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春の訪れ

作者: 水野 蛍

 町田鳩子というのがこの物語の主人公だ。鳩子はある心の病を患って3回も入院した経歴の持ち主である。そんな鳩子が経験したのが、果たしてどこまでが妄想であり、想像であり、事実なのかは、鳩子の話を聞いてここに文章化している私自身、決めかねる問題であった。私はだから、あえてこの問題は読者の判断に委ねようと思う。

 しかし、ある観点から言えば、そもそも物語にとって事実とはそれほどたいした意味を成さないものなのではないか。物語が幾重にも異なって読み替えが可能なこと、それはかえってその作品の世界を質的に豊穣なものにする、ある有効な方法論的手段の一つにもなりえるのではないか。その意味で、私はあえて読み方が幾通りにも出てくるような、ぶれや曖昧さを残しておいた。それがどんな効果をもたらすものか、書き進めながら、私自身も一読者として、後で繰り返し眺めてみようと思っている。とにかく、これは私と鳩子のコラボレーションによる、体験に基づいた物語フィクションである。読者の皆さんはそのことを忘れずにこの物語を読み進めていただきたいものだ。


*第一日*

鳩:私があれに会ったのは、ちょうど花曇の時期である4月の初めのころでした。ちょうどそのころは、退院から半年ほどたって、そろそろ社会復帰しなければと焦っていたころでした。

筆:あなたはその頃、お一人でお住まいだったんですよね?

鳩:はい。通院に楽なように、病院から近い安アパートに一人で入居していました。

筆:それでは、一人で心細かったでしょう。

鳩:そうでもなかったですよ。ようやく病院の中のうっとうしい人間関係から逃れられて、落ち着いた暮らしができ始めていた頃でしたから。でも、家族、特に母が、私のいつまでも一人で遊んでいるという暮らしを良しとせずに、愛の鞭をふるって、私が外へ出て行けるようにとお尻を叩いてくれていたんです。当時の私にはまだその有り難味が分かっていなかったのですがね

筆:それでは、あなたは一人暮らしに満足していたと。

鳩:はい。そう思います。

筆:でも、そんなときにあれがあなたの目の前に姿を現したのですよね。

鳩:はい、そうです。あれが現れました。私にはどうして現れたかも分かりませんが、あれははっきりと人間の形、それも14歳くらいの少年の形で私の前に現れました。

筆:短絡的かもしれませんが、それはあなたの病気から来る妄想が、孤独感の辛さと結びついて生まれた幻像だったのではないですか?結局あなたも他人とのつながりを求めていたと。そういう合理的な説明で納得いかれませんか?

鳩:でも、私は実際に会ったのですから。しっかり目で見ましたし、話すのを耳で聞きましたし、残していったものは私の手元に今も残されていますから、やはり本物の人間だったとしか思えません。

筆:それらすべてが夢であったとはお考えになりませんか?

鳩:いいえ、考えません。

筆:それでは、当時の状況をもう少し詳しく説明してください。

鳩:分かりました。

 そこで私は鳩子が話を始める前準備として、一言も聞き漏らさないよう、レコーダーに録音する準備を行い、録音ボタンのスイッチを入れた。

 いよいよ鳩子の話が始まる。

「私、町田鳩子は200X年のある春の日に、自宅で一人の少年に出会いました。彼は自分が春だと名乗り、友達になろうと言い出して、最後にプレゼントをおいて帰って行きました。見た目は13・4歳くらいの少年でしたが、風の又三郎のようにふらりと来て、ふらりと去っていきました。それはあっという間の出来事でした。再現すると、次のようになります」鳩子の話はいよいよ本番に突入する。

 …それはちょうど、私が病気の陰性症状のせいでベッドから起き上がることすら断念していたころで、母親からの催促がうるさくてかなわないと思っていた時期でもありました。そんなある朝の10時ごろでした。突然ホワンホワンとドアフォンが鳴りました。今から考えると、まだ20代で家族も友達もいない1K住まいの女の子としては、警戒すべきだったと思いますが、不思議とそのときは何もよく考えないままに、玄関のドアを開けていました。私が外部の人間に対してドアを開くのはそれが初めてのことでしたが、するとそこには、私の目の高さくらいの身長の、14歳程度の少年が立っていました。赤い髪の目立つ少年は白いTシャツに青いジーンズ、黄色いスニーカーという爽やかな春らしい格好でした。

「やあ」その少年は開けっぴろげに微笑を浮かべながら、挨拶してきました。

「こんにちは」私も挨拶を返しました。「あなたは誰?」そう続けて尋ねました。

「僕だよ、僕。分からない?」少年はまるで旧知の人間のように逆に質問してきました。

「分からないなあ。あなたと会うのは初めてよ」

「ううん。毎年会っているはずだよ。僕を知らない人はいない。僕は春、冷たい冬の後にやってくる楽しい春の使者なんだ」

「春?人間なのに?」私は思い切り変な顔をして見せました。理解できなかったからです。

「そうだよ。君が一人でふさぎこんでいるから、僕が元気付けようと思ってわざわざやってきたのさ。さあ、早く僕を入れてよ」

「ええっ」

 その当時はまだオレオレ詐欺などという言葉も知りませんでしたし、疑うことを知らなかったというか、(自称)春が身に備えている雰囲気には、自然と人の警戒心を解いてしまうような何かがあって、私はそう言いつつも、何もためらうことなく、春夫(私はそう呼ぶことにしました)を家に上げていました。

 春夫はいそいそと黄色いズックを脱ぎ、きちんと並べてから、「ありがとう」と言いながら、私の城に入ってきました。私はそのとき、春夫を侵入者のようにはまったく考えず、礼儀正しいと感心する以上に、ただ空気のように自然な存在として迎え入れたのでした。

 私はまず、部屋の真ん中のコタツの前できちんと正座をして待っている春夫に、カラフルで上等な金平糖と渋い煎茶を出しました。春夫はおいしそうにシャクシャクと金平糖を噛み、ツルツルとお茶を飲み干しました。どちらも気に入ったようでした。春夫は言いました。

「人間界にはうまいものがあるんだね」

「あなただって人間でしょう?」

「僕は人間だけど、ただの人間じゃないからね。まあ、春からの使い、神様にとっての天使のような存在だね。春の間だけ、人間の姿になるんだ」

「ふうん」私は冗談半分に聞いていました。うららかな春の兆しの中、眠気が襲ってくるのをどうすることもできなかったからです。うとうととする私を、春夫はしばらく優しい目で見守っていてくれました。そして、20分後に私が目を覚ますと、十分に辛抱した人の謙虚な言い方で、「鳩子、もう僕は行かなくちゃ。まだ待っている人たちがいっぱいいるからね」と言いました。

「あ、ごめんね。眠ってしまって、ろくに話もできなかったじゃない」

「それはいいんだ。僕は君とおしゃべりをするためにここにきたわけじゃないからね。まず、僕たちが友達になるということ、そして、実は僕や僕の仲間たちは今、郵便局に勤めていて、街中の人にプレゼントを届けることになっている。君にももちろん、プレゼントは用意してきたんだ。それが今回の目的だよ」

「プレゼント?」私ははっとして、珍しい鳥でも見つけたかのように、目を丸くしました。

「そうだよ。君にはこれだ」そう言って、春夫は外では背負っていたけれど、今は右肩にかけている黒いリュックサックの中から、何やら小さな包みを取り出しました。

「なあに?」

「僕がいなくなってから開けてよ。僕、いや僕たちみんなの気持ちだよ」

 春夫は一生懸命に私の興味を掻き立てようとでもいうのでしょう、わざとそっけない調子で言いました。

「分かったけど、何かなあ」

「楽しみにしていてよ。それじゃ、僕は行くよ。手紙を読むことを忘れないでね」

 そして、春夫は席を立って、入ってきたドアからまた外へ出て行きました。

「またいつか会える?」

「うん。君が僕たちのメッセージを理解できれば、そうできるよ。だから頑張るんだよ。ポポポの鳩子ちゃん」

「ひどい、ポポポなんて。でも、楽しかった。ありがとう。プレゼントもちゃんともらうから、さようなら」

「バイバイ」

 春夫はそのまま姿を消しました。外では埃っぽい春風が当たり一面を蹴散らして、まるで出会ったのが夢であったかのように、彼の痕跡を残らず消し去ってしまったのでした。結局、部屋に残されたプレゼントの包みだけが、私と春夫が実際に会ったことを証拠付ける品なのでした。

 その品は、少年が今まで座っていた部屋のコタツの上にありました。白い10センチ四方の立方体のような包みでした。私はドキドキしながら、その包みを開け始めました。気が急いていたので、白い包装紙はビリビリになってしまいましたが、おかげで中身がすぐに見えました。

 それは、真紅のベルベット地で覆われた、宝石箱を少し大きくしたような箱でした。よく指輪が入っているようなタイプのものです。私はこの時点でとても幸せな気持ちになって、ワクワクしながら箱を開けました。ところが、そこには指輪ではない物が入っていました。何とただの鍵でした。私はがっかりしました。ただの鍵、しかも、いたって普通の鍵で、会社のロッカーやデスクに使われているような平凡な型です。その上、一体何の鍵なのかわかりません。ただ、箱の中に小さなカードが入っており、裏返してみると、「これは鍵穴のない何かを開ける鍵。一体何なのか考えてみて。春」とありました。

 私はびっくりしました。ほとんど謎々だったからです。春夫が冗談を言ってこようとは思っていませんでした。いや、でも、と私は考え直しました。あの春夫がただのジョークを言いに、わざわざ私のところまで来ないだろうと思い直したわけです。

 それじゃあ、一体あの鍵の正体は?考えても埒が明きません。私はそれで、まずはもっとも尊敬している人に意見を聞きに行くことを考えました。


 私がすぐに歩いて向かったのは、私の主治医であるK先生が開いている、小さなクリニックでした。歩いて30分もかかりません。たまたまその日は、K先生がいらっしゃることを知っていたので、私は早速先生を訪ねました。クリニックはがらがらで、すぐに診ていただけることになりました。

「町田さん、どうかされましたか?」まずお決まりの言葉をK先生は口にされました。

「はい」私はドキドキしながら、先生の反応を見ていました。「実は相談に乗っていただきたいことがあって」

「何でしょう」先生は落ち着いた声でした。

「はい、実は…」

 そして私は、今日の朝、春夫がやって来た事の次第を、K先生にすべてお話したのでした。

 先生はしばらくじーっと考え込む風でしたが、やがておもむろに言いました。

「それは、普通の人間の理解を超えた現象ですね。僕には正直言って、分からない。あなたの標準以上の空想力があずかってのことなのでしょうが、僕には判断がつかない。しかし、春の使者というのは、別に悪い存在でもなさそうだし、あなたにも楽しい春がやってきたということで、いい意味で捉えてもいいんじゃないか、と僕は思います」

