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第四十話「乾杯しよう」

 グルヴェイグさんに案内されて向かった先にあった部屋は――少しだけ記憶に残っている部屋だった。


「こちらでございます、中であるじがお待ちしております」


 ここは、確かかつて父の自室だった部屋だ。


 幼い頃、母から『ここには入ってはいけません』と何度も言い聞かされていた部屋だ。当時の私は扉の向こう側にどんな怖いものがあるのか不安で仕方なかった記憶がある。


 その時の『私』の抱いていた恐怖感が、今の『ボク』の足元を縛り付ける。


「お、応接室ではないんですか……?」


 ボクから出た声は戸惑いを隠せない声だった。


「はい、こちらの部屋でとのことです」


「わ、わかりました……」


 息を深く吸って心を落ち着かせる。こんなところで気持ちを落としていてどうする、バロネッサ。ここにはオロ様も誰もいない、お前はこれから一人でホーダー兄さんとぶつからなければならないんだぞ。


 人から見たらまだ十三歳の子供かもしれないけど、ボクはもうドゥラ家にいた頃の私ではないんだ。胸を張って挑め、覚悟を決めろ。


 グルヴェイグさんが扉を軽くノックする。


「バロネッサ様をお連れいたしました」


「……あぁ、ありがとう。入ってくれ」


 グルヴェイグさんが無言でドアを開け、室内に入るよう促されるとボクの心臓の音が高鳴った。不安という闇に包まれる部屋に向かって歩みを進めると、そこには窓からさす光を背に受け、黒い椅子に座ったホーダー兄さんの姿があった。まるで玉座に座っているような威圧感を放っていた。


 広い室内を見回すと、ベッドに書棚にクローゼット、ドゥラ家の威厳を示すような調度品が並んでいる。その中央には黒を基調として赤と金で模様があしらわれた椅子と机があった。


 緊張で身を硬めたまま室内を進むとホーダー兄さんが一度立ち上がり、無言で手を出して椅子に座るよう促された。椅子に向かうとグルヴェイグさんが椅子を引き、腰を下ろすだけでどっと疲れが出てきてしまった。


「そんなに緊張することはない――と言っても無理はないか、この屋敷そのものがバロネッサにとっては忌まわしいものだろうからね」


 ホーダー兄さんの声はボクの緊張とは真逆で、静かで落ち着いていた。


「い、いえ……。ただ、この部屋には入っては駄目だと言われていたことを思い出して……」


「あぁ、ここは父の部屋だったからね。今は私が自室として使っている、いささか手に余る広さではあるが」


「ははは……」


 これが愛想笑いか、というほどぎこちない典型的な笑いがでてしまった。やはりこの部屋は苦手だ……。


「ホーダー様、バロネッサ様から贈り物を頂戴いたしました」


「おぉ、ありがたい。どれ、見せてくれ」


 グルヴェイグさんが小さな化粧箱を取り出し、ホーダー兄さんに渡した。その所作ひとつひとつが音もなく滑らかで完璧だった、見ているだけで勉強になる。


「おぉ、これは」


 ホーダー兄さんが化粧箱を開けると、そこには金色に光るネクタイピンがあった。飾らない長方形の簡素なものだが、その先には家の紋章である『IIXII』が銀色で意匠を施している。


「金のネクタイピンか、バロネッサが作ったのか?」


「は、はい。金は柔らかいので素材は銀です。そこに金メッキをして紋章の部分はメッキをせずに下地の銀を露出させています」


「なるほど、即売会もバロネッサの作品は見ていたが改めて私のためだけの作品となると、より一層良く見えるものだな」


 ホーダー兄さんは指先で紋章の細工を確かめ、ボクの技術に感心しているようだった。


「ありがとうございます、もし使っていてメッキが剥がれてくるようであればヴェローチェまでご連絡いただければ手直しをいたしますので」


「それは助かる、大切に使わせてもらうよ」


「気に入っていただけて何よりです」


 ホーダー兄さんの笑みにつられて思わず頬が緩んでしまった。ホーダー兄さんに気を遣わせてしまったかもしれない。


 ボクの眼の前には、いつの間にか配膳されていたティーカップがあり、グルヴェイグさんが温かい紅茶を注いでくれていた。湯気から立ち上る紅茶の香りは、ボクの緊張を少しだけ和らげてくれた。


 ホーダー兄さんが化粧箱の蓋を閉じ、紅茶が注ぎ終わるのを見届けると、グルヴェイグさんに化粧箱を手渡した。二人は何を言うでもなく、グルヴェイグさんは化粧箱を受け取ってそのまま一礼して部屋をあとにした。ドアが静かに閉まると、二人だけの空間が生まれてしまった。


 ホーダー兄さんがボクの顔に視線を真っ直ぐ向けてきた。


「さて、本題に入ろうか。ここに来たということは心は決まったみたいだね、結論から聞かせてもらってもいいかな?」


「はい……」


 答えは既に決まっている。あとはそれを想いとして言葉にするだけだ。

 

「ボクの目的はヴェローチェに入った時から『困っている人を助けたい』という気持ちで進んできました。だから、ボクはホーダー兄さんとは共に進むことは……できません」


 言葉を発し終えた瞬間、室内の静寂さが鉛のように重くのしかかってきた。


 言うべき言葉を出し切った……。とても重く、そして辛い言葉だった。


 ボクは自分自身の価値観を生み出し、それを芯とした。それでも、本当にこれが正しいのか揺れてしまう部分はどうしても残っている。


 膝の上で握りしめた拳がじっとりと汗ばむ。それでも、ボクはふらつく足を叩いて前へ進むことにした。


「……私の政策は間違っていると?」


 ホーダー兄さんが表情も変えず、静かに問い返してくる。


「ボクは困っている人を助けたいと思っています。その人たちが望むことを『善』として、それに対する存在を『悪』とすることにしました。ホーダー兄さんを『悪』とは思いませんが『善』ではないと思いました」


