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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

その物語に、命を

掲載日:2026/04/24

「本当にすごい小説は、読み手の人生を変えるんだ」

 俺を世話したおっさんは、そう言った。


 まばゆいものを見るような眼。

 震えるように上がった口角。

 それが向けられていたのは、小説だった。


 だから、「小説家になりたい」と思った。


 

 俺は貧困街で育った。親は知らない。


 女の腕に抱かれてたような記憶もあるけど、物心ついたときには小汚ねえやつに飼われてた。

「お前は捨てられたんだ」って何度も言われた。俺のところしか行き場がねえ、と。


 なんで生かされたのかはわからねえ。施しの道楽ってほど余裕はなかったはずだ。

 売れそうだから育てたのかもしれねえし、街人の同情を買う道具だったのか、誰かをはめるために使ってたのか。他に何かあったのかもしれねえ。

 とにかく、生かされた。 


 なんでだったのかを知る術はない。そいつも、もう死んだ。


 五か六か。その頃には、もうテメェで生きてた。

 このくらいのガキは適当に群れて残飯を漁る。それか、盗みをする。


 大体のやつが、すぐに死ぬ。

 病気、飢え、殴られて、嬲られて。昨日話したやつが、次の日には冷たくなってるのも珍しくなかった。


 俺は要領が良い方だったから、他より長く生き残ってた。


 そんな俺も、へまをした。

 群れて暮らすようになって二年が経った頃だ。


 そろそろあの真っ白い宗教服を着た太ったジジイが配給をするはずだ。

 そう思って向かった先では、いつもの場所ががらんとしていた。

 聞いた噂じゃ、ジジイがガキどもを売っていたのがバレたらしい。


「教会で保護する」

「新しい家を用意する」


 “保護”と声をかけられるガキは見目のいいやつに偏っていた。

 なんとなく扱いに想像がついたため、俺はついていかなかった。


 俺みたいに行くことを選ばなかったやつを、ジジイは無理に連れていきはしなかった。

 それについていって、本当に「新しい家」に行けたんなら、そこがどんなとこでも自業自得だろって思ってた。


 ガキどもの自由意思は尊重してたが、法には反していたようだ。

 そのとばっちりで、硬くてガチガチのパンと、薄くて少ねえが“食い物”だったスープを飲めなくなった。 


 何日も飯が見つからなくて、足がふらふらになった。

 腹は減り過ぎてもう鳴らねえ。表通りのパン屋で、たまらず盗んだ。 


 店主の癖も、目を離すタイミングもわかってる。

 あいつは右手を振りかぶって殴りつけてくる。

 見つかっても普段なら逃げ切れる。

 けど、腹が減って力が出ねえのに盗んだもんだから、見つかってガンガン殴られた。


 もうすぐ死ぬな。

 そう思ったところで、止めたのがおっさんだった。


「これで足りるか」


 そう言って、店主に金を握らせた。

 キレてた店主が手を止めたってことは、たぶん多く渡したんだろうな。

 そこをはっきり確認できるほど、意識は残ってなかった。


 目が覚めると、ベッドに寝かされていた。

 灰色の床と生活していた身からすると知らねえ感覚。

 一瞬身体が動かなかった。 


 俺が起きたのに気づいたおっさんに声をかけられて、ようやく我に返った。


「起きたか」


「ここ、どこだ」


「俺の家だ。……飯は食えるか?」


「……食う」


 腹が減って、頭も回らなかった。

 それに、施しだろうと気まぐれだろうとよかった。

 毒が入ってて死んだっていい。

 どうせ食えなきゃ死ぬんだ。


 まともな“食事”だった。

 湯気の立ったシチュー。具は小さく刻まれてほとんど溶けていたが、こんなうまいもん食ったのははじめてだった。


 食い終わると、「ここに住め」と言われた。

 施しにしては度が過ぎている。何か狙いがあるのか。


 俺は施しは受けねえとか、そんな高尚な精神は持ち合わせてねえ。

 食えねえプライドを大事にするやつなんざ、死んでいった。


 ただ、テメェを曲げるのだけは嫌いだ。

 身体を売れだとか言われたら、頭をかち割って逃げようと思った。


 だが蓋を開けてみればなんてことはない。

 身体が不自由だから生活の手伝いがほしいってだけだった。


 たしかにおっさんは足を引きずっていた。

 どうやって俺を運んだのか聞いたら「大変だった」と苦笑した。


 嘘の気配はない。

 仮に嘘でも、すぐ逃げられる。

 そう判断して、ここに住むことにした。


 一緒に暮らすための準備を始めた。

 何か必要な物があったら住処に取りに行くかと言われたが、何もなかった。

 死体から剥いだ服も、群れてた連中も、これからの生活には要らねえ。 


 おっさんは、俺がいままで悪いことしたやつらのとこに謝りに行くっつった。

 パン屋のジジイとか、よく盗んでたならなおのこと。

 これから“こっち側”で生きていくには大切だからって。


 俺はこう返した。


 あいつらはどうせ俺らを「個人」で認識なんかしてねえ。貧困街のガキって括りで見てる。

 綺麗なベベ着てりゃあ同一人物だとは思わないさ。


 おっさんは、少し哀しそうな顔をした。


 それから、俺は家事を教わった。


 部屋を綺麗にするのなんかはじめてだったし、料理だってしたことはなかった。

 それまではあるもんをそのまま食ってた。

 ゴミ捨て場漁って、食えそうなもんがあったら嗅いでみて、食ってた。


 そうじゃなくて、野菜や肉から飯を作った。

 意外と面倒だった。だけど難しくはなかった。

 食ってみるとこれまで漁ってたもんが“食い物”じゃなかったことがわかった。


 酸っぱくてねばついてなんの味かわかんねえ残飯や、ほとんど味のねえスープ、盗んだパンとは違った。

 “食い物”ってのは、甘くて、しょっぱくて、身体の中があったかくなる。


 毎日掃除して、飯作って、服を洗う。