「そうなんでしょうか」

「それくらいしか言えなくて、申し訳ありませんが」

「とんでもないです、先生、そんな」私は先生の謙虚な物腰に恐縮して、慌てて言いました(私はK先生のそういうところが大好きだったのですが)。

「それなら、先生、もうひとつ伺いたいのですが、よろしいですか?」

「はい、何でしょう」先生は毅然とした態度で私の質問を受けてくれました。

「春が残していった鍵はいったい何なんでしょうか」

 すると、先生はすぐに微笑みながら言いました。

「それは、春君が言っていたとおり、自分で考えなければいけないことなんじゃないでしょうかね」

「どうしてですか?」

「医者としてではなく、人間として、そういう種類の物事もあるのだ、と僕が思っている、ということです。自分の手足と頭を銘一杯使って解く、ということが、後の達成感につながるのだとも思いますしね」

「なるほど」

 結局、私はK先生から具体的な手がかりは何も得られませんでしたが、自分の頭で考え、他人に頼らない姿勢が重要だと教わったのでした。私は半ばがっかりしましたが、しかし、先生の言うことが正しいと思う気持ちもあって、複雑な気分になりました。ただ、クリニックの外に出ると、暖かい春の日差しを体中に受けて、気分はすぐにすっきりしました。これからいよいよ探索の旅に出るぞ、と大袈裟なことまで考え出したくらいでした。私の中では、こうしてすでに春が始まったかのようでした。私はわくわくしながら、トコトコトコトコ、気の向くままに、ひたすら歩き続けました。

私はそれから、折角の快晴の日和に春らしい気分を味わおう、とでもいうつもりだったのでしょう、そのままの足でいつの間にか、桜の名所であるI公園に向かっていました。ちょうど桜が満開で、天気もよく、すばらしい花見日和だったのです。

 私はやがて、公園に近づくにつれ、同じように花見に訪れている人ごみに、否応なしに巻き込まれました。ちょうど昼ごろだったので、ものすごい量の人々が押し寄せていました。最寄りの駅から、公園の真ん中にある池まで、元旦の明治神宮のように長蛇の列でした。いや、列なんていうものではない、カオスがそこにはありました。私はその流れに不可抗力的に流されながら、やっとの思いで、途中のスタンドでソーセージとビールを買い、腹が減っては戦はできぬと、兵糧として胃に半ば強制的に流し込みました。もちろん立ったままなので、味も何もあったものではありません。戦闘に巻き込まれたような、ひどい混雑の中で、私は押しやられないようにすることで必死でした。30分もたってようやく、周囲の人だかりが減って、ほっと一息つくことができたと思ったら、もう桜もほとんどない、池の端のほうでした。

 しかしそこにも春はいました。期待していたとおり、景色はすっかり春の衣装に衣替えになっており、うっすらと桃色のさした、一面の真っ白な世界が目の前に広がっていました。理想的なアングルで、私は周りの人々一緒に、「花見」を楽しむことができたのです。

 そのとき、はっと気づくと、一陣の風が吹き抜け、ふわっと一斉に花びらが空中に舞いました。それは、粉雪のようにふんわりと広がり、そして水鏡の上にゆっくりと散ってゆきました。まるで羽衣を着た天女が宙に舞っているようでした。

 きれい…私は完全にうっとりとしていました。そしてこれが春の洗礼か、と思うと、自然の偉大な奇跡にわーっと歓声を上げたい気持ちになりました。春夫の言っていた、楽しい春という言葉の意味が分かった気がしました。

 春は誰の上にも平等に訪れる、一年の中でもっとも魂が高揚する、奇跡的な季節なのです。そして、私たちはみんな、それをほかの人々とともに、楽しむことができます。だから、春は出会いの季節でもあるのです。私にも何かいいことがあるのかもしれない、そんな気持ちにさせてくれる、出発のときでもあります。私は春を探す旅が、何かとの楽しい出会いになり、新しい自分を見つけられるのではないか、という嬉しい予感に満ちてきたのでした。

悠長にそんなのん気なことを思っていたら、また気づかないうちに人ごみに押しやられて、気づくともう一本も桜の見えない区域に差し掛かっていました。その一帯は、数々の風変わりな品がぞろっと茣蓙やブルーシートの上に並べられている、フリーマーケットのコーナーでした。私はそういう催しや大道芸などにも目がないほうだったので、きょろきょろと見回しながら、何か面白いものはないかと、物色し始めました。

一番多かったのは、手作りのアクセサリーでした。ビーズのネックレスや、シルバーのリング、ペンダントなどです。いろいろな形や色のものがあります。後は、めぼしいところでは、自らが演奏している民俗音楽のCDや、着古した衣服、手書きの絵葉書などが見受けられました。ほかに目立ったところでは、まだ赤ん坊のウサギを売っているコーナーまでありました。本当にいろいろな商品が並んでいるのでした。

 そんな中で、一番私の目を特に惹いたのは、大学生くらいの若い女性が、肖像画を描いているコーナーでした。その肖像画を描く女性がなんとなく、非常に訴えるものがある、オーラをもった人だったのです。

 その女性は、脇の黒いラジカセでクラシックをかけながら、なにやら難しそうな分厚い本を読んでいました。格好も独特で、上は黒いタートルネックに黒いベスト、下は黒いロングスカートでびしっと決め、首にだけ白いふわふわストールを巻いていました。髪はまっすぐな緑の黒髪で、腰までありました。平安時代の貴族の姫君のようでもありました。

「お姉さん、何を読んでいるの?」私は思わず訊いていました。

「ああこれ?ゲーテの「色彩論」。私はバウハウスが好きなんだけど、結構関係しているみたいだから、参考として読んでいるの」

「お姉さんは、美大生なの?」

「そうよ。専門は美術史のほうだけどね。描くのも好きなのよ」

「へえ」

 わたしそこで突然、思い立ちました。そして心臓を波立たせながら、言いました。

「あの、14歳くらいの白いTシャツ、ブルージーンズ、黄色いスニーカーの赤毛の少年を描いてみてくれますか?想像で春をイメージしながら」

「春を想像で?それは難しいなあ」

「でも、お姉さんなら描けると思うわ。独創的だもの」

 お姉さんは笑いながら、画用紙と鉛筆を取り上げました。そして、まず、小さな少年の姿を、画用紙の真ん中に丹念に描き出しました。どことなくいわさきちひろを思わせるような、優しい、華奢な感じの少年でした。でも、その男の子には、今にも駆け出しそうな、生き生きとした感じもあり、何より飛び切りの笑顔です。

軽いデッサンを終えた後、お姉さんは、少年を銀色を基調に、淡く淡く色付けしてゆきました。ブルーのズボンと黄色の靴がポイントでした。白いTシャツの代わりの、薄い紫の陰影も優雅な感じを醸し出していました。そして、最後に頭だけがちかちかと燃える炎のように瞬いていました。すばらしい色彩効果でした。私はお姉さんの色彩感覚に拍手を惜しみませんでした。

「そんなに褒めると、後が怖いよ」お姉さんは苦笑いです。「ねえ、私のこと、お姉さんて呼ぶのをやめてよ。多分、私のほうが年下だから」

「なんておっしゃるんですか」

「箱崎里美」

「町田鳩子です」

「どうかよろしく」

「こちらこそ」

 それから私たちは話し込みました。もう、花見も何もあったものじゃありません。でも、私は里美さんに春夫のことを話していました。春夫が今にも駆け出しそうな勢いで、満面の笑みをたたえている肖像画も手に入りましたし、私はまた春夫と会えそうな気がしていました。そして、里美さんに一緒に春夫を探してくれるように頼みました。里美さんは喜んで手伝ってくれるとのことでした

 里美さんという人は、昔から苦労をしながら育ってきた人だそうです。小さいころは、お父さんが小さな町工場を所有していて、小さいながらに立派な業績を残していたらしいのですが、景気の低迷で工場を売ることを余儀なくされてしまい、それがショックだった里美さんのお父さんは、家を出て行ってしまい、今では音信不通で、どこで何をしているのかさえ、まったく分からない関係になっているそうです。

 そんなお父さんを持った里美さんは、小さいころから、お母さんと二人で暮らしてきました。お母さんはまったく普通の主婦だったので、バリバリ稼げる手立てがあるわけもなく、内職やパートで二人分の食費をまかなってくれました。そんなお母さんの気持ちにこたえようと頑張っていた里美さんは、絵と勉強が得意だということで、奨学金によって大学で美術史を学び、大学の先生になることを目標としているのでした。

 今日はでも、描くほうも相当好きなので、バイト兼練習として、こうして出張してきているのだそうです。

私は言いました。

「だとしたら、すごいラッキーですね、私って。私と里美さんの出会いって運命的なものなのかもしれない」

「でも、私はしょっちゅうここにいるのよ」

「でも、私が今日ここに来たのは本当に偶然だから」

「そうねえ」

 私たちはにこやかに微笑を交わしながら、一緒に春夫を探す旅に出かけることにしました。


里美さんが画材を片付けて、店仕舞いした後、私たちは春夫を探すことにしました。頭のいい里美さんが春のいそうな場所を考えてくれるといいます。

 里美さんはまず、バスで市の外れにあるK公園まで出ました。お目当ては市で一番の名所である菜の花畑です。

「すごいね」少し傾斜のかかっている坂を上る必要があったのですが、足の長い里美さんについていくので精一杯で、歩くのに疲れて、後からヒーヒー言いながら、ようやく追いついた私は、ハンカチで吹き出る汗をぬぐい、一息をつきました。

 周りはすべて満開の菜の花でした。レモン色のカーペットがだーっと、まるで無限空間に達するんじゃないかと思うくらい果てしなく、広がっていました。私たちはしばらくそのレモン色の空気を満喫しました。空も真っ青で、キリリとレモン色の海原にシャープなラインを持ち込んで、いい対照を成していました。

 私たちは菜の花畑を見渡すために、芝山に登り、寝転がりました。

「春ならば、人を喜ばすことが好きそうじゃない。それとやっぱり、春といえば花よね。桜だけじゃなく、いろいろな花も咲いているのよね」

「私、レモン色も好きだし、それと青の組み合わせがとてもいいと思います」

「ゲーテの色彩論では、青と黄色は根源現象といって、あらゆる色の基礎を成すものといわれているのよ。だから、私はここが思いついたのかも」

「とにかく、春の気分は出ていると思いますよ」

「そうよね。ここにこられてよかったわ」

「私も、春夫に会えなそうなのは残念だけど、いいものを見られてよかったと思います」

「あら、春君に会うのが第一の目的だったのよね。ごめんなさい。なら、次行ってみる?」

「えっ、もうですか?もうちょっとのんびりしていきませんか?こんなに気持ちのいいところなのに」

「でも、少年老い易く学成り難し、というでしょう」

「ええ、一寸の光陰軽んずべからず、分かりますけど」

「まだ先があるのよ。いまだ覚めず池塘春草の夢、階前の梧楊すでに秋声、ってね」

「はい。漢字がよく分かりませんけど、聞いたことはありますよ」

 里美さんが案外にせっかちなことが分かって焦りましたが、私は一生懸命、息を切らしながらついていきました。

 すると、今度は同じK公園の中を流れる川の、よく澄んだ小さな浅瀬でした。下をのぞくと、水は透明に照り輝いていて、すっと底まで見わたせます。そして、そこにはちょろちょろとメダカの集団がいます。おたまじゃくしもいます。小鮒もいます。みな忙しそうに、生命の力を十全に発揮しながら、元気に泳いでいます。見ているだけで、元気が出る光景でした。

