焦げたクッキーはニセモノ母娘と偽り溺愛生活の始まり
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「ふう。こんなものかしら」
身体を大きく伸ばした拍子に、後ろでひとつに纏めたはずの髪が、さらりと解れて汗で汚れた額へ貼り付いた。
「いやだ。マリがしてくれたのと、どこが違うのかしら。私ったら本当にいつまで経っても上手にならないわね」
苦笑と共に、手櫛で纏め直した。
その指に、土がついていることに気が付いて、自分の粗忽さに笑いが出た。
それでもついマリの名前を呼んで直してもらおうとしなくなっただけ上出来だと思うことにして、フルールはこれから自分の住む家を見上げた。
素焼き煉瓦の三角屋根も漆喰の塗られた白壁も、随所に修復の跡があって色味も質感もどこかちぐはぐしている。
そこだけ見たらどんなあばら家かと思われそうだけれど、扉と窓だけはしっかりとした造りの新しい物に付け替えられているし、庭先に設けられた花壇には色とりどりの花が植えられている。
引っ越してきたその日に見た時は、あまりにもちいさくて、まるでオモチャの家みたいだと思ったものだ。
けれど今は、フルールひとりで掃除できる家のサイズとしてはギリギリというか、頑張ればなんとかこの綺麗で清潔な状態を維持していけそうだと思えるギリギリの大きさだと思うようになった。
慣れないながらも毎日ひと部屋ずつ掃除していって、埃が目立たない程度で廻せているのだ。上等だろう。
「ふふ。この私が自分で掃除や洗濯をすることになるなんてね」
爪の短くなった手を空へと翳す。
手入れもまったくしなくなったから、少し肌がかさついてきた気がする。
「もう、誰にも見せないからいいの」
『カワイイ』とか『綺麗だね』と言って欲しい人はもういない。
その事に気が付きたくなかったから、湿っぽくなる前に次の作業に取り掛かることにする。
「さて。今日こそスープ以外の物を作るわよ。白湯でも煮詰まってもいないお茶も淹れてみせるんだから」
ぐっと握りこぶしを作って自分を鼓舞する。
自分しか住んでいないこのちいさな家で、ひとり静かに時を過ごすと決めたのだから。
***
「うん、大丈夫。ちょっと香ばしすぎてるけど。うん、食べられるわ」
自分ひとりで作れるようになったのだと思うと上出来だとすら思い、もう一枚、クッキーへと手を伸ばした。
先ほどより色が濃いけれど、それでも食べられなくはない。
「うんうん。最初の時に比べたら食べられるだけでも凄いことよ、フルール。あなたはきっと、お菓子作りの才能があるんだわ」
最初に焼いた肉は黒焦げだった。消し炭と言っても過言ではない。なのに、真ん中はまだ生。
それを三枚続けて作り出した時、マリから「食事はすべてスープにしましょう」と申し付けられてしまった。
固い野菜から入れて、ひとつの具材が柔らかくなってから次の食材を入れて、最後に塩味で整えることというマリ直伝の極意を守り続けているので、今のところお腹を壊すこともない。
「入れた素材が溶けてドロドロになった後に入れた具材には火が通りにくいっていうマリすら知らなかった極意も見つけたし」
一番最初に入れた具材が溶けてしまった時、次に入れた具材はいつまでも生煮えだった。
それだけ取り除き、別の鍋で煮てから合わせるという技で凌いだ。
結局、あまりおいしくないスープというかシチューができたのだけれど、それだってあまり美味しくないだけで食べられるのだから。
「問題は、同じスープを食べ続けることになるってことだけね」
一緒に食べるのが、買ってきたパンか、スープを煮込んでいる横で焼いたジャガイモか、スープに入れて茹でた小麦粉団子かの違いがあるだけだ。
「いつか、パンも焼けるようになりたいわ。あと、お肉をおいしく焼けるようにもなりたいわね」
やってみたいこと、できるようになってみたいことは幾らでもある。
それらをすべて自分でできるようになれるかは謎だけれど、死ぬまでまだまだ時間は長そうだから、丁度いい。
「私がお菓子や料理を作ってるってあの人が知ったら、吃驚するかしら」
──喜んで、食べてくれただろうか。
そんな思いが頭に浮かんで、フルールから表情が抜け落ちた。
「駄目駄目。笑顔にならなきゃ」