 たまに買い物に行ったが、愛想よくすりゃあ誰も俺だって気づかなかった。


 おっさん自身もこの辺じゃ新顔だったらしく、その連れのガキとして受け入れられた。


「だから言ったじゃねえか」


 そう告げると、おっさんはまた哀しそうな顔をした。


 街のやつらに名前を聞かれたときは、おっさんにもらった名前を教えた。

「おい」とか「お前」とか、「助けて」とかじゃない呼び名を伝えた。

 その音の響きは、嫌いじゃなかった。


 買い物にはいつもおっさんと行ってた。

 だが、その日はおっさんの調子が悪かった。まだ住み始めてひと月も経たない頃だ。

 この頃は、そこまで動けねえのは珍しかった。


「適当なもん買ってくるから寝とけよ」


 おっさんから預かった金を手に、街へ向かった。

 シチューでも作ってやろうと、にんじんとじゃがいも、鶏肉を買いに。


 帰り際に果物屋の前を通った。りんごがうまそうだった。

 二個買って、一個は齧りながら帰った。


 家に戻ると、おっさんがベッドで本を読んでいた。


「寝とけって言ったよな」


「本を読むくらいなら平気だ。寝るのは飽きた」


 俺が眉間に皺を寄せると、おっさんは「心配してくれてありがとうな」と笑った。

 返しに迷って、話題を逸らした。


「あんたしょっちゅう何かしら読んでるよな。小説っていうのは、そんなに面白いのかよ」


 おっさんの部屋の本棚には、本がぎっしり並んでいた。

 食えもしない、あたたまりもしないこいつらを大切にするのは、よくわからなかった。


「面白いよ。本の中では、いろんな世界に行ける。いろんな世界が見える」


 膝に置いていた本に手をやり、顔の前に掲げた。大切なものを扱っているかのように、瞳を細めた。


「――本当にすごい小説は、読み手の人生を変えるんだ。小説家ってのは、すごいよなぁ」


「『すごいすごい』って、小説読んでる割には語彙力がねえな」


 おっさんは本にやわらかな眼差しを向けて、それから俺を見た。


「お前にも、文字を教えてやらなきゃな。お前は着眼点が鋭い。それに、自分の世界を持ってる。小説家に向いてるかもしれないぞ」


「そうかよ。……なら『すごい』小説家様になってやる」


「期待してる」


 じゃあ早速、と身体を動かそうとして咳き込んだおっさんを、ベッドに押し込んだ。

「まずはりんごを切ってやる」と言って。


 次の日から、文字を習った。

 算術や歴史なんかも、一緒に教わった。


 おっさんは、何を訊いても答えた。

 たぶんこの辺の生まれじゃない。もっと上流だと思う。


 病気がキッカケで、金だけ渡されてここまで落ちてきたんだろう。

 そう考えると、合点がいった。


 たまに薬をもらって帰ってきてる。

 ここらの生まれだと、まともな医者には診てもらえねえ。


 外には働きに出ず、手紙か何かを送ってる。それで金を得てるようだった。

 おっさん自身が作家なのかと訊いたが、「そんないいものじゃない」と返された。


 文字が書けるようになって、小説を書いてみた。

 知らねえ単語はおっさんに訊いたり調べたりしながらだが、一作書き終えた。

 働いて家に帰ったら、シチューがうまかったって話だ。


「これじゃねえな」


 どんな本が出回ってるのか知らねえが、これじゃ作家様にはなれないってのはわかった。

 紙をぐしゃぐしゃに丸めていると、おっさんに止められた。


「何してるんだ」


「失敗した。つまんねえ。こんななら紙使わなきゃよかったな、もったいねえ」


「失敗なんかない。どんな作品だって、失敗なんかじゃないんだ。お前が要らないと言うのなら、これを私にくれないか。読んでみたい」


「……やるよ」


 小説を書いたくせに、読まれるのはどこか恥ずかしかった。

 だけど「小説家なんかやめよう」と思わなかったのは、おっさんが口元を緩めて読んだからだ。


「……なぁおっさん」


「うん?」


 とっくに読み終えてるだろうに、おっさんは紙から顔を上げない。

 何度も読むような話じゃねえのに。


「おっさんの本棚漁っていいか? 売っぱらったりしねえから。小説が読みたい」


 おっさんの感想は聞いても、自分で読んだことはなかった。

 用意された教材以外、本に触れてなかったと気づいた。


「売っぱらうだなんて。そんなこと思わないさ。好きなのを読むといい。……オススメはいるか?」


 ようやく顔を上げると、きらきらとした瞳で見つめてきた。

 人間は、好きなものの話になるとこういう目をする。


「同好の士を見つけた、みたいな顔するんじゃねえよ。適当に端から読んでく」


「そうかぁ……」


 きらきらを失くして寂しさを乗せた瞳に、やむなく「読みやすいやつにしろよ」と言った。

 嬉しそうな空気を感じたが、無視して夕飯の準備に移った。



「なぁおっさん。小説家ってのはどうやってなるんだ?」


 肝心なことを知らねえな、と気づいたのは、隣の家の家事手伝いをした後だった。


 俺みたいなガキ――もうすぐ九歳ってことになってる――が願ったって、まともな仕事なんかねえ。

 家が商売やってりゃ、そこ手伝うってのもあるが、おっさんが何をやってんのか俺は知らねえ。 


 仕方ないから、近所の子守りや家事の手伝いなんかをしている。

 隣の家は、一歳の赤ん坊と腹の中の赤ん坊が居るから、もってこいだ。


 欲を言えば、人脈を作って、さっさと安定した収入を得たい。

 そんでもって、小説家を目指すんだ。


 そう考えながら赤ん坊をあやしていて、ふと。どうやったら小説家になれるか知らねえな、と。


「お前はもう立派な小説家だよ……ってのが聞きたいわけじゃないよな」


「当たり前だろ」


 おっさんが俺を「小説家」と言うのは、あれから何作か書いたからだ。


 太陽を見る向日葵の話、パンを売る男の話、魔王を食うドラゴンの話。


 どれもこれも、つまんねえ話になった。


「お前の言う小説家は、作品が“本”として出回ることを指すんだよな? 製本するのは印刷屋で、そこに依頼するのは出版社だ。出版社に持ち込んで、面白いと思わせて、『売りたい』と思わせる」


