16.木の葉に宿る露〔5〕
再び暗い空の下、ぬるくて痛い雨に立ち向かう。
「ひと差し、献じましょう」
舞をひと差し、つまりは踊りますって話だ。
演出するなら本格的に、とは小波さんの提案。小波さんに舞ってもらうことにした。自分でタネまいといて丸投げでってのは、多少気が引けるけど。
ともかく私、天宮は今、小波さまである。
私じゃない「私」は両手で木の枝を持った。敵方少年から小道具として借り受けた。ゆるやかに、私は両腕を体の前に上げた。そして水平にぴんとのばしたところで、ぴたりと止める。
かけまくも かしこき
すめらかみを はじめたてまつり
まるで百人一首の朗詠者みたいに歌う。雨にも負けはしない。
……私の声って、こんなによく通ったっけ。
たかおかみ くらどの
いかづちのおかみ
みくまりのかみ
あめのくひざもちのかみ
くにのくひざもちのかみ
あまつかみ やおろず 御前に
かしこみ かしこみも 申さく
船が大きく揺れた。
傾きかけた体をひねり、軽く半回転。くるりと回って、軽やかなステップ。
本当は倒れそうなところをこらえた。つま先とひざがしびれているけど、苦痛はかけらも見せはしない。
ぴたり、と足をそろえて直立。ゆっくりと両腕を上げ、肩の高さで横にのばした。
視線の先は船の先にあった。
白波と水しぶきが上がる。甲板は常に傾きを変えていた。
それでも直立不動。
こんな不安定な場所で綺麗に舞おうというのは強靭な足腰が要る。小波さんの精神力のタマモノ、でもベースの私も悪くない。小学校までの柔道とサッカー、今もつづけてるジョギング・スクワットが効いている。
この頃 雨雲覆い 雨やめずして
はなはだしき 風 船をなぎ
海の民 憂い嘆きて
安からず さまよいたる
風は前より強くなっている。
さっき回ったとき一瞬だけ、橘先輩の姿が見えた。
結局、彼は手伝ってくれることになった。そのいきさつを思い出す。
「お手伝いしてくれますよね」
橘先輩はうんざりした顔で久瀬くんに言い返した。
「ちと待て。くれますよね、て。そやから風は」
「船に致命的な影響を及ぼさん加減がどのくらいかくらい、先輩なら十分わきまえとうでしょ」
久瀬くんはさわやかにイヤミを言ってのけた。
「いや、でも」
「だめですか。なら今すぐロシアか中国に行って来てください」
「ロシアて、なんやそれ」
「雲を消す薬剤があるそうなんですよ。降雨は困るイベント時にはその薬を空に撒いてたそうです。軍事パレードとか、G8とか、最近ではオリンピック。熱帯雨林気候下での効果は未知数やけど、使えんこともないかなと」
「クスリぱちって撒いて来い、てか」
「どっち選びます?」
「なんで二者択一やねん!」
橘はどつきツッコミのあと、小声でぼやいた。
やっぱオマエ、キライ。
でもしぶしぶカバンに手を突っこんだ。手のひらにはビー玉ひとつ。ランタンの火を映し、玉虫色の光を放っていた。
雲は、猛スピードで流れていく。
今までに見たことがないほどの、不自然さすら感じる速さ。そう思うのは私――正確には小波さん――が動き回っているからだろうか。
目まぐるしく景色は動いていく。
われ 大神の御前に
雨やましめたまえと
祈り申しき 御前に
視界のはしからまばゆい光が差しこんだ。
しかるを祈り申ししも
しるさく 能く
雨やましめたまえることを
貴びいそしみ ゐやび
また 幣帛を捧げ持ちて
周囲が明るくなってきた。甲板に私の影が現れる。
影。太陽が……?