お行儀が悪い事だってやってみたかったのだ。
覚悟を決めて、手にしたクッキーをぽいっと口に放り込んだ。
「んんっ。やだ、これ苦い」
自分が生成してしまった焦げたクッキーのあまりの苦さに、フルールは慌てて口へお茶を運んだ。
庭で摘んで干しておいたカモミールの花を使ったお茶はおいしいだけじゃなくって、食あたりにも効果があるらしいので、自分で作った何かを食べる時には必ず飲むことにしている。
花の育て方も、摘み方も洗い方も干し方も、お茶として淹れる方法だってすべて、教えて貰ったノートの通りにしているから。
紅茶は無理だけれど、このお茶だけは自信がある。
「ふう。吃驚したわ。次から、自作のクッキーを食べる時には、カモミールティーにミルクと蜂蜜を入れておくべきね。うん、またひとつ賢くなった気がするわ……あら?」
今年もそろそろまたカモミールの花が咲く頃ね、と視線を向けたところで、その後ろの植えこみが音を立てて揺れた。
ガサゴソガサゴソ。
揺れるゼラニウムの葉が段々と近づいて来るのを視線で追う。
その揺れが、フルールに一番近づいてきたところで止まった。
ぐぅきゅるるぅ。
『あっ』
かわいらしいお腹が鳴る音と、恥じらう声が上がると同時に、愛らしい幼い女の子が立ち上がった。
お腹を押さえる手はふくふくとしていて、まるでそこに花が咲いたようだ。
お腹が鳴ってしまったことを恥ずかしがっているようではあるが、その視線は、フルールの手にした焦げたクッキーに釘付けになっている。
「あの、えっと。これは焦げがあって……」
じーっと見つめられていると、何故か焦りが生まれてきてしまう。
焦げたクッキーなど幼い子供には毒だろうとは思うのに、言葉が上手く出て来ない。
どう説明すればいいだろうと悩んでいたところ、少女が意を決した様子で近づいてきた。
『それ、たべてもいい?』
しかも、少女が喋ったのは、この国の言葉ではなかった。
その国の言葉を勉強したのはまだ学生の頃のことで、遠い記憶を必死に思い出して会話を繋げる。
「『焦げているけれど食べるかしら』で、通じるかしら」
自分でも怪しげな文法だと思いつつ同じ言葉で返すと、少女の顔が輝いた。
『! いい。ありがと』
できるだけ焦げの少ないものを選び取り、少女に差し出した。
先ほども花のようだと思ったちいさな手が、フルールが焼いた、いびつな形の焦げたクッキーを掴んで、頬張った。
『うれし。おいし』
『おいしい? 嬉しいわ』
目を輝かせて食べていた少女の瞳は、綺麗なアイスブルーをしていた。
丸みを帯びた頬が動く様に、フルールの顔が弛んだ。
『これね、私が作ったクッキーなのよ。可愛いあなたに食べて貰えて嬉しいわ』
そういって差し出したクッキーを見つめる少女の瞳が見開かれた。アイスブルーの美しい瞳へ、涙の膜がゆるゆると張っていった。クッキーの食べ滓が残る紅い唇が、わななく。
そうしてついに、溢れてしまった涙がまあるい頬を伝い落ちていくのを、フルールは信じられない気持ちで見つめた。
『ご、ごめんなさい。おいしくなかったわね。お腹、痛くなっちゃった?』
フルールは必死に、異国の言葉で謝った。幼い子供にはやはり焦げは毒だったのだと、己の浅慮さに慌てる。
医者を呼びに行こうか、それとも少女の両親を探す方が先だろうか。
そういえば、この異国の少女はどこから来たのだろうかと今更ながら困ってしまった。
『ごめんなさい。いますぐお医者様に見せてあげるからね』
ひとり暮らしのこの家では、何もかも自分で行わなければならない。
けれど、こんな幼い子供が私の作ったつたないクッキーのせいで泣いているというのに、置いて探しに行くことなど私にはできなかった。
「誰かー! だれかいませんか!」
『ちがう、の。だいじょうぶ』
大きな瞳に涙を湛えた少女が、何度も首を振る。
フルールを安心させようとしているのだろう。健気にふるまう少女が、フルールの涙を誘う。
自分から強請って貰ったクッキーが原因で、体調が悪くなったと言えないのだろう。
誰の目にも入らない生活を求めたのはフルールだ。
けれど今は、大きな声で助けを呼んだ。少女の身体を抱き寄せる。
『大丈夫よ。私が助けるわ。だいじょうぶ』