「出版社――都市部にあるやつか」


「あぁ。もしくは稀にだが、パトロンがついて本を作ってくれるってこともあるぞ」


「パトロンねぇ。……あんたの読んでる本はどっちだ?」


 おっさんは、瞬きを二つ。パチパチとして、少しだけ間を置いてから笑った。


「お前はもう、立派な小説家だよ」


「別に、あんたのために書くとは言ってねえだろ」


 思い上がってんじゃねえよ、と背を向ける。

 出版社はどこにあるのか、調べねえとな。



 調べた結果、一日使えば行って帰れる場所にあるのがわかった。

 ついでに、俺みたいなガキじゃ話も聞いてもらえねえってことも。


 だが俺が小説家になる鍵は、出版社にある。

 本を出してるやつらなら、俺の小説に何が足りないかわかるだろう。


 そうなると――これじゃ足りねえ。


「考え込んで、大丈夫か?」


 顔を覗き込んだおっさんに、頼んだ。


「いい服が欲しい。白いシャツと黒いパンツ、あとジャケット。金は将来返す。買ってくれ」



 いくつかの作品を封筒に詰めて、出版社にやってきた。

 子供ということで追い出されそうになったが、「こちらを渡せと、主人に言われてるのです」と伝えた。

 あたかも、使いで来たように。


 小綺麗なガキを雇えるお偉方の原稿、となると目を通さずに返すことはあるまい。

 そんな狙い通り、俺は奥に通された。


「おまたせしました。さて……どちらの使いで?」


「言うな、と」


「うーん……しかしなぁ」


 もしかして、良く見られすぎたか。炊き出しのジジイの部下を意識してみたのが悪かっただろうか。

「下手に扱えない」と思われると、適当に煙に巻いて返されるかもしれない。


「家柄で評価されたくないとおっしゃっています。そこで、私に持っていくようにと」


 生まれや立場で評価されたくないのは事実だ。

 そんなもんで評価されたら、俺は土台にも立てない。


「そうですか。じゃあ、拝読します」


「よろしくお願いします」


 原稿を渡す。

 これは本にならない。俺が読んでもつまんねえ。

 だけど、何がつまんねえのかわからねえ。


 おっさんよりも早いペースで読み終えた編集者は、俺に原稿を返した。


「――着眼点は悪くない。構成も巧みだし、切り口も面白い。だけど、物語に熱がない。『これを書きたい』って熱がないんだ。だから、どこかリアルじゃないというか。……あと最近は、こういう文芸じゃなくて、恋愛や、サスペンスのがウケるんだよね」


