海はどちらに進むか
頂戴いたします。
そう言って名刺はしばらく宙に浮いたままで、その存在感を出すという役目にひたすら没頭する。
二年前のこの日は、私の上司が転職活動を誰にも気づかれずに続けていた真っ最中であったことを、お客さんの名刺のロゴに指を触れないように気をつけたときに思い出された。
「奏海さんって、本が好きなの?」
送別会で予約した居酒屋は、駅から徒歩五分の商店街から少し外れた通りに面していて、客引きの女の子たちが制服を着用して爽やかに毒々しい笑顔を咲かせている。
二次会はさらに駅から遠ざかった路地にあるラーメン店で、そのラーメンが味噌好きの上司のお気に入りであるから、誰も異論を唱えなかったし、普通に美味かった。
「本、ですか?」
「うん。なんで?って顔してるね。実はさ、見ちゃったんだよ。ほら子どもの保育園の迎えに行ってるじゃん、ボク。通り道に書店があるから覗いたら、奏海さんがいてさ」
声はかけなかったけど、と言いながらビールのジョッキを傾ける上司は、私がなぜ有給を取得した夕方に、スウェットを着て、髪もだらしなくまとめない状態で、書店で立ち読みしていたのか、その理由を知りたいわけではなく、単純に何の本を読むのかを知りたいらしかった。
「空港においてありそうな系ですね」
「ハハ、何それ。どこの空港?」
私は幼いときに、海外の空港で迷子になったときに、たまたま通りかかった芸能人に連れられて、絵本や小説の洋書が整然と置かれている店で待っているように命じられた。
月に跨る見習い魔女が、箒を振るって地球を目指して星々の間を旅していく絵本を与えられた私は、読めない文字すら絵の一部であると認識することで、なんの差し支えもなく、暗黒の銀河を滑る魔女の虜になってしまった。
慌てた両親がペコペコしながらやってくるころには、スースーと寝息をたてて、レジのバックヤードで眠っていたらしい。
「たまに探しているんです。あの絵本のような、ワクワクする体験を。別に本でなくてもいいんですけど、どうしても足が向いちゃうんですよね」
「ワクワクすることねえ。確かに、そういったモチベーションって大切なんだよな。砂場で遊ぶ息子を見るとさ、自分が悲しくなるよ。あんなに楽しかった砂遊びがさ、もう他人事なんだもの」
上司とはそれ以来会っていない。
書店で見かけることもない。
これまでに見かけたことはなかったから、もしかすると初めから上司なんていなかったのかも知れない。
ただし本について質問されるのは、社会人になってからはおそらく初めてで、私の薄い膜のような記憶に触れたのも彼だけだったということだ。
先方との商談も終わり、名刺入れのなかにロゴも肩書もすべてが格納された。
ロゴは指で挟まないほうがいいよ、そう私に教えてくれた上司は、来月から海外に出張らしい。
私はまだそれに返事をしていないし、これからもしないと思う。