その言葉に根拠などなかった。それでもフルールにとってそれは本心だった。
抱え上げて、自らの足で医者の下へと運ぶのだ。
『……まま』
幼い声が、母親を呼ぶ。フルールの胸がぎゅっと痛んだ。
ちいさな体でも、フルールには重すぎた。家事をするようになって体力がついてきたという自信はあったけれど、筋力という意味ではまるで足りていないのだ。
けれど、落す訳にはいかない。
絶対に助けてみせると心に決めて、フルールは村までの道を歩くことに決めた。
『僕の娘をどこに連れていくつもりだ!』
「きゃっ」
フルールはいまだ自分の家の庭すら出ていないのに。
突然現れた背の高い男性に力強く腕を引き寄せられて、フルールは体勢を崩した。
『カリーナを返すんだ!』
強引に腕の中の少女を奪われそうになって、その腕に抱えた少女を必死で守る。
「病気の子供なのよ。医者に見せに行くのよ、邪魔はやめて」
男が少女と同じ言葉を話している事すら、突然のことでフルールにはわからなかった。
自国の言葉で訴えてしまったが、男にはちゃんと通じたようだった。
激昂していた顔が、瞬時に心配そうな優しい父親の顔になる。フルールの腕に取り縋っている少女を覗き込んだ。
『……なんだと。カリーナが病気? 大丈夫か、カリーナ』
ようやく、フルールも男が少女の名前を呼んでいること、なにより少女と同じ国の言葉を話していることに気が付いた。
『ぱぱ。勘違い、メッ! なのよ』
『え?』
「あぁ! この子の、おとうさまでしたか。いえその」
父親から少女を守ろうとしていた赤の他人の自分という間抜けな図式が恥ずかしい。
熱くなる頬に気を取られないように気を付けながら、フルールは姿勢を正した。
『我が家の庭へ遊びにいらして下さったちいさなお客様へお出ししたお菓子が、えぇと、身体に合わなかったようなのです。安易に食べさせてしまって、すみませんでした。いますぐお医者様へ連れて行こうとしていたところでした』
軽く腰を下げて謝意を表し、説明をする。
久しぶりに使う異国の言葉が合っているのかどうか自信はなかったが、説明しないままでいる訳にもいかない。
「あぁ、失礼した。御婦人。では、我が娘は、勝手にあなたのお庭へお邪魔を?」
「よかった! アズナヴールの言葉が話せるのですね。私、ベールイ語は、その、が、学生時代に習ったきりでしたので通じているか不安でしたの」
どうやら父親の方はアズナヴール国の言葉が話せるようでホッとした。
フルールが笑顔になると、父親の瞳がきらりと光った。
「大丈夫です、ちゃんと通じていましたよ。それでカリーナ、体調というのは」
父親の問い掛けに、少女は慌てた様子で訴えた。
『ちがうの! お腹は、いたくないわ』
それを聞いて、フルールの力が抜ける。
『……お腹が痛くて、泣いていたんじゃないの?』
勝手に勘違いして、大騒ぎをしてしまったのだと、フルールは今度こそ、頬を真っ赤にして羞恥した。
『……ちがうの。ごめんなさい』
ぎゅっと。ちいさな手が、いまだ抱き上げているフルールのワンピースの襟元を掴んだ。
それを見た父親が、慌てて娘を引き取ろうと手を差し伸べた。
『あぁ。御婦人のドレスが皺になってしまうよ。手を放して、僕のところへおいで。愛しいカリーナ』
『……』
『カリーナ?』
再度の呼び掛けに、カリーナは自分の顔を、フルールの肩へと擦りつけた。
幼い子供の、少し高い体温。擦りつけられる度に首元を擽る柔らかな青銀の髪。そうして少女の握りしめたちいさな愛らしい手の感触。すべてがフルールの五感を刺激した。
「申し訳ない。そのまま娘を下ろしてしまってくれないか」
「でも……」
父親の無情な言葉に、少女が一層フルールへと身体を寄せる。
その無言の訴えを無下にすることは、フルールにはできなかった。
逡巡するフルールに、父親が、大きく息をはいて抗議を表した。
「父親である僕の意向を無視することは、赤の他人の君がしていいことではない!」
その断固たる命令の仕方に、フルールは目の前の男性が人へ命令しなれていることに気が付いた。
そうしてよくよく見れば、佇まいも所作も美しい。異国であるアズナヴールの言葉も流暢に話せる知性の高さ。なによりそのフルールの一番嫌いな高圧的な態度が板についている。
間違いなく、高位の貴族階級だろう。
