13.夜明けの抜錨〔5〕
『懐かしい』
小波さんが無意識のエアポケットから私を引き上げてくれた。
あやふやなセンチメンタリズムではない、確固とした思いが伝わる――何百年もの間、時には忘れようとし、忘れられなかった海。風に運ばれるすがすがしさ。
海の、潮の香る風が、私をつつむ。
その香りは私が知っているものとは違う。やわらかな磯の香り。人だらけの海水浴場のゴミ混じりの匂い、漁港で水揚げされた魚の染みついた匂いでもない。身体じゅうが洗われる。
昔も今も変わることのない、しかし新しい海のしるしだった。
「あれは」
「大王崎じゃあ!」
船べりで声が上がる。
侍たちが身を乗り出してはしゃいでいた。
人だかりの向こう、黄金に輝く海を越えると陸地が見える。さほど遠くない。複雑に入り組んだ海岸線。険しく切り立った岩の塊もまた、金色と黒い影に染まっていた。
「大地、そなたの計画では答志島の東のはず」
安賀島大地はスミタカさまをふり返る。
「てめぇがやるより遠くへ行けるぞってか……ムカつくな」
「このまま進めてよいと判断するが、どうだ」
「結果オーライだって認識。澄隆は平常の操舵の指揮を頼む。俺はあの破壊魔と取引の話をする」
スミタカさまはうなずくと、号令をかけた。
大地は口をつぐみ、目をそらす。彼がにらんだ先に二人はたたずむ。二人は甲板に足をつけて立っている。
タチバナモトイ。肩をすくめフェイクファーのマフラーに茶髪頭を少し埋め、ポケットに手をつっこんでいる。態度がでかい。
久瀬くん。片方の肩にナイロンカバン、もう片方に百貨店の紙バッグを下げている。ロングコート購入時くらいの大きな袋だ。
「取引だったな。話の前に場所を変えよう」
安賀島大地はねめつける視線を橘先輩に送った。
対する橘先輩はほくそ笑む。
つくづくカンジ悪い人たちだな。
* * *
船上楼閣の最上階。
夏に比べて楼閣は一階層減、二階層になっていた。橘先輩がふっとばした階層がそのまま下の階に移されていた。手を抜いたのか、建築材が足りなかったのか。
梅に桜に桔梗に牡丹のふすまの奥は板の間だ。畳は数帖、置いてある。
現代人が板の上で座るのはつらかろうと、畳の上に座るよう言われた。言われるままに三人並んで座るとなんだかお内裏様二体にお雛様一体。当然お雛様は私。
落ちつかない。正座してかしこまる。
対面の安賀島大地は板の上にあぐらでリラックス。その彼から話を切り出してきた。
「青磁の<呪>を使わず苅野から鳥羽・大王崎へワープ。使えるのは認める」
「でしょ」
「でも気にくわない。花瓶を壊した……ように見せかけたのは、なぜだ」
目に静かな怒りを感じた。見せかけって?
橘先輩は久瀬くんをひじでつっつく。久瀬くんは紙袋に手を突っこんだ。紙袋から取り出されたのはまごうことなき『青磁の花瓶』。そのつややかな姿が彼の掌中にある。粉々に砕けたようすはみじんもない。傷も割れもなく貫入――釉薬がつくったひびが端整に刻まれている。
久瀬くんは(橘先輩と違って)丁寧に語った。
「安賀島さん、僕らは便乗させていただく立場。本来なら事情を包み隠さずお話しするべきです。だけど話せないことがある。それを先にご理解いただきたいのです」
安賀島大地の視線がかすかに和らぐ。
少なくとも橘先輩よりは久瀬くんのほうが相性はいいようだ。
「理解を得たいなら信用に足る行動をすべきだろう」
でも返す言葉は冷たい。しかも当を得ている。
「多少ふざけたことは謝ります」
「とはいえこちらもジレンマだけどな。価値は認めるし、既に船に乗ってるし」
微妙な空気だったが、話が止まってしまったので別の話をしてみる。
「すいません。なんで青磁の花瓶、壊したように見せて実は壊してませんでしたことを」
「久瀬、そこは説明してええよ」
橘先輩が面倒そうに言うと、久瀬くんはため息をひとつ、ついた。
「この花瓶は本来、ある人よりこの橘先輩に譲渡されたものです」
ある人とは藤生氏のことだ。
サナリさんは断言していた。青磁の花瓶は藤生氏のものだと。
藤生氏は橘先輩に花瓶を預けた。そのはずだった。なのになぜか安賀島大地の手元に渡っていた。それだけなら機会を見て取りもどせばいい。ところが海へのワープ用に中身を使うらしい。私が便乗することも分かった。
橘先輩が口をはさむ。
「ここで強引に取り戻しなぞしたら、海へ行く話はおじゃん。俺は天宮さんに半殺しの目にあう」
私が半殺しになんてできるわけ……。
