14.船酔い患者の歌〔2〕
風邪やない、とくりかえし、でも小声で彼は訴えた。
「ただの寝不足の、船酔い」
海を見て風にあたりたい。彼の懇願は蚊のなくような声だった。
リクエストにおこたえして、私も甲板までおつきあいすることとした。
久瀬くんの顔色は太陽の下でも青白い。メガネの下でもその顔面蒼白ぶりは顕著だった。
横と、背後には十隻ほどの船。
すべて私が乗っている船よりひと回り小さい。ひと回り小さいのは同じだが、ずんぐりむっくりの船が二隻。
それがスミタカさま率いる「七鬼水軍」だ。夜闇にはもっと多い気がしたけど、たいまつが見せた錯覚だったのか。
私はさらに遠くに目を向けた。
白い筋が海面に描かれていた。その筋の末端に小さいが派手な旗がひるがえっている。
たぶん漁船だ。
漁船からこの幽霊船、見えているかな。見えてたら漁師さんはどう思ってるだろう。やたら手のこんだイベント、と思うかな。
白い筋が消え失せるまで、私はひたすら、水面と海岸線をながめつづけていた。
船はゆらゆら揺れながらその風景を少しずつ変える。
大きく息を吸いこんだ。胸が冷たくなる。ゆっくり息を吐いた。白いもやが私の顔をなでた。
「少しましになった」
久瀬くんは座りこみ、足を投げ出していた。
「ほんま?」
「歌えるくらいにはね」
遠き国や海の果て いずこに住む民も見よ
柔らかくて伸びのある歌。少し甘めで心地よくしっとり染みいる、テノールだ。
よかった。声はもとに戻ってる。顔色も青みがとれ……赤みを帯びているくらいだ。
「おまえ!」
だしぬけに呼び止められ、身がまえた。
しかも呼び声は頭上から。
あおぎ見るとマストの上からすとんと、影が飛び降りた。浅黒い顔をした、ざんばら頭で軽装の若者だ。ひざこぞうが見えてて寒そうな格好。
「おまえ、唄、うまいな」
「ありがとうございます」
久瀬くんは愛想笑いを浮かべた。船酔いでも必殺技は忘れない。
「船酔いか」
「はい」
「ならこれを飲んだらええ」
さんばら頭はごそごそ、ふところに腕を突っこんだ。で、少し首をひねってからおしりに手を回す。きんちゃく袋が腰からぶらさがっていた。
目当てはきんちゃく袋らしい。「おお、これこれ」と大げさなパフォーマンスを見せる。
と、中から黒い粒を取り出した。見たかんじウサギのフン。いやいや、私もたまにお世話になっている薬とそっくり。
「正露丸ですか」
「セエロガン? なんじゃいそりゃ」
「ハライタの薬ですけど」
「薬には違いないが。船酔いに効く、丹嬰衆秘伝の丸薬じゃ」
「ありがたいです。でもどうして僕に」
「さとに申し含められたのじゃ」彼は頭をかいて言った、「世話になった礼をせよとな。申し訳ないの、有難いのと申しておった」
サトさん。小波さんをお城から脱出させてと頼んだ、侍女の幽霊さん。
結局、私もろとも小波さんを船に乗せてしまった。てことはサトさんの頼みを果たせなかったわけだけど。
なのにお礼って。
『さとは成仏したのだな』
小波さんは納得している。
どうして。サトさんは小波さんを海には出したくなかったはず。
『さとは妾の身を案じ迷い出たのじゃ。妾の先行きが安泰なれば迷いは無い』
先行き安泰どころか。
今からなにが起こるか分からない。一寸先は、闇だ。
しかも考えなしの私、一歩踏み外したら地獄まで道連れなのに。
すごく責任を感じる。
「ありがとうございます。いただきます」
もう一度微笑んで、久瀬くんは丸薬を素早く飲みこんだ。
若者はニンマリと笑い返す。
「それとな。さっきみたいな変わった歌、ほかにも唄えるのか」
「変わった曲しか知らんかも。異国の歌とか」
「異国の歌か」
彼はほおを赤くして身を乗り出した。
そのとき「上帆」がなんとか、と号令が聞こえた。
「おお、勤めじゃ」と彼は楼閣をふりあおぐと、「異国の調べとは楽しげよ、また気分が良うなったら唄うてくれ」
そしてマストから垂れ下がる縄をすごいスピードでよじ登る。
私はあわててたずねた。
「お名前は」
道半ばならぬ縄半ば、彼は元気よく名乗りをあげた。
「こりょうた。ちいさいに、ショカツリョウのリョウで、太い!」
「ショカツリョウ」
首をかしげる私に船酔い患者から指導が入る。
「諸葛亮孔明」
「それかっ。孔明なら知っとうよ。『三国志』の蜀の、羽扇の人」
「意外と物知り」
「意外とか言うな。弟のゲームで覚えた」
忍び笑いだけで、それ以上のツッコミは入らなかった。
まだ、しんどいのかもしれないな。
「ギター持って来とったら良かった」
「その方が盛りあがるね。さっきの歌って、聖歌の『とおきくにや』?」
「物知り尊敬度が3UPした」
「そりゃどうも。変わったうた、かあ。こりょうた――小亮太さんには妙なメロディなんかね、やっぱ」
「あの人らの地唄とか聴いてみたい」
おもしろそう、ともらす久瀬くん。さすが古風な渋い音楽好き。
好きな音楽の話になって気分も少しは楽になったかな。
と思いきや、
「話変わるけど」
と話を切り出す久瀬くんは、やっぱりしんどそうに見える。
「なんの話」
「藤生君、行方をくらますまえ、荷物」
「魔方陣に荷物を突っこんで、送りかえしてたこと?」
久瀬くんはこくりと、うなずいた。
いつもと違って話も要領を得ない。言いたいことは分かったけど。
荷物のことは夢で見た。
ホテルの一室でのできごと。白い輪を描く光、魔方陣に藤生氏はカバンを押しこめた。白夜の海に向かって窓を飛びだす前の話。
「荷物の中に、コンパスはなかったんや」
「旅先で会った老夫婦に預けたからやね」
彼は再び、小さくうなずいた。
「なんで預けたんやろ。老夫婦が確実に手渡してくれる保証はない。実際、白河の家に届けてくれるまでに半年経っとんねん」
「カバンに入れたくなかった、のかな」
「なんでやと思う」
「そんなん聞かれても」
「これは根拠の全くない、僕の想像やけど」久瀬くんは声をひそめた、「藤生君、懸念してたんやないかな。確信に近い懸念をさ。コンパス、一緒に送り返したらパクられる。知らんうちに安賀島さんの手もとに渡ってた青磁の花瓶みたいに」
「パクられるって」
その意味するところに気づいた。
荷物を送り返したあと、知らないうちにだれかがフロリアンの手に渡すかもしれない。
「藤生氏の周囲にフロリアンの仲間。でも周囲って」
「そう、僕たちには分からない、手を出せない世界の話だけれど」
久瀬くんはそれきり黙ってまぶたをふせた。