国が違えど、貴族階級にある男性に歯向かっても良い事はなにもない。
ましてや相手は少女の父親なのだ。それも、一応は娘への愛もきちんと持っているようだ。フルールの大嫌いな高圧的な態度については今はいったん横へ置いておくとして、良識ある男性であると判断できる。
「失礼しました。けれど、大きな声で命令を出すことはお止めください。お嬢様が、驚いてしまいますわ」
自分でも踏み込みすぎているとは思った。それでも、このちいさな手が訴えてくるものをフルールには拒否できなかった。
『ちがうの。ぱぱも、ままも、ケンカしないでなの』
「……?」
『……ママ?』
父親が、ぽかんとした顔をした。
どうやらフルールの聞き間違いでも単語の記憶違いでもなかったらしい。
だが、今日初めて会った少女から母親扱いをされる意味が分からなくて途方に暮れる。
それは男性も同じだったようだ。
フルールは、先ほど少女と一緒に焦げたクッキーを食べたあの庭のテーブルへ、男性を誘うことにした。
***
「どうやら、カリーナが信頼している乳兄だ……ゴホン。あー、幼馴染みから、『ちょっと茶色い特別な匂いのするクッキーを貰えるのは、僕がママの本当の息子だからだ』と教えられたらしい」
訥々と。前後する話の内容を娘から丁寧に聴き取った父親が話を纏める。
信頼する幼馴染み(多分乳兄弟と言いかけてやめたらしい)からそう教えられたようだと、頭を抱えるその男性は、先ほどまでフルールが感じていた高圧的な部分はまるきり見えなくなっていた。
『あの時、ロキにいさまが食べていた特別なクッキーと同じ香りがしたから匂いを辿ってきてみたらね、わたしに、ままの特別なクッキーをくれたのよ! だからカリーナの、ままなの!」
なんという飛躍。なんという三段論法。ポップステップバク天ほどの勢いで説明を終えた娘の喜びように、カリーナの父親は顔を引き攣らせた。
対するフルールも、ニコニコ顔の少女、カリーナに抱き着かれて途方に暮れた。
まさか焦がしてしまった手作りクッキーにそんな思い入れがあったなんて、誰が想像しただろう。
「すみません。私が不用意におじょうさまへクッキーを渡したばっかりに」
「いいえ。まさか僕も娘がそんなことを信じているなど、思いもしなかったので。あと……すみません、ママと呼ぶように娘を言い包めたのかと疑ってしまいました」
口にしなければ分からないというのに。素直に謝罪する男性に、フルールは笑顔になった。
「まぁ! でも、素直に謝って下さったから許して差し上げますわ」
わざとらしいほど高邁に見えるように。顎をツンと上げて謝罪を受け入れる。
そうしてお互いに視線を合わせて、くすくすと笑い合う。
『ぱぱとままが仲良しで、カリーナうれしい!』
ぴょんぴょんと飛び跳ねてよろこぶカリーナに、ふたりは苦笑するしかなかった。
「改めて自己紹介させて貰おう。娘のカリーナ。そして僕のことはアレクと呼んで欲しい。此処へは静養のためにやってきた」
「フルールと呼んで下さい」
お互いに、家名は名乗らなかった。
フルールは、彼が名乗ったのは、本名ですら無いのかも知れないとみている。
深入りしたい相手では無いし、その必要もない。何の問題もない。
お互いがお互いに含む処があるのだと理解している。
「ようこそ、アズナヴール国へ。こちらにはしばらく逗留されるのですか」
「あぁ。少し長めの休暇が取れたのでね。娘とふたりの時間が欲しくて」
そうですか、と笑顔で答えたフルールへカリーナが抱き着いた。
顔を見上げて可愛く拗ねる。
『ママ、わたしにも分かるようにお話して』
ここで、私はママじゃないと切り捨てられる人間であったなら、そもそもこんな状況に陥ることもない。
『ごめんなさいね、カリーナ』
『うん。許すわ』
可愛い笑顔に、フルールの胸がきゅうっと痛んだ。
「私たちにも、本当に、こんな可愛い子供がいたら良かった」
それは、誰かに聞かせるつもりのない祈りのような言葉だった。
「フルール、それは一体」
アレクから問われて初めて、自分が胸に秘めておくべきことを口にしていたことにフルールは気が付いた。
どうすれば核心へ触れずに説明できるか、フルールが逡巡しているところへ怒声が上がった。