称えごとをへ まつらくを
平らけく 安らけく
聞こしめせと
かしこみかしこみ 申す
白と灰色の重なり合う雲の間。ひときわ明るい光がこぼれている。
その光はまっすぐな道となって海に届き、道の終点、水面は、空が明るさを取り戻すのに応え、きらきらと輝いた。
天女が舞い降りてくるように。
道はいく筋も伸び、互いに溶けあってひとつになり、青い空が拡がっていった。
どこからか聞こえる。
「……海鳥じゃ」
みんなそろって空を見上げた。
「お天道様が見ゆる!」
小亮太さんは空を指さし、マストの上へとよじ上った。
つられて周囲も口々に声を上げる。
「嵐がやんだぞう」
「晴れたぞ、晴れたあ」
「島も見ゆる」
「だまされてはならぬ!」
あの少年だ。
周囲は彼に注目する。そして私にも注目する。
激しく挑みかかる視線。私は内心落ち着かない。でも小波さんは堂々と彼を見つめ、次の言葉を待っている。
「逆に確たる証左であろうが。かの者が雨を呼び嵐を招いたという」
んなアホな。
てゆか、結局どうなろうといちゃもんつけるつもりちゃうの。
「でも晴れましたよ」
すうっと人だかりから抜けて出た。
それは彼、久瀬くん。風邪の諸症状は見る影もない。ゆうゆう周囲を見回した。
みんな彼に注目する。
「望みどおり今、天は嵐を払い、この船は日の光を受けています。これは彼女の祈りが天に届いた証拠。どこに非難する余地がありますか」
久瀬くんは言い終わると一瞬だけ、視線をちらつかせた。
それが目配せで、だれが相手かはすぐに分かった。安賀島大地だ。
「そりゃ昔は、いや今でも魚の網を触らせないところはあるけどさ。
でも若殿の考え方は――この船の装備をみんな思い返してくれよ。LEDランタンで火を使わず安全で明るい。舵は古来のもんじゃなく新しい、引きが楽なものにした。火器もすべて後の時代のものにし、若自身はあらゆる時代の戦略をすべて知識として学んできた」
とりかこむ水夫さんのひとりがうなずいた。
「お陰で一から芽衣川で仕込み直さされたがな」
「若がこれを使えばもっと強くなれる、とおおせになられたから」
「実際、西洋船との戦いは強かった」
伝左さんが納得とばかりにうなずいた。
「いくさもそうだが、先刻の嵐とて、元来の船では耐えられなんだろうよ」
御目見得の武士たちはいずれもそうだろうな、と認めていた。連結するとなりの船の甲板から右近さんが笑って返した。
「この船は若殿と船大工三郎の知恵と技量と意地の結集。嵐に負けるものか」
「それも小波さまあってこその意地だがのう」
「伝左、よくこんなところではっきりと言う。少しはわきまえんか」
「今、若いないから平気だって」
側近どうしのフランクな若殿ネタ、すごく面白そう。
そして大地がもうひと演説。
「どうだわが祖、安賀島神官衆。過去にとらわれず良いものは進んで受け入れる。それがこの水軍の強さで、若のやり方だ。毛利水軍を破った鉄甲船もこの船もその証だろう。その若が彼女を乗せたんだ、考えあってのことじゃないか」
みなさんいつの間に結託したんだろ。
右近さん伝左さんまでグルなのがすごい。
幽霊さんたち、大半は話を聞いて納得してくれているようだ。ていうか納得してくれ、全員。頼むわ。
そんなことを思っているとまた突然、役者が変わった。
マストの上で小亮太さんが指をさした。
「みなさま、あちらをご覧あれかし!」
指し示した先は船首方向、はるか水平線に見えた島。
そこから船団と同じ船が二隻、姿をあらわしたのだ。ゆっくりその船は近づいてくる。
「若殿ご帰還!」
今まで私を見物していた周囲の船の幽霊さんたちすべて、我も我もと帰還する船を見ようと向かっていった。
間もなく主船とふたつの船がつなげられた。
右近さんが出むかえる。
「若、ご無事で」
「うん。みなも無事かな」
本日はターバン巻きのスミタカさま。御座舟へ軽やかに飛び移り、
「なんだなんだ。全員で出迎え」
と不思議そうに首をかしげると、わあっと喚声がわき起こった。
少年の非難に耳をかす者はもはやいない。お祭り騒ぎで喜び、はしゃいでいた。
そんな中、久瀬くんと橘先輩と安賀島大地は一歩引いて見守っている。むしろ、取り残された少年にあわれみの視線さえ向けていた。
『……天宮はるこよ』
呼びかけられて気づいた。
腕が自分の意思で動く。小波さんはすでに頭の奥にひっこんでいるらしい。
『頼まれてくりゃれ』
私は当然同意した。
そして彼女が伝えるフレーズを詠みあげた。
海にます
神の助けにかからずは
潮のやおあいにさすらへなまし
「おかたさま……」
少年は魂を抜かれたかのように崩れおちた。
語らずとも景童子という少年は歌の意味を分かっていた――だれのせいでもなく、ただ、海の神様の助けがあったから。
みだれた髪もそのままに、私に向かって彼はつぶやく。
「申しわけござりませぬ……おかたさま……」
私は手にした緑の枝をかかえた。
木の葉の中、雨露はきらきら輝きをたたえていた。