「なるほど。ありがとうございます。主人に申し伝えます」


 静々と頭を下げた。

 編集者は「いやいや、良い時間でした。またぜひ持ってきて」と困ったように胸の前で手を振った。丁寧にやりすぎたか。


「それでは、失礼します」


 “熱”、そして“リアル”。どうしたものか。


 助言は得たが、活かせるかどうか。

 考えながら、出版社の出口へと向かう。その、途中。


「先生は経験値がないからリアルじゃないんですよ! 人間、体験したことはリアルに書けるんだから!」


 怒鳴り声が聞こえた。

 俺を送る編集者が「あちゃー」と頭を抱えていたが、それを気にせず音の方角に目をやった。


「そうしたら自然と熱が――命が宿るんだよ、物語には。それが、あんたのペンには乗ってない!」


 バン、と机を叩く音が響く。遅れて、シン……と静まりが落ちる。


「おい! そのくらいにしとけ! ……すみません、騒がしくて」


「いえ。勉強になりました」


「えっ?」


「改めて、失礼します」


 経験か。

 経験が、リアリティを生む。リアリティが、熱になり、命を宿す。


 それならば、そうすればいい。



 おっさんが待つ家に戻る。服は、途中で着替えた。

 あの格好のままこの辺を歩くほど間抜けじゃねえ。


 帰った俺に、おっさんが「どうだった?」と訊いた。


「何が」


「何がって……まぁ、楽しかったか?」


 俺がどこに行ってきたか、おっさんはなんとなくわかってる。

 誤魔化す必要もないので「まぁまぁ」とだけ返した。


「それより、遅くなったけど飯作る。あと明日からも、しばらくは夜遅くなる」


「明日からも?」


 おっさんは不思議そうにしたが、俺が「やりたいことができた」と言うと「そうか」と笑った。



 その日から、俺は出かけることが増えた。

 朝飯と夕飯だけはなるべくおっさんと食ったが、昼間はほとんど家に居なかった。

 おっさんが寝てる夜や早朝にも出かけた。


 俺はガキだ。

 生きてる期間が短い分、経験が足りてない。

 だから、取りに行く。


 そんな折。朝おっさんを起こしに行くと、ひどい熱を出していた。


「おっさん!」


 頭に触ると暑いのに、指の先は冷たい。

 ゼエゼエと苦しそうなのに、意識は朦朧としているようだった。


 呆然としかけたが、放っておいたら死んじまうかもしれねえ。

 調子が悪いときに飲んでた薬があるはずだ。


「薬、たしかこの辺だったよな? これ飲ませりゃいいのか? おい、おっさん。……まだ死ぬなよ?」


 俺の声に、眼球がこちらを向く。

 頭がゆっくりと縦に動かされる。


「わかった。水とってくるからちょっと待ってろ」


 水を汲み、薬と共におっさんに渡す。嚥下するのを確認して、おっさんをまた寝かせた。


「隣のおばさんに今日は働けねえって言ってくる。すぐ戻る。薬が効くまでは起きてろよ。勝手に死ぬんじゃねえぞ」


 表情が緩んだ気がする。その顔に頭に血が上った。


「死んだらぶっ殺すからな」


 そう怒鳴って、部屋を出た。

 隣に説明したら、普段親切にしてたおかげか、あとで飯を持っていくと言われた。


 ありがとうございます、と返した。返した、はずだ。

 ちゃんとは覚えてない。


 おっさんのとこに戻ると、夢か現かといった様子だが、まだ起きていた。


「薬は効いたか?」


「……あぁ、効いてきた。ありがとな」


「効いたなら寝ろ」


「起きてろって言ったり、寝ろって言ったり、難しいやつだなぁ」


 熱のせいか、声は枯れていた。

 しばらく近くで見ていると、スウスウと規則正しい呼吸が聞こえ始めた。


 ようやっと、力が抜けた。……動揺してた。


 おっさんの横で、小説を書いた。

 もう少しで完成だ。書き終えたら、出版社に持ち込もう。

 その前におっさんに読ませてやってもいいな。


 チラリと見る。

 胸の動きがおっさんの生を知らせる。


 汗を掻いてるな。拭いてやるか。


 清潔なタオルでおっさんの額に触れると、瞼が開かれる。

 起こしてしまったかと思ったが、おっさんはうわごとのように話しはじめた。


 ――死病に侵されて、生まれた家を出た。あのままいくと、家族の邪魔になってしまう。

 家から渡された金で十分に暮らせたが、やることもなく、結局ちまちまと仕事をしていた。

 身体が弱ってても、まだ実感がなかったんだよな。あの日まで。