「フルール! その男は誰なんだ」
「ラウド? どうしてあなたが此処に」
ずかずかと庭へと入り込んで、フルールに向かって乱暴に手を伸ばす。
『まま!』
腰にしがみついていたカリーナを反射的に抱きしめて庇ったフルールは、ラウドの手に掴まれることを覚悟して目を閉じた。
「痛っ。何をするんだ、放せ」
「女性への乱暴な態度を許す訳にはいかない。それがたとえ夫からのものであったとしても」
アレクの言葉へ、フルールは訂正を入れる。
「違うわ! ラウドは夫の従弟よ」
「なるほど。従兄の妻の不貞を疑って、義憤に駆られた?」
「それも、違うと思うわ」
眉間に皺を寄せたフルールは、アレクに腕を拘束されて暴れるラウドを睨んだ。
会いたい相手ではない。できることなら、二度と会わなくてもいいくらいだ。
「痛いんだよ、放せって。フルールの夫だったクロードはもう死んでるんだ。ようやく喪が明けたんだ。だから、フルールは俺と結婚する。そしたら俺が、本家を継ぐんだ」
勝手な妄想だった。
アズナヴール国における夫婦の喪は、2年。通常ならば静かに悼みを捧げるべきこの期間中でさえ、エルミール子爵家の親族たちはフルールに対して新しい縁談を山のように持ち掛けてきていた。
だからこそ、フルールはこうしてエルミール子爵家を出て、ひとり暮らすことにしたのだから。
アズナヴール語で言われた妄言がカリーナに分かる訳もない。それでも、カリーナの前で勝手なことを言われ続けるのは嫌だった。
「すでに何度もお断りしているわ。私は、エルミール子爵家にはもう関係のない人間なの。二度と此処へは来ないでくださいな」
「そんな冷たいことを言わなくてもいいじゃないか。伯父さんも伯母さんも、フルールと俺が結婚して、子爵家を継ぐことを楽しみにしてるんだ。きっとクロード兄さんも墓の下から祝福してくれる」
アレクに腕を取られて捩じ上げられた痛みに顔を顰めながらも、勝手な言葉を続ける愛する夫の従弟に、フルールの我慢は限界を超えた。
「私は! クロードと結婚したの。クロードの奥さんに、なりたかっただけ。エルミール子爵家のために結婚した訳じゃないわ」
「なんで俺じゃ駄目なんだ! 俺の顔は、親族の中で一番クロードに似てるって言われてるんだぞ。それに、髪型だって服装だって、似せてやったんだ」
恩着せがましいラウドに、フルールは声を張り上げて叫んだ。
「そんなこと頼んでいないわ! あなたは、クロードじゃない。わたしは、クロードを愛しているの! 今もよ!!」
フルールの強い主張に、ラウドは気圧された様子で鼻白む。
「くそっ。なんて生意気なんだ。俺が夫になった暁には、きちんと躾けて……ぐあぁっ」
押さえ込んでいただけの腕を、骨も折れよとばかりに、アレクが力いっぱい握りしめた。
ラウドを見下ろすアレクのアイスブルーの瞳が、その圧を強くした。
冷徹な視線に突き刺され、ラウドはすでに声も出せないほど顔を脂汗まみれの顔をして、痛みに震えていた。
その顔に満足したのか、アレクが手を放すと、そのままラウドは地に尻もちをついた。
取り返した腕を撫で擦りながらラウドが尻で後ずさる。
「ど、どんなに愛を叫んだって、クロード兄さんは死んだんだ。子供も産めなかった寡婦は、嫁に望んで貰えるだけでも喜ぶべきだ!」
そう捨て台詞を残すと立ち上がり、ラウドは駆け去っていった。
その背中へ、「私はひとりで、クロードの思い出を抱いて生きていくの。いつか、あの人に逢いにいける日が来るまで」と呟く。
それは、願いなのか祈りなのか。フルールにも分からなかった。
『ごめんなさいね。怖い思いをさせてしまったわ』
目尻にたまる涙をカリーナに見せないように拭うと、フルールは気丈に腕の中へと隠し込んだカリーナへ微笑んでみせた。
自分を心配そうに見上げる瞳に、癒される。
柔らかな子供の髪を、優しく手で漉いた。
『今日は、取り込んでしまったし、また後日遊びに来てくれる?』
『また来ていいの?』
『もちろんよ』
『あの特別なクッキー、焼いてくれる?』
『うっ』
フルールはうめき声を上げた。ゆるゆると、助けを求めて少女の父親の顔に向かって視線を動かした。
拙い自分のクッキーを喜んでもらえるのは、嬉しい。
けれどそれが特別な意味を持つとなれば話は別だ。父であるアレクの判断に従う必要がある。