 私は視線を岸辺の野原にも向けました。歌ではないですが、レンゲやスミレも咲いています。シロツメクサやタンポポも、ハコベもぺんぺん草も、オオイヌノフグリもハルジョオンも。みんなみんな、あたしを見て、と言わんばかりに、自己主張しています。

 私はこれを見て、すっかり童心に帰ってしまいました。小学校の理科の教科書と植物図鑑が思い出されます。そして、あった、あったあのコーナー。春の森を探せ。川を探せ。石の下を探せ。そのたびに発見がありました。今はすっかり忘れてしまっているけれど、確かに昔は知っていた上に、半ばその中で暮らしていた身近な自然が、懐かしいのです。

 春は人間たちだけではなく、ほかの動植物にとってもありがたい季節なのです。私にはそれがよく分かりました。そして、すがすがしい気持ちになりました。ここに来てよかったと心から思えました。もう、里美さんには黙って付いていくことにしました。

最後に私たちが向かったのは、公園を出て町に戻った、商店街の一画にあるツバメの巣でした。ある古い大衆食堂の建物の軒下にツバメが巣を作っていました。まるでつばのない麦藁帽子をひっくり返したような、乾いた麦わらや枯れ草や枯れ枝を唾液で固めて作った半筒形の巣があります。その華奢な巣の中には、元気な雛たちの姿が見られます。母鳥がしきりに獲物を見つけてきては、その雛たちに餌を与えている姿が、自然の生命力とたくましさを思わせるのでした。  

私は考えました。普通はこういう光景を見て人は何を思うでしょうか。都会の真ん中で生きる小さな鳥たちの勇気と知恵でしょうか、それとも、涙ぐましい親子愛でしょうか、それとも、単純に新しい生命の誕生を喜ぶ気持ちでしょうか?私がそのときに思ったのは、私がもしツバメの雛の立場だったら…ということでした。生存競争に勝ち抜くたくましさが、うらやましいのです。私ならきっと、簡単に脱落してしまうでしょう。

 私は鳩ですから、ツバメに対して、単に競争心のようなものを感じているだけかもしれません。ですが、やはりツバメという渡り鳥の味わってきた自然の厳しさを思うと、ため息がでます。ただの町の鳩とは違うのです。彼らの姿を見られるだけでも、ひとつの奇跡なのかもしれません。でも、鳩もツバメも生命としては同じです。そういう意味では、どんな存在であれ、春に新しい命が生まれることは等しく大切な自然の営みなのだと思います。これも春という季節の重要な特徴でしょう。やっぱり、春は偉大な季節だと思うのでした。 

こうして、私たちは春の自然をいろいろな形で満喫したので、満足でした。ただ、当初の目的である、春夫を見つけることは果たせませんでした。

 私は里美さんに言いました。

「春夫は、もっと人間的な存在だった気がします。ただの人間ではないとは言っていましたが、人間であることには変わりありません。だから、私たちはもっと社会や文明の中で彼を探すべきなのかも知れません。」

 里美さんもこの考えに納得しました。

「春は、私たちにとって、単なる外部の自然じゃないってことね。社会的な自然だってあるだろうし、逆に私たちの内部の自然もあるものね。それじゃあ、とりあえず明日はもっと街の中を探し回って見ましょう」

「はい」 

 こうして私たちは、夕方ごろ、歩き疲れでくたくたになって、別れました。でも、心地よい疲れであり、明日もまた会えるのだと思うと、むしろわくわくしたままでした。ついに私にも友人ができたのだ、と思うと、うれしくてたまりませんでしたし、孤独で単調な生活からの、貴重な第一歩に思えて、私は満足していました。

 家に帰ってからは、早速里美さんに描いてもらった、春夫の肖像画を一番見やすい位置に飾り、飽きることなく眺めていました。春夫のおかげでまず、友達ができました。そして、美しい春の自然を堪能することができました。絵を見ていると、その春夫がこちらに向かってウインクしているような印象すら受けるのでした。

 私はそれから何の気なしに、テレビをつけ、適当にチャンネルを変えていたら、桜の開花情報を特集しているニュース番組を見つけました。それによると、全国の人々が、この天気のよかった一日の間に、各地で花見を楽しんでいたとのことでした。私は思いました。友達の友達も友達だ、なら、春を喜ぶ人たちみんなが同じ仲間であり、友人なのだと。そう思えるなら、私はもう一人じゃない、私にはもう怖いものなんていない、と思いました。

 そして、絵を見つめながら、私は明日に向けて、まるで何かをつかもうとでもするかのように、布団に手足を伸ばして、横になりました。すぐに眠気が襲ってきました。


*第二日*

私は夜明けごろ、夢を見ていました。大きな春夫と小さな春夫がいて、おかしなことに、大きな春夫は私の夫で、小さな春夫は私の息子でした。二人とも私の手をどこかへ行こうと引っ張ります。私は苦笑いをして、後についてゆきます。すると、そこには抱えるのに10人くらい必要そうな、巨大な桜の木が立っていました。二人の春夫はしばらく黙って私と一緒にその木を見つめていました。そして、私はいつの間にか、その木に上っていました。そこは、一つの小屋のようになっていて、広々と空を眺めることもできれば、下を見下ろすこともできました。私はその部屋の真ん中の寝台に横になり、しばらくうとうとしました。はっとして目を覚ますと、またもう一人の春夫がいて、その春夫は高校生くらいでした。

「鳩子。僕は君のものだよ」そう言って、若い春夫は私にもたれかかってきました。私たちは、仲良く一緒に寝台に横たわりました。そして、熱い抱擁を交わすと思ったその瞬間、私はまた地面の上にひとりで立っていました。そして、びっしりと真っ白な花が咲いている満開の桜の木を、私は恍惚として見つめていました。私は手を伸ばして、桜の花を枝ごとちぎり取ろうとしましたが、できませんでした。気づくとその桜の木は、ひとつの絵になっていました。私はまたもや夫と子供の二人の春夫と一緒に、周囲にいる人たちの集団と一塊になって、その見事な桜の木の絵を眺めているのでした。

すごい…と思った次の瞬間に、私は目を覚ましました。気づくともう朝でした。私は眠い目をこすりこすり、何とか布団の中から這い起きてきました。でも、今日は朝から里美さんとの約束があります。私は急いで朝食を食べ、身支度をして、待ち合わせの場所に出かけました。駅の改札で待ち合わせでした。

 10分前に着いたのですが、すでに里美さんは姿を現していました。

「おはようございます。今日もよろしくね。それでは、今日はまず私の好きなところでいいかしら?」里美さんが生き生きとした表情で言いました。

「こちらこそよろしくお願いします。それで、好きな場所ってどこでしょう」

「ふふ。図書館よ」

「それはいい考えですね」私は喜んで一も二もなく同意しました。私は小さいころから、大の本虫でしたから。

 私たちは歩いて市立の中央図書館を目指しました。昨日とは打って変わって、花冷えの寒い日です。私はただでさえ寒がりなので、もう桜が咲いているというのに、コートにマフラーという重装でした。里美さんは、昨日と同じような、全身黒尽くめの格好で、今日は紫のストールを羽織っていました。

「黒が好きなんですか?」私は訊きました。

「ええ、それもあるけど、父が見つかるまでは、色物は着ないと願掛けしているの」

「なるほど」

 30分も中央通り沿いを真っ直ぐに歩くと、図書館に着きました。市役所のすぐ隣です。厳かな佇まいの、真っ白な石造りの瀟洒な建物でした。

 今日は平日なのに、朝からたくさんの人が来ています。私たちはまずそろって、本棚の間をブラウジングしました。居心地よく、老若男女が憩っている自由で平等な空間だということがまず伝わってきましたが、今日は新たに、その空間すべてにおいて、日本十進分類法に基づいて、あらゆる本が分野ごとに整然と並べられているというのが、私の一番の驚きの種でした。軽雑誌や文庫本などの気楽な読み物から、重厚な文学全集まで、すべてが10×10×10の分類番号の内部でクラシフィケーションされるというのが、ものすごく合理的で、興味深いと私は思いました。どんな新しい分野でも、古い問題でも、同じように順位付けされる、とても不思議なことではありませんか。図書館は世界のすべてが眠っている、一つの王国なのだと改めて私は思いました。

 それから私たちは、いよいよ今日の目的を果たすべく、OPACで『春』というタイトルの本を検索することにしました。里美さんが言うのでした。

「『春』という本を調べれば、人類にとって、少なくとも日本人にとって、春がどういう意味を持っているかということがわかると思うのよね。今日はそれを調べるのが主な目的よ。きっと春夫がどんな存在かということもわかると思うわ」

 私もその考えに納得し、まず私たちは、検索の基本である、キーワードで調べましたが、すると7000件もヒットし、ノイズが多すぎることが分かりました。それで、私たちは次に「春」という言葉に絞って、完全一致検索をしてみました。それでも、60件ヒットします。

 自然と、島崎藤村から川端康成、有島武郎から岡本かの子、遠藤周作から浅田次郎までの多くの文学者の文学作品がヒットしましたが、他に図鑑や俳句の歳時記、季節の折り紙や織物の本なども混じっていました。そしてその結果、文学において、春が非常に重要なテーマであり、題材であること、そして、生活や教育や娯楽の一部分として日本の文化に深く根付いていることが分かりました。

「全部を片っ端から読んでいたら、それだけで学位論文が書けそうね」これを見た里美さんはそんなことも言いました。

「うん、でも、勉強ではなく、ちょっとだけでも、好きなことを調べてみたいのだけれど」私は提案し、それからお昼までは、私たちは単独行動をとることにしました。

 私が手に取ったのは、まずは広辞苑でした。「春」という言葉の定義を知りたかったのです。そしてその定義は、「①四季の最初の季節、②新春、正月、③勢いの盛んなとき、④青年期、思春期、⑤色情、春情」と5種類ありました。こうしていろいろな意味があることが分かりましたが、大体、若い者やよい物に関係しているという印象がありました。そして、春のつく言葉を考えると、まず「青春」があがります。「春秋に富む」などの故事成語も浮かびます。若くて未来のある、すばらしいときというイメージにぴったりです。その他には「春宵一刻値千金」や「春眠暁を覚えず」、なども思い当たりましたが、これは美しい花々の咲き乱れる、のんびりとした心地よい季節としての春の性格を現していると思いました。その一方で、「春情」、「春画」、「売春」、などといった言葉も思いつきましたが、これらは人間のダークサイドにかかわるテーマだとも思い当たりました。「思春期」などは、これらの中間くらいでしょう。一口に春といってもいい意味一方だけではないようです。