 あと二年、と言われた。死が手招きしてるのを感じた。

 その日に、お前と出会ったんだ。

 死ぬ前に善行でも積んどこうかと思って助けた。

 でも担いでみたらお前は軽くて、食わせてやんなきゃと思った。食わせてやって、大丈夫になったら、帰そうと。

 だがなぁ。気づいたら。

 うちの手伝いをするお前と。

 懸命に文字を覚えるお前と。

 口は悪いがまっすぐなお前と。

 ……一緒に過ごしたいと思うようになった。

 これじゃあ、善行にならないよなぁ。

 本当は、お前が大人になるまで居たかったんだ……まぁ、平気か。

 まだガキのくせに、ちゃっかり仕事見つけて稼いで、物語だって紡げる。

 お前なら、大丈夫だよなぁ。


 話すだけ話して満足したおっさんは、瞼を閉じた。

 拭いたはずの汗が、また滲んでる。


 ――いつか死ぬんだろうなってのは、思ってた。


 寝込む日が増えてたし、食も細くなってた。

 食いやすそうな物を作っても、すこしずつすこしずつ、食える量は減っていた。


 だけど「死病に侵されてる」と聞いてしまうと、急に現実味を帯びた。


 原稿を見る。早く、形にしないと。



「おはよう」


「おはよう、おっさん」


「ずっと居たのか?」


 おっさんが身体を起こす。意外そうな顔に、告げた。


「小説が書けた。これは、失敗作じゃねえ」


 原稿を渡すと、少し震えた手で受け取った。


「すごいじゃねえか。……読んでもいいか?」


「いいから渡してんだろ。ジャンルはクライムサスペンスだ。文芸よりも流行ってるらしいぜ」



 経験が、リアリティを。リアリティが、熱を。熱が、命を。

 それを聞いた日の帰り、考えた。


「何なら、書けるか」


 生きてきた世界を思い出す。

 臭くて汚ねえ世界と、あったかくて優しい世界。俺に書ける世界はなんだ。


「あとは流行りか」


 恋愛とサスペンスが流行ってるって言っていた。恋愛はわかんねえ。

 そんなのがあるとこで生きてねえ。でも――


「サスペンスなら、知ってるな」


 人の生き死にはたくさん見てきた。

 刺されて死ぬやつ、殴られて死ぬやつ、騙されて死ぬやつ。人が人を殺すのを、何度だって見てきた。


 脳内で物語を描く。前より、映像として浮かぶ。


 だが、これだけだとまたつまらなくなりそうだ。

 文字面が並んでいるだけで、そこには感覚がない。


 編集者の言ったような熱もない。

 あれだけの死と、共に過ごしたはずなのに。


「経験……」

 見てきた、だけじゃ足りない。

 “見た”だけじゃ、経験じゃない。サスペンスの経験としては足りない。


 物語の核となる部分だ。見るだけじゃ、聞くだけじゃ、リアルじゃない。

 どう触れたって、他人事の死だ。それじゃ駄目だ。自分事にしなきゃいけない。


 自分事にするなら、この手で殺すのが一番早くて確実だ。


 殺しを経験すれば、もっとリアルに書ける。

 リアルに書ければ、熱が生まれて、命が宿る。


「誰にするか、慎重に選ばねえと」


 死んでも困らねえやつはいくらでもいるが、そんなやつでも殺すと捕まる。

 法ってやつは俺らに優しくない。


「消えてもいいやつ。恨まれてるやつ。価値がないやつ。……バレにくいやつ」


 ターゲットを決めて、行動パターンを調べる。

 殺すなら、見つかりにくい深夜から早朝がいい。


「とりあえずあそこだな」


 潜入のために、適当な死体から服を剥がねえと。


 都市部に来るために服を買ったと思ったら、次は貧困街に戻るための服探しか。

 滑稽だな、と一人笑った。



 貧困街に通って、何人か目星をつけた。

 その中で、一番簡単そうなやつを選んだ。


 酒を飲んで寝ると、朝まで起きない。

 貧困街で過ごすには致命的な弱点だが、雨風防げるまともな寝床があるやつにはそんな馬鹿もいる。


 だから、そいつの寝床で息を殺して待った。

 ふらふらの足取りで戻ってきたそいつが、そのまま倒れ込む。


 頭を狙う。凶器は石を詰めた布袋。


 準備段階では、デカい石を掴んで殺そうかと思った。

 だが、それだと俺の力じゃ足りないかもしれない。

 空き瓶も同様だ。頭をかち割るだけじゃ駄目なんだ。

 起こさないまま一発で殺せるだけの威力が欲しい。


 腕力が足りない分、遠心力で補う。

 振り上げる。身体も引っ張られる。

 振り下ろす。身体が外に持っていかれる。

 石は軌道を描いた。