視線で、それを問い掛けたつもりだったのに。
「ふっ。ふはは」
「何でそこで笑うんですか。失礼ではありませんか」
身体を折り曲げて噴き出したアレクに、フルールは憤慨した。
変な女を本当のままだと信じ込ませたくないであろう父親のために、勝手な判断をせず配慮したつもりだったというのに。
「失礼。途方に暮れた顔が、あまりにも可愛らしくて」
「かわいい……? な、なにを急にっ」
ぶわっと、フルールは自分の頬が熱くなっていくのを感じて、アレクは卑怯だと思った。
父親としての顔、ラウドのような相手に対する冷徹な表情、そうして今のやわらかな笑顔と。
裏も表もその他にもたくさんの顔があって。そのどれもが、魅力的に映るなんて。
他の表情を見てみたいと思ってしまうなんて。
フルールには、初めてのことだった。
「あなたを警戒した自分が馬鹿らしくなっただけです。フルール」
柔らかく溶けたアイスブルーの瞳。
目尻に浮いた笑い皺。
綺麗に撫でつけてあったのに。あまりに笑い転げたせいで、落ちてきてしまった前髪。
つ、と。額に落ちるその青銀の髪を撫でつけてあげたいなんて、考えては駄目なのに。
思わず、なんと返せばいいのかも分からずに、高圧的だとすら思っていた筈のアイスブルーの瞳を見上げる。
『もう! ぱぱもままも酷いわ! 私を仲間ハズレにしたら駄目なのよ』
『済まない、愛しいカリーナ。パパはママと少し内緒のお話がしたいんだが、許してくれるかい?』
『んー、……ちょっとだけよ?』
『ありがとう、やさしいカリーナ。愛しているよ』
『わたしもぱぱをあいしているわ!』
「ちょっと、アレク。どういうつもりなの?」
アレクからまでママと呼ばれて、フルールは混乱した。
「いいんだ。僕は君に、素晴らしい提案をしたいと思う」
「提案?」
「僕と結婚しよう、フルール。カリーナの、本当のママにならないか?」
フルールは、25歳という年齢になって初めて、開いた口が塞がらないという体験をした。
それほど衝撃的な発言をしておきながら、アレクはとても楽しそうに笑って、「返事は、今日の夜、カリーナが寝てから聞きに来るよ」と勝手に告げて、カリーナを抱き上げて帰っていってしまった。
『まままた明日ね!』
アレクの腕の中から、バイバイと手を開いたり閉じたりしているカリーナへ、手を振り返すのが精一杯だった。
***
「やぁ、フルール。いいや、マグノリア・ルクレール侯爵令嬢とお呼びした方がよろしいかな」
この短い時間とラウドから与えられたわずかな情報から、すでにそこまで調べたのかと、フルールはため息をついた。
まさか、最初から知っていた訳ではないだろう。そうならばもっと上手に、娘を送り込んで搦め手を取ってきたに違いない。
「私は、クロード・エルミールの妻ですわ。たとえ夫が亡くなっていたとしても。さあ、どうぞこちらへ」
昼間と同じ、庭先のテーブルへと案内する。
さすがにこの時間に男性をひとり暮らしの家へ招き入れるような真似をする訳がない。
アイスブルーの瞳を興味深そうにきらめかせたアレクは、素直にフルールの後ろをついてくる。
「フルールは愛称だったんだね」
「マグノリアの花言葉は、私には強すぎて。華麗さも、壮大さも無縁のつまらない女ですもの」
薄く笑う姿は儚げで、そういう意味では確かに似合っていないと心の中で同意したアレクは、軽く頷くだけの返事をした。
「まずは、自己紹介からやり直しさせて貰おう。ベールイ皇国のアレクセイ・スマローコフだ。公爵位を頂いている」
「公爵さま」
フルールは荒唐無稽とも思えるアレクの自己紹介を納得して受け止めた。
堂々たる体躯、矜持のある言動、高い教養。そのどれもが彼が高位貴族であると示している。
フルールは、今更ながら高位の存在に対する淑女の礼を取ろうとしたが、アレクから止められた。
「違う国の話だ。ここでは唯の娘との時間が欲しいだけの父親だ。アレクと呼んで欲しい。だが、僕は君のことを勝手に調べた。ならば君が知らない僕のことも、知っていて欲しい。そう思った」
「ありがとう、ございます。いま、お茶をご用意いたしますね」
フルールが出してきた紅茶は、これまでアレクが飲んできたすべてのお茶の中で最も苦くて渋かった。