 これで、私の簡単な調べ物は一応終わりましたが、まだまだ知りたいこと、読みたいものはたくさんあります。とりあえず、イメージがつかめたので、出だしとしては順調だと思い、後は自分で体験を重ねて、思考を深めていこうと思ったのでした。きっと、そうすればまた春夫に会えるとなんとなく予感もしました。とりあえず今のところは、春に対してのイメージがつかめ、しかも7:3の割合でよいイメージが勝っているという感想を持ちました。これが私の図書館での成果でした。

それから私は里美さんと再び落ち合って、図書館の外に出ました。里美さんは春と絵の関係について調べたそうです。その中では、ボッティチェリの「春」が一番のお気に入りだったそうです。私はあまりにもかけ離れた世界なので、実感が湧きませんでした。私には、昨日里美さんが描いてくれた春夫の絵のほうが、身近で説得力がありました。でも、それを口にしたら、里美さんが困ったような顔をしたので、それ以上はあえて何も言いませんでした。

「次は何をしましょうか」私は里美さんに尋ねました。

「ちょっと通俗的かもしれないけれど、女の子の特権、買い物はどうかな。ちょっと春の服を見てみたいのよね」

「ええ」私は何かこそばゆいような気持ちになりました。女の子同士で服を見て回るなんて、本当に普通の女の子の友達、あるいは仲のよい姉妹みたいだと思ったのです。

私たちはそれで、再び駅の周辺に戻り、駅前の目抜き通りに立ち並ぶ、デパートをひとつずつ丁寧に回り始めました。どの店もパステルカラーの春物がいっぱいで、目が次々と引き付けられます。私たちはどれにしようかと、散々目を迷わせながら、足が疲れるまで歩き回りました。 

でも、私は途中でなんだか腰が引けてきました。私の柄じゃないと思うからです。いつもの私はジーパンに、あっさりとそのとき目に付いたトップスを押入れの収納ケースから引っ張り出してきて、羽織るだけです。きちんとコーディネイトしたことなどありません。

里美さんはそんな逡巡する私に言いました。春夫が春らしいこざっぱりとした格好をしてきたというなら、その友達である鳩子も、ファッションに気を使うべきだと。

 私ははっきり言って、ファッションに興味もないし、センスに自信があるわけでもありません。そんな自分が服を選ぶことは、何だか冒涜的なことのようにも思えるのでした。ただ、まだ母からもらっていた軍資金がかなり残っていましたし、一緒に歩き回ってくれている里美さんにも悪いとも思いました。そして、次に春に会うことを思えば、そうですね、少しはましな格好をしていたほうがいいかと思い直しました。

「里美さんは、いつもセクシーに決めていますよね」

「そんなことないけど、私の路線は鳩子さんには似合わないと思うわ。今日は鳩子さんの服を買うのが目的だからね」

「ええ、そうなんですか」私はどぎまぎしてしまいました。

「そうよ、どうせ私は無季節のモノクロしか着ないのだから、新しく買っても代わり映えしないのよ。勿体ないでしょう」

 結局、私たちは、2時間くらいかけて、私のために黄色い地にオレンジのすかし模様が入った半袖の薄手のセーターと、白い長袖のVネックのインナー、ベージュのサブリナパンツと白いハイヒールのサンダルを買いました。

「これなら、インナーを変えれば、いろいろ着回しができそうですね」私は頬を上気させながら言いました。

「気に入ってくれたみたいね。よかったわ。この服を着た鳩子さんは、きっととっても素敵よ。鳩子さんは明るい色が似合うと思うし、春だからね」里美さんも満足げでした。

「ええ、そう願います」

 私は喜んで、軍資金の残りを全部はたいたのでした。そして、早速着替えて街中をしめやかに歩き回りました。私にも女の子らしいところが残っていたことを、私自身苦笑しながら、再確認しました。それでも、少々恥ずかしく、気後れも覚えましたが、傍らの里美さんがいつも堂々としているので、私も胸を張って歩くことにしたのでした。そして、風を切ってパンプスで歩くのが、とても気持ちがよいことに気づきました。最初は慣れずに、足が痛かったのですが、すぐに慣れました。春の気分、全開といったところでした。

 歩き回った後には、体がほてり、周囲の寒さもようやく和らいできたようでした。私はコートも脱いで、薄手のセーター一枚で平気になりました。しばらくそれで気持ちよく過ごしましたが、コートなどの手荷物が邪魔でしたし、手も足もちょっと疲れてきたようでした。そして、もう昼を大幅に過ぎていていたので、私はお腹も空いてきていることに気づきました。

「里美さん、そろそろご飯にしない?」

「私、いいところを知っているの。和食でいいかな?」

「ヘルシーでいいと思います」

結局、私たちは近くの里美さん行きつけの和食の店に入りました。そこにはもちろん、いろんなメニューがありましたが、ぎりぎりの時間で人気のレディースランチに間に合いました。それは、公魚の天麩羅に蕗のとうのおひたし、桜の塩漬けを入れた白いおにぎりと竹の子ご飯の茶色いおにぎりのセット、ハマグリの澄まし汁、デザートにイチゴのムースという、春の旬の素材を組み合わせた豪華な定食でした。私たちは二人ともこれを頼み、お腹が空いていたこともあって、春の味覚を思う存分堪能したのでした。

 ここまできて私は、本当に一口に「春」と言っても、いろいろな面があることに驚かされました。自然としての春、抽象的概念としての春、私たちの生活、衣食住に密接なかかわりを持つ春、どれも春の一側面です。私にはこうしたすべてが驚きの種でした。しかも、それがすべて春夫との出会いから始まった発見であることが、何かしら賞賛すべきことに感じられるのでした。春夫がすべてをもたらしてくれたのです。私は今後、より春という季節を新鮮な目で眺め、感慨深く味わうことができるようになりそうでした。私は、春夫に感謝したいと思いました。

 そんな高揚している私は、里美さんに言いました。

「もうこれ以上のいい思いはできなさそうね」

 すると、里美さんは三日月のような切れ長の目を細めながら言いました。

「いいえ、これからよ。腹ごしらえもできたことだし、今日のメインイベントに移りましょう。実はちょうど「春」という美術展をやっているのよね、アマチュアの友達のものだけど。是非鳩子さんに見てもらいたいの」

「ええ、そうなんだ。まだあるのね。嬉しいわ。でも、絵となると、もう里美さんの世界ね」

「いいえ。そんなことないわ。絵を楽しむことは、万人に平等なひとつの権利よ。それに、画力に関しては私はとても今度の出品者たちの足元にも及ばないわ」

「でも、里美さんは美大の院生でしょう?あの春夫の絵だってよかったし、すごいと思うけどなあ」

「まあ、でも、私の専門は一応学問のほうだから。とにかく、まずは見てちょうだい。本物の才能というもののすごさを見せつけてくれるから」

 里美さんは、それから狭い路地裏を縫うようにして、とても小さな画廊に連れて行ってくれました。同じような裏道をくねくねと曲がって、どこがどうなっているかも分からないうちに、私たちは小さな二階建てのレンガ造りの建物の前に立っていました。本当に小さくて赤頭巾でも出てきそうなメルヘンチックな佇まいで、私は中が期待できそうだと思いました。外には小さな看板が立っていました。近所のT女子大の美術部のメンバーによる、「春」という展覧会が開かれているとのことでした。

 中に入ってみると、建物自体がやはり小さくて、作品は12畳くらいの広さの、狭い1階のフロアに展示してありました。見落としやすい場所にあるからでしょう、とても空いていました。しかも、展示されているのは、全部で10枚程度です。本当に手作りの感じの、こじんまりとした、でも、とても夢のある空間で、私は一枚一枚に目が吸い付けられました。

ざっと見渡すと、すべてが油彩の洋画のようでしたが、それぞれに意匠が凝らされており、まったく異なる「春」が演出されていました。まず、緑色を基調とした幾何学模様を組み合わせた抽象画があります。春のイメージを思想的に深めたような雰囲気でした。ほかには、子供たちが満開の桜の下で輪になって踊っている、メルヘンチックな作品や、まるで写真のように本物に忠実なチューリップの静物画もありました。中には、抱擁しあっている恋人同士が空中に浮かんでいる、シャガールを思わせるような幻想的な画や、マグリットの真似をしたような、人の顔の中にぽっかりと青空が広がっている、シュールな絵もありました。

一々説明していたら、いつまでたっても埒が明かないでしょう。ただ一つだけ、どうしても私の脳裏に焼きついて離れない、印象深い絵がありました。これについてだけは述べておきましょう。それは、眠っている若い女の子の絵でした。イメージはクリムトのように豪奢で、青い地にゴールドがふんだんに使われた、エキゾチックな世界でした。中心に浮かぶように横たわっている女の子は眠りながらずっと夢を見ています。そして、世界中のありとあらゆるものを思い浮かべているので、船だの、山だの、鳥だの、猫だの…女の子の周りにあらゆるものが雑然と浮かんでいます。そして、眠れる姫君の寝床は、大きな一つの地球でした。

 私はこれほど無邪気でかわいらしく、しかも壮大なモチーフの絵を見たことがありません。人間の想像力には限界はないのだなと思い知らされました。世界が出てこなければ、本物の芸術ではない、とある作家が言っていましたが、ようやくどういうことか、おぼろげながらイメージが湧いたのでした。

 私は、すっかり気に入って、何度も何度も飽きることなく見つめていました。

「鳩子さんは、「眠れる世界の娘」がすっかり気に入ったようね。鳩子さん自身と重なるからかもね。私はバウハウスが好きだから、抽象画がいいと思ったけれど。でも、それはその絵を描いた人を私が直接知っているからかもしれない」里美さんは私をほほえましく思っている様子で、言いました。

「里美さんは「眠れる世界の娘」の作者も知っている?」私はすぐに訊きました。

「いいえ、残念ながら。でも、噂では、美大に行ってもおかしくないくらいの実力の持ち主で、少々変わった女の子だそうよ。いつも頭が丸刈りで、金色に染めているんだって」

「やっぱりねえ」

 そして、私はその絵の記念に、自分の名前をノートに記帳してから、里美さんと一緒に名残惜しげに外に出ました。それからまた、「春」とは関係ないのですが、いろいろな小画廊に里美さんに連れて行ってもらい、さまざまな個人展というものを見学しました。大きな美術館の特別展示などは、いつもとても込んでいるし、量が多すぎてじっくり眺められないところが苦手でしたが、こうして小さな画廊めぐりというのは、生まれ初めてでしたが、体力的にも金銭的にも楽で、その上、無名の画家を見出す発見の喜びというものがあって、気楽に楽しめます。私はそれで、十分に楽しい時間が過ごせたとして、里美さんにお礼を言いました。