 練習してきたのに、狙いからわずかにずれた。

 振り上げ直すが、慌てたせいで足元がふらついた。


 ピクリと男が動いた気がする。


「ふっ……!」


 今度は狙い通りに当たった。男は動かない。

 だけど、本当に死んだんだろうか。

 まだ、実感が足りない。


 布袋に入った石をそのまま掴む。腕力だけで、頭を殴る。


 ガン。

 頭蓋骨は固い。


 ガン。

 跳ね返って、手首が痺れる。


 ガン。

 耳の辺りは想像よりやわらかい。


 ガン。

 あ、割れた。


 よく見たいのに、見えない。

 バレない場所と時間を選んだせいで、明かりがない。


 “死”が観られない。


 石を置いて頭に手をやる。持ち上げようとすると血で手が滑った。

 ぐちゃり、と親指が沈む。


「……眼球だ」


 はじめて触った。 


 死はたくさん知っていた。

 なのに、こんなにも知らなかった。


 手のひらから抜けていく体温。

 返り血の生ぬるさ。

 腕に伝わる振動。

 ぐちゃぐちゃの感触。 


 頭だけじゃなくて、本当は身体中を触りたかった。

 だけど時間がないし、やりすぎると痕跡が残る。

 俺のサイズの手形なんか残ったら、ガキが警戒される。

 そうなれば、動きづらくなる。


 ここまでにして帰ろう。

 手近にあった布――男の服で、最低限の血を拭う。

 寝床を出て、近くの水場に向かった。

 この時間に人は居ないだろうが、警戒は怠らない。


 頭から思い切り水をかぶる。

 パッと見える部分だけ落として、残りは家で洗うことに決めていた。


「着替えを持ってくるか? でも嵩張るな。……上着だけでもあった方が誤魔化せるか」


 実際にやってみてわかる反省点もある。

 それらを早く紙の上に起こしたくて、帰路を急いだ。


 洗って、寝て、起きた。飯を作って、食う。

 家を出るまでの時間で机に向かった。


 爪の間に残った血は落ちづらかった。

 そういう痕から足がつく。


 極度の集中は高揚を生む。

 その緩みが、失敗につながる。


 身体と頭を動かしたら腹が減った。

 今まで読んだ小説だと、眠れず食えなくなっていた。

 個人差があるのかもしれない。


 そんなことを考えながら、物語を進めた。

 走らせた文字に乗る熱がたしかに違う。

 これが経験の力か。


「おーい、家出ないのか?」


 おっさんの声で現実に戻る。時計を見て、慌てて立ち上がる。


「いま出る!」


 さして広くもない家で、デカい声を出した。



 書き進むに連れ、足りない部分が生まれてきた。

 埋めるには、経験が要る。


「また殺すか」


 前回目をつけてたうちの一人を選ぶ。

 再度行動パターンを調査。大きな変化はないことを確認。


「今度は方法を変えよう」


 前回の学びだ。

 一発で殺せなくても、反抗されなければいい。

 意識がないうちに縛り上げて、口を塞いで、そこからじっくり殺していこう。


「バレない範囲でやらねえと」


 時間をかけすぎて、実験や観察をしすぎて、誰かに見つかったら困る。

 それに俺の集中が切れれば、相手に反撃されるかもしれない。

 入念な準備をしても、物事に絶対はない。


「全部を掴み切る必要はない。できる範囲のことだけをやろう」


 わからないことができたら、また殺せばいいから。


 二度目の殺人。縛り上げは重労働で、覚醒のリスクが神経を削る。

 想定より負荷が高かった。


 起こさないように口に布を噛ませるのはできなかったし、状況に気づけば暴れられた。

 大人しくさせるのに結局煉瓦で殴りつけた。怯んだ。だから押し切れた。


 もし相手に冷静な頭があれば殺せなかったかもしれない。

 殺せても、俺も怪我していたかもしれない。


 経験は血肉となった。

 そうやって慣れると、殺しは簡単になった。


 臓物が飛び出す光景を確認したかった。

 だから殺した。


 手の中で脈動が消える感覚を知りたかった。

 だから殺した。


 絶望と恐怖を向けられる瞬間が欲しかった。

 だから殺した。


 同じ場所で、似たようなやつらを殺しても新しい発見は少ない。だから街の人間も殺した。


 貧困街以外での殺しは、街を警戒させた。

 だが、手口を変えて間隔を開ければ、同一犯とは思われない。


 パン屋の店主を殺したときは、得るものが一番多かった。

 あいつは最後まで、俺が誰かわからなかった。昼間もパンを買ったのに。 


