14.船酔い患者の歌〔3〕
沈黙があたりを支配する。
船は大きく揺れた。
私も久瀬くんも、座ったままバランスを崩した。かろうじて手で倒れかけた自分をささえ、体勢を戻す。
強い凪が海を走る。凍てつく風が顔をひりひり、ちくちくと刺した。
帆が風にあおられ、大きな音を立てた。
帆の向きが微妙に変わる。全面に風を受けめいっぱいふくらんで、マストから引きちぎられそうだ。小亮太さんはマストの上で大丈夫やろか。見上げると、楼閣の旗はナナツギの家紋をほとんど歪めることなくひるがえっていた。
「藤生君の周辺については先輩が探ってくれるはず」
「橘先輩って、何者なん」
ずーっと疑問だけど本人に問いただせないままだった。
久瀬くんに聞くのも変な気もするけど。
「本人もよく分かってないみたい」
「へ?」
「おかしいと思うかもしれんけど、本人自身、ちゃんと分かってないよ。僕も同じやしね……『左目』てサナリに突然言われ、でもそれがなにかも分からず、実際なにが出来るわけでもなく。しいて言えば記憶するんだけは人より得意。自分って何者だろう。ずっとそう考え……今も考えつづけて、なにか事件があれば調べんと気がすまんという」
彼は少し苦笑すると目を閉じる。
私は驚きながらも黙って耳をかたむけていた。彼がこんな話――自分の心のうちを語ったのは初めてだったから。
でも彼は薄目をあけて息をつくと、話を橘先輩のことに戻してしまった。
「先輩は高校入学すぐ『シラカワアキナリってだれ』ってたずねて来た。そんなやつおらんわ、藤生君がらみかいと少々イラっときつつ応対したら、いきなり『<呪>てなに』て。最初は天宮さんでも先輩の師匠になれるレベルやったな」
「今は船まで動かすし、サナリさんに『上主さま』と認識されとうくらいやけど」
「僕が魔法の発動方法について、藤生君からの受け売りを話すと、一ヶ月もせんうちに校庭から屋上に瞬間移動してた」
「橘先輩……恐ろしい子」
「某演劇マンガなら姫川○弓タイプかなあ、そう見えんけど努力家って意味で。魔法に限らずバンドでも発声きっちりやって歌うし、部活でもインハイ行くし。ああ見えてものごとには全力投球」
「ちょっと尊敬してきた」
「そやね。超くだらんベタボケ大好きで、幼女オタクのくせに実弾射撃は無節操でなけりゃ、ほんと尊敬できる」
性癖さらりとバラしてる久瀬くん黒すぎる。
聞かなかったことにしよう。
「だから僕のほうは、手を出せる範囲のことを、もう一度整理して考える」
苅野の幽霊船・七鬼水軍が外海を目指す。行き先がノルウェーなのはフロリアンとの約束があったからだ。安賀島大地が明言している。
七鬼水軍が選ばれた理由はとりあえずおいておこう。
ここで着目すべきは――幽霊船が今よみがえった事実にフロリアンが関わったことだ。一方は歴史上に存在した七鬼水軍。そして一方は、歌劇という創作に登場する『さまよえるオランダ船』。
七鬼水軍の背景は分かった。なら次は『さまよえるオランダ船』だけど。
天宮さんの夢の中で藤生君が連れていた亜麻色の髪の少女。現実に彼女は存在し、橘先輩と天宮さんは苅野で目撃した。
藤生氏が少女に接触した目的。偶然なわけがない。藤生君がコンパスを盗んだのも当然コンパスの価値や意味を分かってのことだろう。とすれば、元来の持ち主たるその少女に意図的に接触した。
さらには自分の持ち物や花瓶を犠牲にしてまで、僕に人手を介してでも届けようとした。藤生君は僕にいったい何を期待したんだろ。フロリアンに渡さない、それだけが目的だったのか。
「苅野、ノルウェー、お城、海。めまぐるしすぎて私にはついてけないけど」
久瀬くんがゆっくりと頭をかたむける。
私はひとりごとをつづけた。
「藤生氏の夢とナナツギの船、たどり着くところは同じなんかもね」
「同じ……」
「だとしたらなんか、らせん階段をのぼってたような感じみたい」
らせん階段。
それは開放的な空間につくられる。上れば上るほど、東西南北、低所高所のあらゆる視界がひろがり、いろんな風景が目に飛びこんでくる。ぐるぐる回って目が回りになることもある。そして最終的にたどり着くのは一箇所しかない。
「あらゆる光景に惑わされるけど、真実はただ一つ、か」
「そんな探偵物っぽいカッコいいことやなく、結局、話のでどころは同じやねってだけ」
「All roads lead to Rome」
「なんでしたっけか。それ」
「『全ての道はローマへ通ず』」少し舌足らずに彼は言った、「寒いから中、入ろ」
「そうやね……て、ちょっと待ったっ」
歩きだしかけてひざから崩れる久瀬少年。
またもや驚いて金きり声をあげそうになった。
やっぱり風邪じゃあ……手を払われかけながらも、強引におでこに手を当てた。温かい。いや温かすぎる。
確実に船酔いなんか全否定やわ。顔色も良くなったんじゃない。ほてってるだけだ。
「超熱っぽい」
「……」
「実際は寒いどころやないでしょ」
「……ごめん」
船酔いの薬もらったってしゃあないやん。
「こんな寒いとこおったらあかん。病院行って薬もら」
「ここ、海の上」
私のアホ。しかも病人にツッコミ入れられた。
「風邪薬くらい、もしかしたら安賀島さん持ってるかも」
「船酔いってことで、寝床にひきこもる」
「だからなんで船酔いにこだわるん」
歩くとふらついて、メガネがずり落ちた。
戻すのもつらいらしい。そのままだ。妙な視界になってないだろうか。
「小さな地面の上、伝染る病気やと知れたら。幽霊たちは、僕らを好意の目で見てくれているわけやない」
それを聞いて鳥肌がたった。
食料庫で襲われたときの恐怖がまざまざとよみがえる。
だけどそう極度に警戒するのも……。悩める私はとりあえず、足元不如意な病人の腕を支える。腰を悪くしたおじいちゃんを連れている気分だった。