16.木の葉に宿る露〔1〕
起きぬけ、立ったとたんふらついた。
壁にしがみつきながら寝ぼけてるんかなと思った。いや。頭は起きてる。体調だって悪くない。
船が揺れている。
いつでも揺れはある。だけど今朝ほど揺れが気になったことはない。転びそうになるのは初めてだ。
外の様子を見よう。
伝い歩きをしながら、甲板に上がった。
「どわあ!」
思わず叫んで、船内に身を隠した。
一瞬だ。
髪の毛はめちゃくちゃ。顔に手を当てる。しぶきを浴びていた。服もシャツびしょぬれ。黒いシャツでよかった。白いシャツなら透けてエロ展開の可能性も……だれも期待してませんね、すみません。
大きな揺れに、前につんのめって壁に激突寸前、手で支えた。
船体にたたきつけるような降りが、壁越しにも伝わってくる。
顔を壁から外す。と、雨音の間隙からひょうひょうと風の叫びが聞こえた。悲痛な嘆きの声を思わせる。
いや。それだけじゃない。自然の音だけじゃなく。
人の声だ。
少しだけ引き戸を開けてみた。
横なぐりの雨の中、人は立っていた。
朱色に金襴、白に紫、色とりどりの着物。派手な色彩は一面灰色の光景に染みてにじんでいくようだった。というのも、色はひとところに止まらない。つねにいろんな色彩が現れては消えて行く。まるでネオンのように。
いかづちのおかみ みくまりのかみ
少年の声だ。変声期前のボーイソプラノ。
ゆっくりと歌いながら、踊っている。
その舞はテレビでちらっと京都の「都をどり」。舞妓さんが華麗な振袖で舞い、優雅さ華やかにうっとり見ほれたものだ。そのときの印象に近い。
今回もそう。呼吸をも忘れてしまいそう。
かしこみ かしこみも もうさく
手がすうっと、上がる。合わせて深呼吸をする。
舞える手の動きが止まる。私も息を、飲みこむ。
手にした緑の枝を一気になぎ払う。引っぱたかれたようだった。
私のいる楼閣をふりかえる。雨ぐもりの中、表情はうかがえない。扉のすき間からかかる水滴が私の顔にまとわりついた。水滴をぬぐって、目をこらした。
そのとき。
ナイフを木に突き刺すような、鋭い音。思わずのけぞった。
そして顔を上げる。
「あ」
条件反射的にもらした声は、思いがけずふるえていた。
目の前にいるのは舞う少年。
緑の葉が生い茂った枝を片手に外に立っていた。
雨に打たれ流れ落ちる白いフェイス・ペインティング。彼の素地は色白で、細おもての顔にはっきりした目鼻立ち。おばけ屋敷くずれのメイクをさっぱり落とせば、小ぎれいな少年に違いない。希望交じりの妄想ではなく、かなり自信のある予想だ。
髪は頭の上で結い、動いていくつかの束が垂れ下がっていた。それもまた艶っぽさを醸しだしている。
といった観察もここまで。
それ以上の余裕はそのときの私にはなく、
「なにっ」
突如として二の腕をつかまれ、非難と抵抗の声をあげるのに必死だった。
「なにすん……」
意外に腕力がある。
ぐいぐいと引っぱり立たされ、甲板に引きずり出された。
雨と風で全身が痛い。そして腕も痛い。
「離し……っ」
ふりほどこうとしても、ふりほどけない。
血の巡りが悪くなりそう。痛くて語尾までしゃべれない。
「離せっ」
「黙れ」
この声、聞き覚えが……ありそうだが思い出す間はなかった。
ふと気づくと船のへり。
まさか、私、海に沈められる?