けれど、お土産として持ってきた自国の甘いブランデー、マール酒を勝手に注ぐと奇跡のように美味しくなった。
「元々美味しいこの酒を、もっと美味しくなるお茶を淹れてくれたんだね」
「……たまたまです」
本当は、フルールが淹れる紅茶はいつだってこの味になる。
フルールは、勝手に求婚してきて、勝手にこの面会の約束を取り付けて、勝手にフルールのことを調べたアレクに、ほんの少しで一泡吹かせてやりたかっただけだったのに。
最高においしいと笑顔で告げられてしまった。
その笑顔も魅力的だなんて、癪に障って仕方がなかった。
「葡萄の搾りかすを仕込んだブランデーなんだ。最高に旨い」
搾りかすだというならきっとそれほど高い物ではないのだろう。
それでも自分が美味しいと思ったモノを勧めてくれるアレクに好感がわく。
「フルールもどうだい?」
ボトルを掲げられて、素直にカップを押しやった。
とぷとぷと軽やかな音を立てて、真っ黒に近かった紅茶の色合いが、本来の紅色を取り戻していく。
湯気に立ち昇る葡萄の香りが、心地よく鼻を擽った。
「おいしいわ!」
口に含むと、葡萄の強い味わいと香りが相まって、渋みしか感じられなかったフルールの紅茶思えない芳醇な味わいが広がった。
「これから始める相談には、少しアルコールの力を借りた方がいいと思って持ってきたんだ。幸先がいい」
そう言ったアレクは、しばらく何も喋ろうとしなかった。
視線の先で、庭に咲く花が風に揺れている。
カモミールだけではない。ムスカリ、ブルンネラ、クリーピングタイムも咲き始めている。
昼間は陽射しがあって暖かいが、陽が落ちた今は少し風が冷たく感じる。
それが少しアルコールの入った肌に、心地がいい。
星が、綺麗だった。
「結婚、と言われましたけど」
「うん」
先に口を開いたのはフルールだった。
「アレクの瞳には、私への情熱は感じられないわ。こうしている、今も。私、結婚は相手に情熱を持っている者同士が交わすものだと思っているの」
「貴族間の結婚は、そうとも限らないさ」
軽く躱され、フルールは泣きたくなった。
貴族の結婚としては当たり前のことなのだろう。だが、フルールにはそうではなかった。
「えぇ。そうかもしれない。けれど、私には、それはナシなの」
フルールは、学生時代からずっと恋していた相手と結婚した。
侯爵令嬢と子爵家嫡男の恋は、学生時代の思い出だから許されていたのだ。
それを永遠に続く本物にしたいと願い出た時、フルールはどれほど父を怒らせ、母を嘆かせただろう。
それでも、彼との未来を手にしたくて、どんな縁談を持ち込まれようとも首を縦には振らなかった。
時には、見合いの席でクロードへの愛を訴えもした。
そうしてやっと家の不名誉にならない縁談を見つけることができなくなり、行き遅れの歳になったことで、ようやくクロードとの婚姻を許されたのだ。
幸せだった。けれど、その幸せは、クロードの心労を生んだ。
フルールの知らない場所で浴びせられる、やっかみと品のない嘲笑。
愛した人は少しずつ少しずつ消耗していき、ある日大きな事故を起こした。
「あなたの笑顔が好きだった。いつだってその笑顔でいさせて上げたかった。だから、私のせいで泣かないで欲しい。私が居なくなっても、ずっと笑って。幸せでいて」
死の間際、血まみれの彼から押し付けられた勝手な約束。だがそれを守ることにしたから、今のフルールは笑っている。
生きている。
「彼との、最後の約束なのです。毎日笑って、幸せに暮らすと。その幸せに、他の男性との結婚は必要ではないの」
「でも、子供は欲しかった」
ぐっと。フルールの、喉の奥が詰まった。
痛い所を突かれた、と思った。あの呟きを、聞かれていたのだと思うと、胸の奥が苦しくなった。
「……彼との、です」
「うん。カリーナは、僕と、産んでくれた妻との子供で、フルールが産んだ訳じゃないからね」
「……奥様は?」
「死んだ」
「!」
「訳じゃない。でも、僕の愛した妻は死んでしまった。いいや、元から存在していなかったのかも」
アレクは、薄く自虐の笑みを浮かべて話し出した。