「まあ、まあ。私だって楽しかったもの。それに春夫は見つけられなかったし」

 そこで私ははっきりと言いました。

「春夫に会うことよりも、こうして春に関係することを調べ、春とは何かを考え知ることが大切なのじゃないかと思うのよ」

「ええ、なぜ?会いたくないの?」里美さんが怪訝な表情で言いました。

「そんなことをないけれど、相手のすべてを知りたいから」

「わっ。鳩子さん。それはもう愛の領域だよ。相手はまだ14かそこらのガキなんでしょう?」

「そういう色恋とは関係ないの。彼が私に与えた課題に関係しそうなのよね。何となく外堀から埋めていったほうが、時間はかかるけど、正攻法なんだと思うわ」

「ふうん」里美さんは気のない声で答えました。

その頃はもう、夕方の6時でした。また風が冷たくなってきていました。それでも私たちは、あてどもなく夜の町並みを漂流しました。住宅街の家々からは、夕飯を支度する匂いが漂い始めましたし、駅前の商店街では、すっかり照明がついて、夕飯のために買い物をする主婦と、会社から帰ってくるお父さんたちでごった返していました。

「そろそろ寒くなってきたことだし、一杯どうかしら?」里美さんは落語家のようにお猪口をススッと口に持っていく仕草をしました。

「私はドクターストップで飲めないのだけれど」

「構わないでしょう。私だってそんなにいける口ではないし。ウーロン茶で乾杯しましょうよ」

そして私たちは、ふらっとある居酒屋に入りました。会社帰りのサラリーマンたちが、少しずつ姿を現し始めるころあいになっていました。私たちは、入り口から一番離れた奥のテーブル席に陣取りました。早速、エプロンを締めたバイトの若者がそばによって来ます。

「焼酎のお湯割りに梅干を入れたのをください」まず、里美さんが頼みました。

 私は里美さんの好みが大人っぽいので感心しました。 

「私は、ジンジャーエールを」

 私たちの注文を受けてくれたアルバイトの青年は、黙々とお酒とジュースを運んでき、私たちに「どうぞ」と礼儀正しく出してくれました。私は、青年がジュースであろうとアルコール類であろうとまるで差別をしない態度に真面目さを感じ、好感を持ちました。そして、私たち二人を淑女らしく扱ってくれることに対しても同じような感情を抱きました。

「それじゃ、私たちの出会いを祝い、今後の友情の発展と、春君発見を願って乾杯!」

 カチッとグラスを合わせて、私たちはお互いの目をいたずらっぽく盗み見るようにしながら、お酒とジュースをちびちびと飲み始めました。何だか不思議な感じです。友人と飲むなんて、私にはほぼ生まれて初めての経験でした。

 次第に調子が乗ってきた私たちは、つまみも頼み始めました。私は揚げ出し豆腐とモツ煮とたこ刺しを、里美さんは、チヂミとシーザーサラダとチーズの盛り合わせなどを追加しました。またお腹が減ってきたので、私は一人でパクパクと箸を進め始めました。

 一方の里美さんは、お酒のせいでしょうが、ほとんど食べることも忘れ、自分の将来の夢について熱く語っています。大学の研究者としての研究と画業を両立させたいのだそうです。研究者としては、ルネサンスのイタリア絵画を研究し、画家としては、テンペラ画というものに挑戦したいということですが、それもすべて、その暁にお父さんを見つけて、家族全員で仲良く暮らす目的を果たす通過点なのだそうです。家族での暮らし、それが里美さんにとっての最終的な目的というよりは夢なのでしょう。少なくとも今は、その準備段階にあたるらしいのでした。

 私もお付き合いで、少し自分のことを話しました。まずは友達を作って、社会に出て行きたいと言いました。病気のことも話し、早く良くなって、普通の人と同じように活動できるようになりたいとも言いました。でも、世間の目が怖くて、一生隠して人と付き合っていかなければならないと思うと、すごくストレスを感じるので、みんながみんな、里美さんのような人であってくれたらいいのに、とも。

「でも、鳩子さんはまったく普通の人と変わらないように見えるけどね」

「ありがとう。でも、人に自分の考えていることを読まれてしまうように感じることがあるの。そうすると、脂汗が出てきて、呼吸困難になって、何もできなくなってしまうの」

「そうなんだ。大変なのね」里美さんは急に気の毒そうな顔になって、申し訳なさそうに言いました。 

 そんな私たちの話を、隣の一人で来ている中年男性が、ずっと聞き耳を立てているのに、私は気づき、ふと黙り込みました。

「ん?」里美さんも気づきました。そして、二人で咎めるように、その男性のことを注視しました。すると、男性は顔を赤らめながら、会話に入ってきました。

「実は私もそのように感じることが続いて、今休職中なんです」丁寧な話し方でその男性は言いました。

 私は里美さんと、まだ信じられないとでも言うように、その男性を穴の開くほどじっと見つめました。

「申し訳ない。別に邪魔をするつもりじゃなかったのですが」

 そう言って、その男性はぽつぽつと自分のことを話しはじめました。

 男性の名前は、李朴人さん。日系二世で日本人の女性と結婚したのですが、すぐに離婚してしまって、今では一人で暮らしているそうです。

「韓国系なので、これで結構、厳しい場面もあったんですよ。家庭でも、職場でも」

 私は少し気を許して言いました。

「病気のことなら、今は100人に1人がかかる病気で、いい薬も出てきていますから、大丈夫ですよ」

「それだとありがたいんですが、病気が治っても、解決しない問題はありますからね」

 そのまま私たちは、李さんといろいろな話を交わしました。同じ病気だということで親近感が湧きましたし、さらに社会的な偏見に苦しんでいる人だと思うと、何だか気の毒に思えてくるのでした。そこには私のかすかな優越感も働いていたかもしれませんが、そのときは根っからの正義感で動いているつもりでした。

「差別って怖いですよね。でも、差別する人は無意識のうちにしていることが多いから、なかなか解決しないのかもしれない。だから、もっともっといろんな場で議論して、意識を無理にでも変えていくしかないのかもしれない」私は珍しく意見らしい意見を言いました。周りの雰囲気に流されて、少し高揚していたのかもしれませんでした。

「私も最初、偏見が恐ろしくて、伊藤輝夫という日本人名を名乗っていたのですが、やはりそれでは自分に対する欺瞞だと思い、韓国名に戻したんです。でも、やはりそれからいろいろな問題がおきてしまいました。今ではこのざまです」

「でも、李さんは一人でこんなところに来られるぐらいなのだから、軽症なんでしょう」里美さんがフォローするように言いました。

「ええ。まあ、それはそうなんですが、朝・昼はずっと寝ていて、夕方になるとおきてくるという感じですね」

「それ、私も分かる!」私は思わず叫んでいました。「でも、私は社会復帰の夢をあきらめてはいないの。母もそれを望んでいるし。そして、きっと春夫も」

 そして、私は李さんにも春夫のことを話しました。

 李さんは言いました。

「きっとあなたはもう、寛解に近づいているんですよ。その証拠でしょう」

「でも、妄想だといって、信じてくれない人もいるの」

「まあ、どう考えるかは、個人の自由だと思いますが、私だったらいいほうに考えます」

「ありがとう。きっとあなたのところにもそのうち、春がやってくるわよ」

「それじゃ、みんなによい春が訪れるように乾杯しましょう。乾杯!」里美さんが音頭を取って、私たちはまた乾杯しました。

 こうして、3人は夜更けまで話しこみ、意気投合して別れました。李さんがどこに住んでいるかは分かりませんし、この次にまた会えるかどうかも分かりませんが、李さんの調子が戻ることを、私は心から望み、李さんが再び世間を渡っていけるようになることを祈りました。

 私は家に帰って一人になり、いろいろと今日一日のことを考え直しました。まず、図書館で春について調べて、春のイメージをつかめたこと、春の服を買って、着て町を颯爽と歩いたこと、春の展覧会ですばらしい絵にめぐり合ったこと、李さんと出会ったこと…ずいぶんと中身の濃い一日だったなと思いました。まず、友達ができて、普通の女の子のように過ごせたことが、嬉しかったですし、春というのがいろいろな側面を持つことに気づいたことが収穫でしたし、また李さんという特別な立場の人と知り合いになり、話せたことは、よい社会勉強になりました。特に、李さんに関しては、社会にはいろいろな人間がいることを教えられ、みんながみんな仲間になれるとは限らないことが、楽観的だった私の意識を変えました。それでも、と私は思いました。人間には必ずどこかにいいところはある、信じる気持ちを失ってはいけない、それが春夫の言いたかったことではないか、と思ったのです。ポポポの鳩子は、やはり気楽にやっていこうと思い直したのでした。

 今日も私にとっては、貴重な一歩を踏み出した日でありました。私は布団からちょうど見上げる位置にある里美さんの絵を再び眺めながら、そう思い、満足して安らかな眠りにつきました。


*第三日*

 私はまた夢を見ていました。今度は、私はなぜか李さんの娘になっていて、学校で散々いじめられているのでした。机やロッカーに落書きをされたり、頭から水をかぶせられたり、卵を投げつけられたり、弁当箱を落とされて、踏み潰されたり、髪の毛をつかまれたり、制服をハサミで切られたり…とにかく、周りのみんなが私のことを糾弾し、二度と出てくるな、死ねといっているように思いました。私はつらくて涙を流し、自殺を考えました。でも、本気ではありませんでした。なので、道路に飛び出してみたり、ナイフでリストカットを試みたり、いろいろしましたが、結局死ぬことはどうしてもできませんでした。私は涙を流すことすらできず、ただ辛くて、一人で苦しんでいました。ご飯がのどを通らず、眠ることもできませんでした。私はだんだんやせ細っていきました。そして、病気の再発です。私は長い間、病院に押し込められていました。やっと外に出られたとき、少し大きな春夫が現れて言いました。私はもう人間界に住む必要はない、僕と一緒においで、と。そして私は春夫と結婚しました。それから子供が生まれて、春樹と名づけました。私たち三人はしばらく仲良く暮らしました。しかし、春夫はやがてどこかへ行ってしまいました。私は寂しくてたまらず、春樹を置いて、春夫を探す旅に出ました。しかし、いつまでたっても見つかりません。ある神社について、神様にお願いをしたとき、突然李さんが現れました。「鍵が必要なんですよ。あなたの心を開く鍵がね」

 そこで私ははっと目を覚ましました。まだ、春夫を探す旅の感覚が残っています。でも、私は思い出したのです。首に銀の鎖でかけている鍵のことを。あれはいったい何なのでしょう。それを解かなければ、また春夫に会うことはできないに違いない、そう理解したのでした。

 確かに何の鍵だか分かりませんが、きっと手がかりがあるはずです。私は一生懸命考えました。私の心を開く鍵…そういう夢の中の台詞が、どこか謎めいていて、それでいて手がかりになりそうで、私は何度もつぶやきました。鍵穴のないものを開ける鍵…という春夫自身の言葉も思い出しました。ならば、この鍵は鍵であって鍵でないものなのかもしれません。もっと抽象的な、あるいはもっと象徴的な何かなのかもしれません。

