたあとでも、幸福になれる。
私を優しいと言う人。私に逢いたいと言う人。私を必要としてくれる人。
私は幸せになろう。すべてを捨てて。捨てて惜しいものは私にはない。私には、幸せになる権利があるはずだから。
「逢いにいらしてくれますか、運命の人」
「行きます、必ず」
母の誕生日が家の金庫の暗証番号。せめて港までの電車代はほしかった。私が、自由に使えるお金を得たのは、これが最初で、おそらく最後になる。
誰も私が出て行くことを知らない。
「君はだれにも話せなかったのか」
駅で会ったぶっきらぼうで不思議な日本人は、こう問いかけた。
「本当に、現実の世界を捨てていいのか」
どうしていけないの?
すぐ手の届くところに、私の夢が、幸せがあるのに。
今や私は彼の傍らにいる。いや……正しくは「私の霊魂が」身を寄せている。
「君が来てくれたのに、コンパスを失ってしまうなんて」
彼は鳶色の瞳で端正な顔立ち。
彼の髪は真っ白だった。創造されて以来、彼は漂流し続けていた。永遠のような年月、救いを求め、出口を探し続け、自らの存在を隠すように白くなってしまった。
「すまない。まるで君を責めるようで。君のせいじゃないのに」
いいえ。コンパスを盗られたのは、私のせい。
神々の谷間の氷に埋められた「カイ」のせい。
私は未だ身体を捨てきれずにいる。私は心のない人形のように、醜く動き続けている。迷い……だろうか。現実を捨てきれない迷いが、身体の滅びを拒んでいる。
生まれたこの国から遠く離れることを恐れている。
「私はそばにいるわ。コンパスは探せばいいのよ」
彼もまた、時間も失い、ただこの海を漂う存在。
彼を想う人を得て、コンパスの指し示す方角を目指して、初めて彼は解放される。終わらない時間の流れから抜け出し、静かに眠りにつくことができる。
彼は少し、笑った。
私はゆっくりとうなずいた。
「君は、君の持てるものを捨てようとしている」白色の髪の彼は同じ色の空を見上げた、「私も、私の持てるものを捨てよう。解放の時を、自ら手にするために」
私は霧がちな遠景を望み、じっと目を凝らした。
少しずつ触れたものを溶かすような霧。その中から現れた大きな影は、黒く、朱く、そして金色に輝いていた。
船。不思議な形をした船たちが、静かに私たちの船に近づいてくる。
彼は両腕を伸ばし、その姿を自らの手で包み込んだ。