じたばたもがき暴れ、のたうちまわった。腕をふり回し、あがきにあがいて腕をふりほどいた。投げ出されるかたちで私が倒れこむ。が、すぐさま立ち上が……ろうとしたところ頭を押さえつけられ、
「こしゃくな小娘め!」
私が小娘ならあんたはガキんちょ、とツッコむヒマもなく。
片ひざでしゃがんだ姿勢のまま、頭を床におさえつけられている。顔は横向き。薄い鉄板の床でほおは冷たく痛い。雨が冷たく背中を打つ。全身びしょぬれになり横の髪が顔にはりついていた。気持ちが悪い。
わずかながら頭を上に向けた。周囲のようすをうかがう。
殺されるかも。
少年は顔を歪め、私を見下ろしている。
さっきまで華々しく舞っていた彼の瞳はいまや暗い。憎悪と敵意がむきだしだった。
周囲には、何人かが取り巻いて座っている。表情はうかがえない。が、冷淡に、なりゆきにまかせているようだ。彼らも怖い。一歩間違ったら今にも立ち上がり、虫のように踏みつぶされそうだ。
「私、なんか、しましたっけ」
どうしようもない姿勢でも堂々と質問するつもりだった。
なのに思いがけず声はふるえた。かなりくやしい。
少年は枝をふり上げた。
「よう言うたものよ!」
ぱしん!
枝が私を打つ音は雨にかき消されなかった。
私は半身をそらしてその枝を手で受け止め、握り返した。ぐいっと、引っ張る。少年が払おうと引き返す。片腕で綱引きだ。攻撃されるだけでいるもんか。
枝をめぐる攻防をつづけつつ、当たるを幸い、蹴りあげた。
少年の足のどこかに当たった。枝をすかさず手放し、少年が一歩退いた間に私は立ち上がった。
「なんで叩かれなあかんのよ、納得いかんわ」
「やかましや!」
今気づいた。
食糧庫だ。この子、会ったのはこの船の食糧庫だ。
船内で迷い、食糧庫に入り、段ボールとペットボトルの山を目にしたとき、暗がりから襲撃されたのだ。細みのボディライン、安賀島大地に返答したときの声。めまぐるしい闇のできごと。記憶によみがえる。
そうだ、あの襲撃者に違いない。
あのときは食糧泥棒扱いされたけど。本当はなにか別の……。
だけど気づいたところでどうなるわけでもない。結論。逃げるが勝ちだ。
「逃すかっ」
雨が目に入る。横風がきつい。足元はすべって転びそう。速くは走れない。
あっと思うとすでに回りこまれていた。さっきまで周囲を取り巻いていた、グループだ。
人数は五人。
彼らが刀とか武器とかを持っていないのが幸運とさえ思う。
だれか来てよ、とよっぽど叫ぼうかと思った。
だがその前に「彼ら」が唱えた。
「……のせいぞ」
地をはうような声だ。ぞっとした。
「荒天来たるは、わがのせい」
彼らの目もまた恨めしそう。まさに幽霊。うらめしやの世界。
じゃなくて、私のせいって。
「なに言うてんの? 私、お天気変えるほどエラないわ!」
背後から少年が冷たく吐いた。
「船にいるからだ」
「ぜんっぜん、分からへん」
「分かる用はない」
「なん……」
「ただ、いなくなれば良いだけのこと」
鳥肌が立った。
無駄だ。なにを言っても。彼らは聞く耳持たない。
逃げ場所は……。
「失ね!」
全員、とびかかってきた。
私は五人から背中を向け少年に頭から突っこむ。少年の左手にあるのは、例の枝。
私の動きにひるんだスキに枝を力ずくで奪いとって、
「このっ」
枝の切っ先を少年に突き刺した。
少年が声ならぬうめきを上げた。
さらに私、枝を振り回し、枝から散った水滴や葉っぱで五人がひるむ。
逃げた。走った。
でも方向間違った。なんてこったい。行き止まり。
「うっわー! 船首に向かってどうするよ」
自分をここまでアホだと思ったことはない。
もみ合ううちに方向感覚なくなったし、雨だし前後が分かんなかったし。ええと……だれに言い訳とんのやろ。
結局、少年プラス五人に囲まれた。状況はもっと悪くなった。