 でも、と私は考えました。鍵は鍵なのです。開けるものがなければ鍵じゃない。きっと私の思考を混乱させるために設けられた罠なのだ、と私の現実的な理性は言っていました。

 結局、私は訳が分からなくなって、諦めました。外ではまた心地よい春風が吹いています。いい日和でした。私はいつの間にか眠っていました。

 しかし、私は突然の音に目を覚まされました。ホワンホワンとまたドアベルが鳴っています。

「はい」私は大慌てで、パジャマの上にガウンをまとい、玄関に出てゆきました。

「どちらさまですか?」

「隣に越してきた、鈴木というものです。ご挨拶に上がりました」

「はい」私はすぐにドアを開きました。すると、40代後半くらいのすっきりした顔立ちの、しかもスタイルの大変よい女性が立っていました。

「いろいろとご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、どうかよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」私は恐縮して、頭を深々と下げました。 

「息子が一人いるのですが、父親はいないので、どうかその辺をご理解いただけると助かります」

「そうなんですか」私は、いきなりの大胆な告白に驚きましたが、すぐに言いました。

「私でできることであれば、何でもおっしゃってください」

「はい、ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」

 そう言って、鈴木聖子さんはお菓子の折り詰めを置いていってくれました。後で中をあけてみると、中には煎餅と金平糖が入っていました。私はおとといやってきた春夫に金平糖を出したことを思い出しました。偶然の一致というものはあるのだなあ、と私は感心しました。

 あのとき、春夫はとても金平糖が気に入っていたようでした。私も試しに一袋あけて口に入れてみました。ころころ転がりながら、口の中でプチンプチンとはじけていきました。本当にシャクシャクした食感です。私は一袋全部をあっという間に食べてしまいました。ついでにお煎餅の袋も開けしまって、栄養バランスの悪いブランチになりました。私はひどく後悔しました。いくらなんでも食べすぎです。やっぱり所詮私はポポポの鳩子でした。

 そのときです。突然、電話のベルが鳴りはじめました。黒電話がジリジリ振動しています。

「はい、もしもし」私が出ると、それは久しぶりの母からの電話でした。

「鳩子、元気にしてる?」

「ええ、一応は」

「それならいいんだけど、もうそろそろって言っていたでしょう」

「何が?」

「もうそろそろ社会に復帰して、そして永久就職の口も考えなければいけないころよ」

「お母さん、私は病気だよ。結婚なんて無理だよ」

「そんなこと分からないでしょう。お母さんは諦めていないし、いいお話をいただいたのよ」

 そう言って、母は嬉しそうに縁談の話をし始めましたが、私はうんともすんとも言わずに、息を潜めていました。  

 最後に母は諦めたように言いました。

「別に今すぐとは言っていないの。でも、心構えだけは忘れないでね」

 そう言って、電話は切れました。

 私は呆然としました。まだ、社会復帰も満足にできていないのに、結婚だなんて、と。私は男の人が怖くて苦手なのに、どうするんだろう、と空恐ろしい気持ちになったのでした。それに、結婚というのはどうも恥ずかしいことだ、としか思えないのです。子供と遊ぶのは好きですが、産んで育てるとなると話は別です。

 私は早速、お昼に喫茶店で待ち合わせした里美さんに相談してみました。

「まあ焦ることはないわよ。とにかくまずは社会復帰しなくちゃね」

「やっぱりそうでしょう」私は安心しました。

「そうよ、そりゃそうよ。私だってまだ学生だし、結婚なんて現実としては考えられないもの」

「里美さんもなの?」

「そうよ。そして、たくさんの女の子たちが毎日それで迷っていると思うわ」

「ええ」

「だから、気にしないの。お母さんは少しほっておくといいわ」

「そんなものかしら」

「そうよ。それよりもっとやるべきことがあるでしょう」

「なあに?」里美さんのまじめな顔つきに、私はきょとんとして言いました。

「私は今日のために一生懸命考えてきたのだけれど、今日は社会復帰の第一歩を踏み出す日なのよ。私たちは今日、ボランティアをすることにします」里美さんが高らかに宣言をしました。

「ボランティア?」私は改めて怪訝な顔をしました。

「そう、ボランティア。あなたにはまだ就職は無理だし、かと言って遊んでいるわけにも行かないし。お母様もそれを望んでいらっしゃるでしょう」

「ボランティアねえ。私の場合、むしろ私のためにボランティアに来てもらいたいくらいなのにねえ。一体、どこで何をするの?」

「I公園よ。汚いでしょう、今お花見のシーズンで。だから、そこのごみの片付けと分別をやってみようかなあと思うのだけれど」

「なるほどねえ。ごみ掃除か。確かに大事な仕事ではあるなあ」

 私もそのプランに同意したところで、私たちは再びI公園に向かい、放置されているごみをごみ集積所に運び、ごみを分別する作業に取り掛かりました。

 ごみはブルーシートを広げて、飲み食いと歓談に耽っている、公園中のさんざめく老若男女の周囲のいたるところに山積みされていました。誰も後片付けを始める様子を見せないので、私たちはそれぞれその人たちのところへ行っては、わざわざ頼んでごみをもらってきました。

「すみません。私たち、今日一日ごみ掃除のボランティアを引き受けたものです。どうか、ご協力お願いします」

 私が真っ赤な顔の中年女性の集団に声をかけて回ると、

「あれあれ、悪いねえ。奇特な人もいるのねえ。どうぞ、どうぞ、どんどん持っていってちょうだい。私たちも大助かりだわ。終わったら、あんたたちも一緒に飲んでいってもいいよ。お姉さんたちも花見のときくらい楽しまなくっちゃ」などと、自分たちの中に引き込んでしまおうとする、ノリのいいおばさんもいました。

 私は丁重にお酒の申し出のほうはお断りして、ゴミ袋だけもらってきました。ごみは一番大きなポリ袋に満杯に詰め込んだものが、一団体につき、3袋はありました。 

私と里美さんは、一人につき、20団体ずつは引き取ってきました。私たちの引き受けたごみだけで、ひとつのごみ集積所がいっぱいになるくらいでした。

 私たちはごみの山を前にして、いよいよ分別の作業に取り掛かりました。集めてきた袋の一つ一つの中身を開いて、ざっと内容によって分けました。お茶やジュースのペットボトルと缶ビールの缶と、日本酒の一升瓶、カップ、飲み食いした紙コップと紙皿が多かったですが、それと、膨大な量の食べ残しも決して無視できない量がありました。そして、それらは汚いこと極まりない物ばかりでした。ですので、私はジーパンにTシャツというラフな格好でしたが、べたべたに汚れてしまいました。単に可燃と不燃、リサイクル可能品の分別だけではすまなかったのでした。

 すぐに夕方になってしまいました。作業を始めてからすでに4時間、私たちはくたくたでした。確かに善行をしているという満足感がありましたし、いろいろな人と話したり、さまざまな人を眺めたりするよい機会となったので、達成感はありました。でも、誰も感謝の行為はしてくれませんし、反省するそぶりもありません。お金だってもらえないのです。私はそんな中で、段々自分で自分に疲れてきました。そんな私をさらにいらいらさせたことに、私たちがごみの山を解体している途中で、ごみを漁りに来たホームレスのおじさんがいました。私は目ざとく見つけ、追い払おうとしました。邪魔になると思ったからです。普段から特に嫌っていたわけではありませんが、そのときは必死でした。 

 ところがです。一目そのおじさんの顔を見た里美さんが立ちすくんでしまいました。私が何事がおきたのだろうと思って見つめていると、里美さんはそのおじさんに向かって、はっきりと声を発しました。

「おじさん名前は?」

 おじさんはびくびくした表情で答えます。「三浦仙蔵です」

 里美さんは大きく息を吐いて、言いました。「やっぱりね」

「お嬢さん、どうされたんですか」「どうしたの、里美さん」私とおじさんは異口同音に言いました。

 里美さんはキッとおじさんを睨んで言いました。「忘れたの、娘の顔を。私は里美です。今は母親の旧姓を名乗っているけれども。10年以上経ったからって、忘れるなんてひどいわ」

 おじさんはあんぐりと口を開けました。

「あんたのようにきれいなお嬢さんがわしの娘?信じられんよ。でも、確かに里美という名前の娘がいたし、年のころもお嬢さんに近い。でも、それだけでわしの娘であると確信できるわけではないなあ」

「疑り深いわね。いいわ。あなたは1955年9月3日に九州の大分で生まれて、秋田で育ち、大学入学以降はずっと東京にいるの。小さな町工場の持ち主になるまで成功し、箱崎真理と結婚して一女をもうけたけど、不景気の折に工場が倒産すると、逃げ出して、それ以来音信不通になったの。要するに日本一だめな父親よ。どう、これで分かった?」

 仙蔵さんはわなわなと震えて、その場に崩れ落ちました。そして土下座して里美さんに謝りました。

「わ、悪かった。わし一人だけ逃げ出して、ほっぽりだしてしまって。でも、わしには無理だったんだ。そもそもアル中のわしには、立派な父親になれる資格も力もなかったんだ。それにあのころはサラ金に追い回されて、いっしょにいれば、余計に迷惑をかけると思ったということもあった。本当にすまなかった」

 里美さんはそんな父親に対して、ため息をつきながら、言いました。

「あなたのやったことはちょっとやそっとでは許せないことだけれど、あなたがたった一人の私のお父さんである事実には変わりないの。私は今までのすべてを水に流すつもりよ。だからこれからは私とお母さんのところに戻ってきて、まともな暮らしを始めて。仕事なんかは何でもいいから、一緒に平和に楽しく、そしてまともに暮らすのよ。お願いだから一緒に来てね」

「わしのことを許してくれるのか?しかもこんな惨めな状態にあるのに」仙蔵さんは面目ないといった口ぶりで、顔を落としたまま言いました。

「そういうことには私はあまり関心がないの。ただ、父親としての責務を果たしてこなかったというのが許しがたいだけ。どんなに貧乏だってかまわないんだから。それにこれからは私がバリバリ稼ぐつもりだから、経済的なことは気にしないで。家族3人で仲良く生活する、私はたったそれだけのために、今まで必死で頑張ってきたんだから、そうしましょうよ。それが私の夢なのよ、お父さん」

 そう言って、なおも地面に額を擦り付けている仙蔵さんを、里美さんは優しく両手で引っ張りあげて、立たせました。のろのろと立ち上がった仙蔵さんは、なんだか恥ずかしげでしたが、それでも嬉しそうにフルフルと鼻を震わせ、目に涙を貯めていました。