 いつも買い物に来るガキだとも、かつて殺しかけた孤児だとも気づかなかった。

 服装、表情、状況。それだけで全て誤魔化せた。


 殺す側の心理にも、発見があった。

 “殺されかけた復讐”なら何か違うかと思っていた。

 だが俺は、あいつを恨んじゃいなかった。だから、何も変わらなかった。


 死体からくすねた金でまた次の殺人の準備をした。

 余った金は貯めて、おっさんに服代を返した。

 子守りだけじゃ足りないだろうという顔だった。

 それ以外もやってるとだけ伝えた。


 何回も殺して、経験を得て、それを凝縮した作品だ。

 これまでとは違う。命が宿ってるのが、自分でもわかった。


 読んでいるおっさんの顔も、いつも以上に集中していた。

 読み終えて、また読み直して、顔を上げた。


「お前は、本当に才能があるな」


 震える口角に、あの日を思い出した。


「おっさんが教えてくれたおかげだな」


「そうか……」


「涙ぐんでるんじゃねーよ。それよりほら、飯を食おうぜ」


 食いながら感想を教えろよ、と言うと、「あぁ」とおっさんは目を細めた。



 おっさんの容態が落ち着いた頃、また出版社に持ち込んだ。


 前よりずっと良くなっている。筆致自体は変わっていないのに、まるで別人みたいに熱がある。


 興奮した編集者は、これを当社でと言った。

 嬉しかった。これで俺も、小説家だ。


「ありがとうございます。主人に伝えます」


「こちらこそありがとうございます! こんな作品に出会えるとは思わなかった。次の作品も、ぜひまたうちで」


「わかりました。こちらの契約が済みましたら――すぐにでも、次回作を」


 おっさんに「出版社に受け取られた」と伝えると、我が事のように喜ばれた。 

 盛大に祝おうと言われた。普段食わない良い肉を買おうだとか。


 もう買い物にも行けないような、食いやすい物しか食えねえようなおっさんにそんな物食わせられるか。


 そう返すと寂しそうな顔をされたので、代わりにシチューを食おうと伝えた。


「あんたが最初に作ってくれた料理だろ」


 おっさんは、ぐしゃりと笑った。泣きそうな顔で。



 二作目以降も、物語は生きていた。とにかく経験を埋めた。


 花畑の場面があれば花畑に向かったし、屋根に登る場面があれば屋根に登った。

 どうしても自分で経験できないものは、取材に行った。

 そういうときは、くすねた金が仕事した。


 そうやってみて、殺しは“殺しの経験”だけで終わらないと気づいた。


 下調べで、そいつがどう生きてきたかはわかる。

 死ぬ間際に訊けば、何を感じていたかの答え合わせができる。

 人間が何を大切にしてるか、知ることができる。


「今日も遅いのか」


 頑張りすぎじゃないか、と訊くおっさんは、最近あまり起きてられなくなった。

 ベッドの横には、いつも俺の本が置いてあった。


「今日が終わったら、しばらくは早く帰る」


 この殺しで、今書いてる話は終わる。だから、山場は今日だ。


「そうか。待ってる」


「待たなくていい。寝てろ。その代わり、まだ死ぬな」


 おっさんは苦笑する。

 わかったよと言って、俺の本に手をやった。


 家に帰って、おっさんの部屋を覗く。

 ちゃんと寝ていた。作り置きの皿が空になっているのも確認できた。


「俺も飯食って寝るか」


 慣れてきたが、いまだに疲れる。殺しのあとはよく眠れる。

 欠伸をしながらベッドに潜り込んだ。


 次の日、おっさんは起きてこなかった。

 ――またか。飯を持っておっさんの元へ向かう。


 声をかけると、ゆっくりと目を開く。


「……起きれそうにないな」


 弱々しい口調だった。

 仕方ないから全部世話してやるよと告げた。


 飯を食わせて、身体を拭いた。軽くなってるのがわかる。

 執筆で稼ぐようになってからは隣の手伝いはたまにしかいかなかったので、一日家に居ることにした。


 全て終わって横になっても、おっさんはどこかぼーっとしていた。

 眠るわけでもなければ、本に手をやる気力もなく、ただぼーっと。


 繋ぎ止めようとしたわけじゃない。

 ただ、なんとなく。


「読み聞かせしてやろうか」


「……えっ?」


「好きなの言えよ。読んでやる」


 気まぐれだ。何も言わなければ、そのまま離れるつもりだった。


「なら、お前の本がいい」


 なのに、おっさんは即答した。