「つまり、私のやり方では人は救えないと言いたいわけかい?」


「そうは言っていない――つもりです……。ホーダー兄さんのやり方でも困っている人を助けることはできると思います。でも、それはボクがやりたい方法と違うからです」


「バロネッサはどういうやり方で人を助けたいと思っているんだい?」


「ホーダー兄さんのやり方は『ボク』という新しい頭にすげ替えただけで、やっていることは前と変わりません。支配というやり方では上手くいかないのであれば違う方法を取るべきだと思います」


「それで、他の方法とは?」


「それは――わかりません……」


 一緒にはやれない、でも代案はない。子供が駄々をこねるのと何も変わらない、それが今のボクの精一杯の正直な答えだった。


「……ふぅ、もっとまともな答えが出てくると思ったのだけど」


「すみません……」


 数秒の沈黙の後、ホーダー兄さんがふと口角を上げた。その微笑みはボクの緊張を更に高めてきた。


「ふふっ、ごめんよ。あまりにも純粋な答えであれこれ考えていた自分が愚かしく思えてしまったんだ」


 その微笑みは落胆ではなく、喜びのようなものに感じた。


「ど、どういうことですか?」


「私は嫌がっている相手をどうやって説得するかを考えていたが、バロネッサはそもそも嫌がることをするなと言う。それはそうだ、相手は嫌がっているんだからね」


「そんな簡単な話では……」


「簡単な話だよ、私とバロネッサは同じ方向を向いていたが、手段まで一緒ではなかった。もちろん実現できるかどうかもわからない理想論かもしれないが最初から妥協をせず、理想を現実にしようとする姿勢は重要だ」


「それは……そうかもしれませんけど……。その、いいんですか……?」


「もちろん良くはない。ただ、部屋に入ってきた瞬間に分かったよ『今から断るぞ』って顔に書いてあったからね」


 恥ずかしくなって思わず両手で頬を触ってしまった。そんなに顔に出ていたのだろうか!?


「単に『はい』と返事するだけならそこまで緊張はしないからね、大方どうやって断るのかあれこれと考えてから来たのだろう?」


 うっ……。完全に行動を読まれてしまっている……。頬に触れている手のひらが熱い。


「また出てるよ、図星だって」


「うぅ、恥ずかしいです……」


「バロネッサはまだ直情的な部分があるようだね、君の仕事では感情を律する必要があるだろう。


「はい、ありがとうございます」


 指摘は真っ当で刺さるものがあるけど、その言葉が優しさからくるものであることがよくわかった。


「実の所、断られた事は残念であると同時に嬉しくもある」


「えっ、嬉しい……んですか? ボクが断ったことが?」


「あぁ、私は大人に振り回されてバロネッサたちを追い出してしまったというのに、同じ年齢でも自分で考えて意見を持って前へ進んでいるんだ」


「――それは、周りに導いてくれる人たちがいたからです」


 オロ様だけじゃない、孤児院にいるみんなだってそうだ。ボクは環境に恵まれている、その自覚はあるつもりだ。この場にはいないけど、みんながボクをここまで育て、導いてくれている。


「羨ましいよ、私の周りにはいかにして私から奪い取るかを考える者しか残っていなかったからね。お陰で父が遺した財産もかなり減ってしまった。幸い、バロネッサに返せる分は残っていたが」


「そんな大事なもの、やっぱり今のボクには受け取れません」


「今のボクか……それならいずれは渡せるよう大事に使わせてもらうよ。私はまだ大事な妹が私のもとに帰ってくることを諦めてはいないからね」


「期待に答えられるかはわかりませんけど、目指す方向は一緒であるならいつかは同じ場所に辿り着くと思います」


「私もそう思うよ、だから今回の件は本当に気にしなくていい。声をかけていたのはバロネッサだけではない、私が追い出した者たちには一通り声をかけている。帝国出身のエノラ様のご子息、あとは私の二つ下のルガル君もこちらについてくれそうだ」


「他にも同じ志の人たちが……!」


「あぁ、先日の指輪がその一部の者たちとの結束でもあった、指輪をしていたのは全員かつてドゥラの縁者だ。私にはまだ人望がないが、亡くなった父の名は人々を集めるには十分すぎる力を持っている、人の集まりは更に人を呼ぶ」


「本当にドゥラの父様とうさまは……偉大なお方ですね」


「方法に賛否はあっただろうが、父が優秀であったのには違いない。父が亡くなり、内部にいたディフィシルという者が癌だっただけで、引き裂かれてもドゥラの縁は簡単に消えることはない」


「ボクも引き裂かれた一人ですけど、ドゥラ家自体に恨みがないわけではありません……。ですが、父が偉大であったこととホーダー兄さんが面倒を見てくれたことを忘れたわけではありません」


 ホーダー兄さんは少し冷めてしまった紅茶の入ったティーカップを持った。


「今はまだ交わらないが、それぞれの道を歩みいずれまた相まみえることを誓って、乾杯しよう」


「はい、また――いずれ」


 ホーダー兄さんとカップを軽く合わせ、温くなった紅茶を一口だけ飲む。きっとここはボクの運命を決める転換点だったに違いない。


 『心の中の欠片』が一つ埋まったような気がする……。


 ボクの心にはいまどれだけの人がいるのだろう……。また一人、ホーダー兄さんを見つめながら、静かにそう思った。


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