「里美、おまえみたいな気立てがよくて、しかも美人な子がわしの娘で本当に誇りに思うよ」

「何言ってるの。私は結構厳しいのよ。お父さんが本当に父親らしくなるまでは、決して目を離さないから」

「やれやれ。どうなることやら」

 こうして里美さんはひょんなところで、長年の夢をかなえてしまったのでした。そして、とりあえずお母さんのところへお父さんを連れて行かなければならないと言いました。

「またいつか、一緒に春君を探しましょう。それじゃあ、申し訳ないけれど、今日は先に帰るわね」

「分かったわ」

 そこへ仙蔵さんが割って入りました。

「あなたが里美のお友達?あなたも春を探しているんだね。前は私のところにも春からの使者は来ていたよ。何かヒントを残していっただろう」

「ええ。この鍵を」そう言って私は、首にかけている鍵を彼に見せました。

「これは金庫の鍵だな」一目見て、仙蔵さんは言いました。「わしの工場が鍵のメーカーだったんだから間違いはない」

「でも、どこにそんな金庫があるんですか?」

「君の春夫はどこから来たか言ってなかったかい?」

「あっ。そう言えば」

「じゃあ、そこから手がかりが得られるはずだよ。うまくいくといいね。ぜひ頑張ってください」

「ありがとう、里美さんのお父さん。里美さん、いいお父さんよ、本当に。大事にしてあげてね」

「分かってる。ありがとう鳩子さん」

「ポポポの鳩子よ。忘れないでね」

「ええ。さようなら」

「さようなら」

 去っていく二人の姿を見送りながら、わたしはふとまた自分が独りになってしまったことに気づきました。寒い風が吹いてきて、桜と私の心の両方を散らしていきました。

 でも、今の私は思ったほど気落ちしませんでした。体は遠く離れても、気持ちはつながっていると思えるようになっていたからです。それともう一つ、仙蔵さんのヒントからひらめいたことがあったのです。

 そう、春夫は郵便局に勤めていると言っていたのです。ならば郵便局に行けば会えるのじゃないかと思い当たりました。ふと考えれば、なぜそれに早く気づかなかったのかが、おかしいほどです。私は里美さんと一緒に、ずいぶん回り道をしてきたのでした。それが分かって自分でも笑ってしまいました。

 でも、笑っているどころではありません。春夫はすぐにいなくなってしまうかもしれないからです。 

 それで私は早速実行に移しました。自分の家の一番近くの、いつも配達をしてくれている小さな郵便局まで一気に坂を上っていきました。その上に雲がぽっかり浮かんでいる気分でした。

 「OX郵便局」という緑色の看板が遠くからでもよく見えるようになりました。普段からよく利用する郵便局でしたが、そんな不思議なことが内部で起きていたとは、私はちっとも考え付きませんでした。私はハーハー言いながらも、期待でいっぱいになっていました。

 やっとたどりつきました。息も切れ切れでしたが、私は早速「すみません」と窓口の人に尋ねました。

「この鍵は、お宅の金庫の鍵ではないですか。それと、春夫さんという人がここに勤めていませんか?」

 窓口のおばさんはにっこりしながら答えてくれました。

「お待ち申し上げていましたよ、町田鳩子さん。鈴木春夫君は昨日付けでここを辞めていきましたが、あなたに見せたいものを奥の金庫に置いていきました。どうかご自由に持ち帰ってお読みください」

「読むって、読み物なんですか?」

「まあ、それはお楽しみでしょうから、ご自分の目でお確かめになったほうがいいでしょう」

 そして私は、窓口の人に特別に奥の小さな金庫室に連れて行ってもらいました。そこにあったのは、古めかしい、昔ながらの、鍵を差し込むタイプの黒いスチール製の金庫でした。

 いったい、春夫はこの中に何を隠しておいたのでしょうか?

 鍵はぴったりで、カチャリと回すと、すぐに扉が開きました。そしてその中に入っていたのは、1000枚はあろうほどのA4の資料の束でした。

「何だろう」と思って1枚目をのぞくとこう書いてありました。

「鳩子、よくここまでたどり着いたね。これは僕からのプレゼント。これはこの町の人たちの夢をこの郵便局のFAXが毎晩受信して、ためていったものなんだ。だから、これを読めば、世の中にどんな人たちがいるのかということが分かると思うよ。だから、これを全部読んでみてほしいんだ。きっとそれを終えれば、何らかの形で君は僕と出会えると思うよ 鈴木春夫」

 私はこれを読んで、この書類すべてをその場で読むのは不可能と判断し、家に持って帰って読むことにしました。窓口の人に頑丈な袋をもらい、すべての書類を入れて、ヨッコイショ、と家まで徒歩で運び込んだのでした。

 それから私はすぐに春夫のプレゼントであるFAX受信紙の束を読みはじめ、一晩を徹夜することになったのでした。


「1番 春山菫 9歳:ママとパパはいつもケンカばかり。それもスミレがいい子じゃないせいでケンカになっちゃう。リコンしちゃうかもしれないって、とっても心配なんだ。もっといい子になるから、ママとパパをなかなおりさせてください」

「2番 園田文雄 12歳:僕は大きくなったら総理大臣になりたいです。そして、今までの誰よりもすごく立派な首相になります。みんなが楽しく暮らせるような日本を作りたいです」

「3番 藤田美穂 17歳:私の夢は作家になることです。でも、どうしたらなれるのか分かりません。毎日本を読んで、日記を書いてから寝ています。自分ではうまいつもりだけれど客観的に見たら、ぜんぜん分からない。どうしたらいいんでしょう。もっと話がうまく書けるような力を私に授けてください。みんなに夢を見せて、疲れた心を癒してあげられるような、心温まる作品を書けるようになりたいです」

                  ・・・

                  (中略)

                  ・・・

「23番 岸川フジコ 82歳:おじいちゃんもとうとうあっちに行ってしまったし、残された私は心も体も痛いところだらけで、長く生きていてもねえ。どうか、ぽっくりと苦しまずにあの世にいけますように」

                  ・・・   

「57番 茂木清 46歳:俺は今まで独身貴族を気取ってスマートに暮らしてきたつもりだ

ったが、この年になって一緒に暮らす暖かい家族がいないなんて、なんて惨めなんだ。倒れてみて始めて分かった。既婚者の子連れでもいいから、女房と子供がほしい。温かい家庭を作りたい」

                  ・・・           

「102番 沢原香苗 33歳:子育てが忙しくて、自分の好きなことが何もできない。旦那はちっとも手伝ってくれないし。それと、周りに気の合う友人がいない。みんな子供のことしか話さないし。私はもっと知的な会話ができる、面白い友達がほしい。そして、もう一度自分の夢を見つけたい」

                  ・・・   

「167番 金子巧 26歳:俺は空気を読むのが下手な人間だし、上司には睨まれている上に、同期からも浮いている。一生このままこの職場で働き続けなければならないと考えると、心がすくむ。どこかもっと過ごしやすい場所に異動になりたい。それか転職でもしたい。じゃなきゃ、この性格をどうにかしてほしい」

                  ・・・   

「242番 華丸カエデ 37歳:私はずっと好きな絵の道を進んできた。そのことに後悔はないけれど、残念ながら犠牲にしてきたことも多い。少なくとも今後一人でずっと立っていくのは、今更だけど、淋しくて辛くなってきた。どうか人生の最後を一人で迎えることになりませんように」

                  ・・・

「287番 成田勝 18歳:僕はずっと世界的なバイオリニストになるために努力してきた。来年からはヨーロッパに留学も決まっている。僕の力は通用するだろうか。それと、僕は本当のこの道でいいのだろうか。世間一般の暮らしというものもしてみたいのだが、でも今は、学校でいい成績をとって、コンテストで優勝すること、それだけが望みだ」

                  ・・・

「296番 竹沢育子 42歳:身も心もすっかりふけてしまった。あのぴちぴちと張り切った私の体はどこへ行ってしまったの?若い肉体を取り戻して、またもう一度青春を味わいたい。とにかく若い恋人を見つけて、この忌々しい暮らしから抜け出したい。何かきっかけはないかしら」

                 ・・・     

「333番 高野真澄 21歳:やっぱりマー君は行ってしまった。ずっと一緒にいようとは最後まで言ってくれなかった。私は一人になってしまった。誰か今の私を慰めてくれる人はいないかな。いや、マー君が戻ってきてくれるなら、一目でもいいから私は会いたいよ。涙がこぼれてきちゃう。私ってやっぱり女の子なんだな」

                 ・・・

「406番 宮原譲 14歳:僕はどうしてこの世に戦争があるんだろうと思う。僕のお父さんは、カメラマンで戦争をしている地域で仕事をしていたときに、巻き込まれて死んでしまった。だから僕は世界のすべての地域が平和になることをいつも祈っている。神様にもいてほしいし、僕は人間がみんな本当はいい人なんだと信じたい。そして、みんなで仲良く暮らそうよ」

                 ・・・ 

「411番 中野千恵 16歳:世の中にはどうして私みたいに不幸な人間がいるんだろう。せっかく志望校に受かって、高校生活をエンジョイしていたのに、今更病気だなんて。私の体はまだこんなによく動くのに、あと1年しか持たないんだって。ひどいよ、神さま。どうしてなんだろう。でも、私は諦めないよ。それだけは絶対いやだ。私はがんばり続けるよ。それがお父さんやお母さんや、お姉ちゃんとの約束だし、自分で決めたことなんだ」

                 ・・・

「442番 原卓也 28歳:俺は誰からも後ろ指差されることのないエリート証券マンだ。学校だって一流を出ているし、身長も高い。完璧なんだ。だから、これからはもっと上を目指すし、金を手に入れて、俺にふさわしいゴージャスな女を好きなだけチョイスする。それが俺を残酷にも裏切ったあの女への、唯一の報復手段だ。でも、俺って人間が小さいな。それで捨てられたのかも」

                 ・・・

「478番 高峰修二 56歳:私は私の汗と涙の結晶である学問を大成させたい。私が30年をかけて練り上げてきた大思想を世に問うて、その真価を広く知らしめたい。私は別に名誉がほしいわけではない。だが、何かをこの世に残したいと思った。学芸は長く、人生は短い。私の学問が世に長く残るように」

                 ・・・ 

「566番 江岸透 17歳:俺はずっと歌手になりたかった。歌がうまくなれるなら、死んでもいいと思っていた。でも今は、あいつと、俺の唯一の相棒であるあいつと芸人になって、世間に一泡吹かせたいと思っている。ピラピラちゃらちゃら格好をつけるより、すべてをかなぐり捨てて、土下座をしてでも笑ってもらえる腰の低い男になりたいのよ、俺は。でもそれで、俺たちの漫才の勢いにみんながぶっ飛ばされてくれたら、本望かな。コントはあまりやりたくないな」

                 ・・・

「598番 山際泰司 31歳:僕は独身で、女の子とはつきあったこともない、ただのオタクだけど、そんな自分からいつまでも抜け出せない。誰かどこかにこんな僕でも許してくれる、かわいくてやさしい女の子がいないかな。でも、オタクとしての僕にもプライドがあるし。高給取りになって、好きなものを好きなだけ買えるようになりたい。そしたら、ほしいものも女の子もどちらも手に入れられるかも」

                 ・・・

「636番 牧田園子 102歳:私ももうそろそろ天国に召されるときです。私は修道女として長い間、神に仕えてきました。今ようやく解放されようとしています。私は天国ですでに亡くなった人たちと一緒に楽しく平和に過ごすことができるでしょう。私はとても落ち着いていて、幸福です。世の中のすべての人がそうでありますように。皆さんありがとう」

                 ・・・

「775番 君島さやか 23歳:このごろの私はおかしい。烈くんとのエッチがなければ夜も眠れないようになっている。私はもともとエッチなんて大嫌いだったのに。なのに、なんか熱っぽくて、体が重くて、どうしてもそういう思いから逃れられない。どうか一刻も早く、この恐ろしい状態から抜け出せますように。昔の自分に戻れますように」