ともあれ結論はこうだ。文句なく取り返せるよう花瓶は壊れて消えたと思わせる。それだけだと悪いんで、船は橘先輩が海に運搬―――。
「『自分のだから返せ』て言うたらいいだけの話やったのでは」
「質問と交渉ごとがあったからね」
と久瀬くん。
安賀島大地は腕を組んだ。
「だれが花瓶を持って来たかってことか」
「だれが花瓶を持ってきたかは、知っています。フロリアンという人ですね」
「このお嬢さんもヤツに会いたいらしいな」
「一緒です。彼に接触するため。ここからが本当の『取引』です」
安賀島大地は目を細めた。
「安賀島さん。花瓶は返していただきたいです。でもただで返していただくのは借りとしては大きすぎます。だから『これ』との交換を条件に提示します」
さらに久瀬くんは紙袋に手をつっこむ。
紙袋はぺたんこになっていない。まだ中身が入っているのだ。
久瀬くんが『これ』を取り出した。ケーキ型みたいな木製の物体。一見、なにか分からない。
「コンパス……『さまよえるオランダ船』のか」
と言ったのは安賀島大地だ。
『さまよえるオランダ船』って。まさか。
「『これ』の探索がフロリアンが苅野に来た目的です。本来は<呪>を貯めた、巨大な魔法の発動体である花瓶をあなたに渡すのが主目的でしょうか」
「合ってる」
「そして彼から依頼された。『さまよえるオランダ船』のコンパスの探索を」
「探してよこせとは言われた。苅野にあるはずだからとさ」
「探さへんかったんですね」
「んなヒマない。俺はパシリじゃねえし。で? それを渡すってのは」
「なぜ持ってたかは話さなくていいですか」
「判断には無関係だ、あとで聞く。まず俺が知るべきはコンパス渡されてなにをさせられるのか、だ。もらいっぱなしじゃ、ないんだろ」
橘先輩と久瀬くん、二人とも顔がゆるんだ。話がうまく運んでいるからだ。分かりやすい。
とはいえ久瀬くんはすぐ、緊張の色を乗せなおす。
「フロリアンと連絡を取り、回収の旨をお伝え願います。その際こうつけ加えてください」
所持者は総領神社に紛れこんだE.Tみたいな魔物二匹。魔物は寸前でとり逃がした。名は『右目』と『左目』と名乗っていた。
ちょっと待った。
右目さんは藤生氏の<過去の知識>を司る、E.Tとヨーダのそっくりさん。サナリさんによると藤生氏のブレーンで第一の側近だという。その側近とやらが苅野にいたと?
それになにより左目って久瀬くん、あんた自身のことやんかい!
つまりだ。完全にウソ情報を相手に流せってことか。
「了解」
安賀島大地は久瀬くんのコンパスを受け取った。淡々としたものだ。
でも今度こそ久瀬くんの表情がほころんだ。
「ありがとうございます。本当にいいんですね」
「こちらも条件がある。たったひとつだ」
「なんでしょうか」
「俺の仕える神、七鬼三郎澄隆はこの船団の首領。彼の指揮には絶対従うこと」
「わかりました。船に乗れば船長に従う。当たり前のことです」
久瀬くんはすんなり受け入れた。
ニヤリと笑った安賀島大地。
「あんたたち、エサちらつかせて一杯くわせるハラだろ。面白いじゃん。こっちも対等に渡りあえる得物持って、あの怖ぇキザ野郎の前に立てるしさ」
「利害が一致したと」
「そう。澄隆も俺もフロリアンにいいように操られるつもりないし」
安賀島大地は席を立ち、私たちを見下ろした。
澄隆の了承を取ってくる。心配はいらない。あいつ来る者拒まずだからな。そういい残して、広間を出ていく。
久瀬くんは足を崩して、ふうと大きく息を吐いた。
橘先輩は後輩の丸くなった背中をぱあんと小気味よくたたいて、
「取引成立! 藤生皆の花瓶もとり戻せたし、あっぱれホスト大王」
「せめて弁護士志望と」
「え? え? うまくいったの」
「うん。疲れた。寝る。また起こして」
ぱたりと床に転がる久瀬くん。そのまま寝てしまった。
瞬間だ。微動だにしない。気絶したみたいにだ。驚きよりむしろ感嘆してしまう。のびたくんと対等にお昼寝対決できそうやな……めがね少年やし。
やれやれ、と声を出し大仰な手ぶりをしめす橘先輩。
「天宮さんもお疲れさん」
「私はそんな疲れちゃないけども」
次に言葉を継ごうとしたとき、ぎゅるる、とおなかが訴えた。
ああ、雄弁なる腹の虫。
橘先輩は笑い声を押し殺しつつ、
「仕込みネタかよ。緊張感そいでくれるね」
うるさいやい。あんたのどこに緊張感がある。
格子窓の外を見やる。空はもう、白く青かった。