16.木の葉に宿る露〔4〕
ぐらり、と大きく船が揺れた。久瀬くんも私も足がもたついて、壁にしがみついた。無事、転倒回避。
ほっとしたところで、彼は短く問いかけた。
「なんか起こっとんのやろ」
「う、うん」
答えあぐねて口ごもる。説明しにくいのは変わらない。
久瀬くんは首をかしげ、私を斜交いに見た。彼は目で物を言う。回答するのは自由だが……義務だ。
答えねばならない気分になる。この人、弁護士より検事とかのほうが向いてる。
そんなことを思いつつ、しぶしぶ私は話した。
いきなり甲板に引きずり出されて海に沈められそうになったこと。そして「嵐がきたのは女だから」と言われたこと。それで晴れにする対決をしなければいけないこと。
彼は眉をひそめた。
「なんでその話、橘先輩にせんかったん」
「事情はええって言われた」
「そんな切迫した状況やって聞いたら、いくら気分屋なあの人でも、別の方法考えてくれるやろに」
「そうかなあ」
「まああの人もその格好見て異常事態と思わんかったのかと、説教もんやけど」
久瀬くんの説教はそこで途切れた。
伝い歩きで甲板の出口付近までやって来た。
風は船内まで侵入している。びょうびょう、と叫びをあげ、私たちにぶつかってくる。さっきと違うのは、異様に生ぬるいことだ。顔にまとわりついて気持ち悪い。ただ、湿った服も風で冷えない。風邪をひきにくい分だけマシ、というものだ。
「えらい雨やな」
メガネについた雨粒を払いつつ、久瀬くんはつぶやいた。
ひどい雨だ、改めて私もそう思う。
「こんな中で大乱闘してたん」
「うん」
「ご愁傷さま」
「どういたしまして」
なんだかあわれまれている気がする。
実際、あわれな空回りしてるしね。泣きたい。
「それにしても、まだ降るんかな」
久瀬くんはしばらく、ぽかんと口を開けて空を見上げていた。口の中に雨が入りそう。衛生的にいいのかな。横槍入れるのもなんなので黙っておくけど。
そして、口を閉じてから、また開いて言ったことには。
「つかの間だけやろ」
重苦しい灰色一色の光景は変わりない。
ただ、今感じるのはその灰色がひどく速いスピードで、うねりを描いていること。濁流が空を流れ、ファンタジーっぽくいうと「竜が天を暴れる」ようだった。勢いで雨が降っているときは、まったく気づいていなかった。
彼は一度せきこんで、それからはっきり断言した。
「雨は上がるよ。長くない」
なにか彼のせりふに希望の光を見た気がする。
「晴れるん」
「晴れる。風もおさまるはず」
どうしてだろう。
久瀬くんはまだ空を眺めているけど、私は質問はせずに次のことばを待つ。
「北東モンスーンの風。乾季の雨。ヒマラヤ山脈から吹き降ろす風が、海で低気圧を作って雨を降らせている。それが今の天気概況」
「はあ」
「冷たい空気が暖められきったらそこで荒天はおさまる」
「??」
「雨、さっきより温かいってことない?」
「そういえばさっきは寒かったけど、今はあまり寒くない」
「やっぱりね。一時間もせんうちに雨、上がるわ」
「ホンマ?」
「乾季のスコールらしいし、荒れ方はすごいけど短時間で」
「そうなんだそうなんだ」私はぶつくさ言いつづけた、「そんなら無理になんかせんでも、勝手に雨はやんで」
晴れるんだ!
どっと、一気に全身から力が抜ける。
足もとがふらっときて、ゆっくり壁にもたれかかった。倒れそうになってると勘違いしたのか、久瀬くんが横からささえてくれた。
あ……あったかい。なんかすごく安心する。良かった。お腹の底から長いため息が出る。
ようやく空から目線を外した。
「天宮さん。晴れにして見せるんて、どう」
「晴れに、する」
「勝手に晴れたところで勝負はドローやん。晴れると分かっとんのやったら、勝ちにいこうや」
「勝ちって、どう」
私が横を向くと、久瀬くんの顔はすぐ横にあった。
「自分が晴れにしてみせた、って、演出すんねん。派手に。ビビらしたもん勝ちやって」
いたずら小僧っぽい笑顔だ。なんだか胸がどきどきわくわくしてくる。
が、しかし。
すぐに久瀬くん、半身そらして壁におでこを派手にぶつけたかと思うと、
けほ、へっくしゅ!
笑顔は途切れ、眉間にしわがよった。
さっきのは咳とくしゃみ、どっちなんだ。まだ風邪治らない。こんな雨にあたらせてまずいかな。
「演出って。私に雨乞いでもしろと」
「痛いお……これ以上雨降らしてどうするよ。言うんやったら晴乞い」
ハレゴイ。
あまりなじみないことばだけど、ツッコミは妥当だ。
「でもそんなん、どうすんの。どうやって」
「そこは適当。神社でやってるとこもあるらしいし、安賀島さんにワンフレーズくらい、振り付けだけ教えてもらっといてさ」
「……まじすか」
「とってもまじです」
「そんなん大丈夫なんかな」
「僕は勝算ないことは言わへんよ」
彼の案は計算された結果だ。私の思いつきとは違う。
案は時として、私の思いつきが招いた災難をなにげない一言でおさめさえする。しかもそれは、なにもかもうまくいったあとで気付く。
うまくいきそうな気がしてきた。ただ、
「私の振り付けのほうが心配というか」
「天宮さんマラソンと水泳以外は体育得意やろ。柔軟そうやし舞の形つけたら、きれいに見えると思うんよな」
「そうかな」
「そう思う」
「ようし。当たって砕けろ。勝つぞおー」
と意気ごむ私に彼はすかさず、お約束のツッコミを入れた。
「砕けたらアカンやろ」
そのとき、私は頭の中で声をかけられた。
『妾に、委ねてみぬか』