「贅沢だろ。作者本人の読み聞かせなんてしてもらえるの、俺くらいだろうなぁ」


「……長えぞ」


「知ってる。起きて聞くさ」


「寝てもいい。そんで起きたら、また続きを聞かせてやるよ」


 おっさんが笑うのが、好きなんだと知った。 


 それから一時間弱。

 ぺらり、ぺらりとページを捲る音と、俺の声、おっさんの小さな呼吸だけが在った。


 数十ページというところで、おっさんは眠った。

 満足そうだった。

 読み聞かせは疲れたが、その顔を見て、また読んでやろうと思った。 


 起きてこられない日が増えていった。

 そうしたとき、俺は枕元で読み聞かせをした。

 どんな場面でも、おっさんは口角をふるふると上げていた。


「――おしまい、と。次はどうする? 今日はもうやめとくか?」


 三冊目を読み終えた後。おっさんに訊いた。


「いや、今日はまだお前の声を聞いていたい」


「……じゃあ、どの本読む?」


 声を聞いていたいだなんて、恥ずかしいこと言うやつだ。

 だが、聞きたいのなら聞かせてやろう。


「本じゃない。お前がはじめて書いた小説があるだろう。『働いて家に帰ったら、シチューがうまかった』話だ」


「あんなのつまんねえだろ」


「つまらなくなんかないさ。お前の話は、どれだって面白かった。――机の引き出しを見てくれ。そこに入ってる」


 机の引き出しを開けると、俺の失敗作が全部入っていた。どれも、大切に。


 少しぐしゃりとした“シチューの話”を取り出す。

 最初に書いた話だ。つまらねえ話。


「本当にこれでいいんだな」と訊いた。


 なんとなく、わかってたから。


「それがいいんだ。それが、聞きたい」


 “最期に”。

 口に出さなくても、わかってしまった。


 声が震えないように、一つひとつの語を丁寧に読み上げた。

 短い作品だ。

 それでも、すぐに読み終えてしまわないように、ゆっくりと話した。 


 捲る紙が、いままでで一番重かった。


「――おしまい」


「ありがとう」


「いいよ。……なぁ、おっさん」


「なんだ?」


 よく知ってる空気だ。

 死にかけの人間の気配。

 命が、空になっていく。


「こっちこそ、ありがとうな。あんたのおかげで、俺は生きてる。飯がうまいことも、ベッドがやわらかいことも、知れた。小説とも出会えた。小説家になれた」


 もう、頷く力もないのだろう。

 それでも、意識がこちらを向いていることがわかる。


「これからも、書くよ。書けるだけ書く。俺にできること全部使って、物語を紡ぐよ。――それだけ、伝えたかった」


 おっさんの口角が、上がった。安らかな、死に顔だった。



「ただいま」


 おっさんが死んだ後も、俺はおっさんの家で暮らしている。

 誰もいなくても、ただいまと言う。飯の前には、いただきますと言う。


「今回の作品も好評だよ。まだ十二のガキが書いてるだなんて、誰も思わないだろうな」


 おっさんの部屋で話す。

 死体は共同墓地で弔ったが、おっさんがあそこにいるわけでもない。もうどこにもいない。

 なら、あいつの気配が一番強いところで話そうと決めた。


「次のは、ちょっと行き詰まってる。だからまぁ、また取材にでも行くさ。経験が何よりも糧になるからな」


 準備は終えてる。

 今日はこのまま休むけど、明日か明後日には次を殺しに行く。


「書き終えたら、またここで読み聞かせてやるよ」


 自然と笑ってた。あのときのおっさんと、同じような顔をしているだろうか。


「じゃあ、また明日な」


 扉を閉める。飯を食う。身体を洗う。ベッドに入る。


 清潔なシーツの中、おっさんのことを思い出した。

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― 新着の感想 ―
読後、あーってなりました。 確かに経験で書くってあります。 書く側から読むと、共感できる部分があって、すごく面白かったです。 おっさんは気付いてたのかなー。 知ってたらどうしたのだろう。 そんな余白ま…
おっさんも嬉しかったでしょうね。小説って何も持たない者が、何かを得て、その輝きを留めておきたくて書くのかな?と思いました。きっと主人公は輝くものが多かったから、彼の書く小説は面白かったんでしょうね。素…
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