                 ・・・

「867番 浜中浩一 19歳:艶子さんとの一夜のすばらしかったこと。俺は初めてのことを一生忘れない。俺にとっての唯一永遠のセニョリータがいつまでも幸せでいられますように。結婚が不幸な足かせとなりませんように。俺のことを覚えていてくれますように」

                 ・・・

「889番 緑川里香 34歳:あの子がわきまえてくれますように。私が結婚していること、離婚するつもりがないことを理解してくれますように。そして、私のことをいつまでも覚えていてくれますように。私はある意味では君を愛していたのだから。かわいい坊や。でも、私の由香よりかわいい存在は他にいないということも分かってね。私って勝手ね。ごめんなさい」

                 ・・・

「921番 黒板三郎 63歳:俺は父親としては30点くらいかもしれない。でも、心から娘二人と息子の行く末を案じている。みなそれぞれの道を満足して暮らしていけるように。俺はもう誰にも迷惑をかけたくない。死んだ母さんだって、一人で先に行ったんだ。俺も早く後を追いかけたい。葬式なんていらないから、仲良くやっていってくれ。それだけが気がかりだ」

                 ・・・

「945番 真中裕也 59歳:いよいよ俺も定年か。これからは好きなことだけをして生きていきたい。俺にはやりたいことがいっぱいある。そしてうまい酒が飲めれば言うことはない。俺は自分の人生に満足している。あと少し楽しんで暮らしたいな」

                 ・・・

「962番 衣笠幸代 55歳:お父さんは今まで十分に働いてくれました。もう十分です。自分のやりたいことをやりながら、家族の下に戻ってきてください。私はお父さんと旅に出かけたり、孫の面倒を見たり、二人の時間を大切にすごしたいわ。残り少ない人生を無駄にしないように」

                 ・・・

「983番 高木春江 34歳:もう人生半分は過ぎたかな。まだ半分もあるっていうのか、

もう半分っていうのか、分からないけれど、もう昔とは違うなと思う。今まではただ楽しければよかったけれど、これからは一つずつ目標を立てながら丁寧に生きていこう。人生の終着地点についたとき、自分は何もしなかったと後悔はしたくないから。何かを成し遂げたいなあ、私はこのまま終わりたくないよ」

                 ・・・

「994番 川瀬恭太郎 21歳:俺はまだ若い。何でもやれる。俺は才能も努力と熱意も十分だ。でも、何が一番向いてるかが分からない。可能性がありすぎて、何を選べばいいのかわからないんだ。だからいろいろ試してみたいが、金がないので簡単ではない。でも、今の俺にはたっぷりと時間がある。俺はきっと何かの世界で大物になって、故郷の母ちゃんやばあちゃんや妹のやつを喜ばせてやりたい。そのためにわざわざ上京したんだ。俺はただの三無主義者でもモラトリアム人間でもないぞ」

「995番 北条静子 43歳:あの子も大きくなった。きっと立派になって、私に老後は楽な思いをさせてくれるだろう。でも、これからがあたしの人生よ。まだまだ捨てたもんじゃない。私はまだ諦めていない。生涯現役のつもり。だからこれからが楽しみなの。何だってできるんだから。人生は諦めない限りいつでも青春。ヘッセがそう言っていたから、私も実践します。あの子に負けていられないわ。これから私はヒップホップでも歌って踊って、若者にも負けないバイタリティーがあることを証明して見せるわ」

「996番 永野正次郎 92歳:わしはまだまだ少なくとも100歳までは頑張るぞ。いや、本当は永遠に生きているつもりなんだがな。恋愛だって進行中だしな。フジコサンみたいなきれいな人と一緒にいれば、寿命が延びる気がするのは確かだ。何事も楽しんで。それがわしの今のところの極意だな。酒もうまいし、飯もうまい。何にもとらわれないから、わしは本当に遊戯三昧じゃ。毎日が楽しくてしょうがない。ただひとつ、ばあさんが先に死んだことだけが悔やまれる。いい女房だったよ。わしも天国であいつにいい亭主だった言われたいな。それだけが今の望みかな」

                 ・・・

「999番 森田武志 21歳:俺は天才だといわれ続けてきたけれど、ただ単に滑るのが楽しかったということと、俺が期待に応えると、みんなが手放しに喜んでくれるのが嬉しかったということで、何も考えずに滑ってきた。でも、今の俺は何で滑らなくてはいけないのかが分からなくなってきている。ただひたすら上を目指すよりも、誰かを愛して愛される居場所を見つけるほうが本当の俺には合っているんじゃないかなと思う。どこかに運命の人はいないだろうか?」


 こうした風に、この書類の束には、いろいろな人のさまざまな思いが綿々と綴られているのでした。中にはとても口にはできないうす汚れた願いや夢もあったし、無邪気な子供の夢や希望も、バリバリ働いてひたすら上を目指す熱血の若者世代、子育ても経済の苦労もひと段落ついた落ち着いた中年世代、人生を悟っている枯れた老年世代のそれぞれに深い願望もあったし、いろいろでした。私は決して飽きることがなく読みふけっていました。それは下手な小説より、よっぽど面白い読み物だったのです。 

 でも、さすがに600番を越えたころから、読むスピードが落ちてきました。疲れてきたのです。あと一息、と思いながら、なかなか前に進まない、そんな時間も続きました。そして、ようやく最後を迎えたころには、朝日が差してくるころあいになっていました。でも、私は最後に、思っても見なかったことに、その束の中に私自身の名前を発見していました。思わず胸が高鳴りました。


「1000番 25歳 町田鳩子:私は私でいたい。でも私ではいたくない。自分自身から逃げたい一方で、自分を一番愛している自分がいる。早く死んで虚無に入りたいと思う一方で、永遠に不滅でいたいとも思う。魂のことを考えると、いまだに真実とは何か分からなくなってくる。こんな矛盾した、抽象的なことばかり考えるから、私はいつでも孤独で、哀しいのだろうか。誰かに溺れてしまいたい。誰か私を理解してくれる人に。理解してくれない人に。私は今の自分を脱皮したい。今の自分を解脱したい。今は長い冬の時代。ああ、早く春が来ないかしら。無邪気な少年のような、汚れひとつないすばらしい春が」


 私の願いは混沌としていました。まだ形になる以前の段階でした。それだけ私という人間は、自分自身の意思や感情に形をもたらす訓練を怠ってきたのでしょう。もっと他に何かあるはずなのに、と思うのが当然でした。要するに、自分で自分が何を言いたいのかがさっぱり分からないのです。私自身の内部のカオスがそのまま露呈しているだけなのでした。だから私は、そんな混沌とした自分の姿を見極める鏡として、誰かほかに親密な存在を必要としているのではないか、という考えも念頭に浮かびました。それが春夫だったりして…私は思わずにっこりしていました。あのさわやかな少年のことをまた思い出したからです。これを読んだからにはまた会えるはず。私は期待に胸が膨らみました。

 でも、私は最後まで読んで力尽きていました。もう明け方の太陽が姿を現し始めていました。私は自分自身が未完成なことを発見しましたが、とにかくこの束の最後にたどり着けたことで気が抜けて、そのままバタッと倒れ、死んだように眠りに入ってしまいました。今日はまったく夢さえ見ませんでした。


*第四日*

「鳩子さん、鳩子さん、起きてよ、起きて」

 ドンドンと玄関の扉をたたく音がして、私は目を覚ましました。

 一体誰でしょう?私は眠い目をこすり、こすり、這い上がりました。ふと時計を見ると、昼の12時でした。

 寝坊したな、と私は慌てました。でも、次の瞬間、今日は誰とも約束していないことを思い出しました。里美さんはお父さんとの新しい生活で忙しくて、当分会えなさそうでしたから。それで、気が抜けた格好で玄関に向かって叫びました。

「はーい、今開けますよー」

 そして、ドアを開けると、春夫が立っていました。少し大きくなっていました。

「鳩子さん。僕が隣に引っ越してきた鈴木春夫です。これからよろしく」

「は?」

 春夫はけろっとして立っています。同一人物に見えるのですが、やっぱりどこかが違っています。

 私は言いました。

「おかえり、春夫。私のところにもとうとう本物の春がやって来たんだね」


 筆者はここで録音を解除した。

筆:それで後はどうなされたんです?

鳩:それからですか?ふふ。それは秘密です。春夫がやってきて、180度暮らしが変わったとだけ言っておきましょう。


 それからは今までの語り手のサービス精神はすっかりなりを潜めてしまったらしく、筆者もそれ以上のことを聞き出せなかった。ただ、あとからほかの人間に聞いたところによると、町田鳩子はすっかり社会復帰し、今は図書館司書として、第一線で活躍しているとのことである。そして、その傍らには、若い恋人の影がいつも付き添っているとのことだった。


 「春の訪れ」、それは誰にも起こりうる、いや、万人に平等に訪れる、年に一度の特別な行事。鳩子はここで春を見つけ、友を見つけ、自分を見つけた。風と共にそれはやってきた。まるでどこかそこらに生えている名もない草花、砕け散った石ころのように、何気ない顔をして。それはまるで奇跡はいつも普通の平凡な格好をしてやってくるということを伝えようとするかのように。

 そして、それとともに大きな喜びと幸せが後から後から押しよせてきた。喜びよ、こんにちは。悲しみよ、さようなら。違う。悲しみが喜びの源となる。悲しみが降り積もって喜びとなる。悲しみと喜びは表裏一体だ。悲しみと喜びはここで友になった。

 悲しみも喜びも、この物語においてはすべての出発点に「春」がいた。春は主人公の顔をして、大きな顔をして、するっと隣に入り込んでくる。まるで臥所の恋人のように。春は幸福の使者、悲しみの寝床、そして万物の母。生命の誕生を寿ぐ、もっともかぐわしい季節。またこの季節がやってきたことを、記憶に刻みつけるために、私はこの物語を書いた。

 

 今、外では春の嵐が猛り狂っている。桜もまたすっかり散ってしまうだろう。再び来年の春が訪れるまで、しばしの別れだ。しかし、きっとその後にはいよいよ春爛漫のすごしやすい陽気となるだろう。きっといいことがあると思わせてくれるような、心高鳴る日々となろう。春は別れと出合いの繰り返す永遠のループの結節点だから、良いことも悪いことも併せのんで、怒涛のように何事かを引き起こしてくれるに違いない。たとえば鳩子の恋人のように。

 鳩子のように素晴らしい春が万人に訪れますように。そして、誰からもどこからも離れたところで、私と鳩子は永遠に話を交わし続ける。まるで春の夢のように。

     

      完 


 文体にこだわって書いた作品です。今までの3作とは違って、「私」を語り手に敬語調で書いてみました。ふんわりとしたマイルドな作品に仕上がっていると思います。そのことが、読み物としての面白さを減ずる事にもつながっているとは思いますが、新境地は開けていると思います。今までと違った水野蛍をお楽しみくださったならば、大変嬉しいです。

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