「幼い頃から婚約していて、それなりに仲良く過ごしてきていた、つもりだった。けれどカリーナを妊娠したことで彼女は変わってしまった。本性を現しただけかもしれないけれどね。体形が変わっていくことに不満を爆発させ、何度も流産を試みた。なんとか説得して出産まで漕ぎつけたが、想像の何十倍も痛かったから二度と妊娠も出産もしないと宣言して。僕は別にそれでもよかった。女皇をいただく我が皇国では、カリーナに婿を迎えればいいだけだからね。けれど、今度は僕の目がカリーナにばかり向いていると怒りだして。ついに、駆け落ちして出て行ってしまったんだ」
「そんな……」
あまりにも荒唐無稽な話に、フルールには思えた。
けれどもそれを話している際のアレクの瞳は、当時の痛みを思い出したのか、昏く傷ついていた。
「フルールが話してくれたから、僕も正直に話した。僕らは似ているようでまるで違う。けれどひとつだけ、共通している」
アレクのアイスブルーの瞳が、冷たくフルールを見据えていた。
「二度と、結婚なんかしたいと思わないのに、周囲はそう思っていない、ということだ」
「では、……けいやく、結婚をお望みだと?」
「そうだ。僕たちふたり、丁度おあつらえだと思わないか。すでに跡取りとなるカリーナがいて、国は違っていても高位貴族の血筋同士で釣り合いも取れている。結婚しろと騒ぐ親族までいる」
「アレクにも、ラウドのような親族がいるのね」
「自薦他薦問わず、わんさかとね!」
アレクが、両手をふわっと上に向けて開いてみせる。
コミカルなその動きに対して、彼の表情があまりにも切実すぎた。どれだけ彼が悩まされているのかが伝わってくる。
「わんさか。それは大変そうね」
くすくすと笑いが出てしまった。
フルールは、ずっと誰にも話したことの無かった胸の内を、アレクに聞いて欲しくなった。
「ついでに。私の話を、聞いて貰えないかしら」
「なんでもどうぞ。アルコールが入ってるからね。今は何を聞いても覚えていられずに、明日になったら忘れているよ」
カップの中にも、用意しておいたティーポットの中にも、もうあの濃すぎる紅茶は入っていなかった。
アレクは、空のカップへマール酒を注ぐ。
アレクのカップだけでなく、フルールのカップにも。
「まぁ。それでは今プロポーズの返事をしても、忘れられてしまいそうね」
マール酒がなみなみと注がれたティーカップを両手で包み、手の熱で温めながら、啜る。
葡萄の強い味が、ふわりと広がり、怖気つきそうなフルールを励ました。
「ううん。できれば熟考してから返事をして欲しいから。今すぐ返事するのは、やめてくれ」
「そうね。えぇ、分かったわ。そうする。だから、今は別の話をしましょう」
すぅっと息を吸い込んで、フルールはそれを、口から出した。
「……普通の人は、何年経ったら、愛した人を忘れてしまうものなのかしら。そもそも、忘れられるの? 忘れてしまえるものなの? 忘れてしまって、いいものなの?」
それは、ずっとフルールの胸に巣食っている疑問だった。
「一年? 二年? 五年経ったら、一生に一度だと思った恋でも、忘れられるのかしら。忘れてしまうのが、普通なの? 忘れない私が、おかしいの? 忘れられない、私は……わすれたく、ない、のに」
答えなど、必要としていない。いいや、答えを持つ者など、どこにもいない問い。
「最初は、彼の最後のお願いだったから、形だけ笑って過ごしていたわ。心の中は何にもなくて。空虚だった。令嬢としての仮面をつけて暮らす技術が、こんなところで役に立つとは思わなかった」
問い掛けというより懺悔に近いその言葉を、アレクは黙って聞いていた。
「けれど、……日々の暮らしの中で、段々と、自然に笑っている自分がいて。笑っている自分に、吃驚して。なんで笑っているんだろう。私、笑っていてもいいのかしら。私の愛するあの人は、死んでしまって、もうどこにも、いないのに。二度と、逢えないの」
フルールの啜り泣く声が、夜の庭に微かに響く。
「あの人の笑顔も、声も、体温も、どんどん記憶が薄くなって。どんな風に笑っていたのかも。思い出そうと頑張らないといけなくなってきて。そんな自分が、わたし、許せないの。いつまでも、クロードのことだけを、愛していたいのに。自分が、あまりにも冷たい人間すぎて、怖くなる」
ぎゅっと。握り締める指が白くなるほど強く握っているフルールの、いつの間にか再び空になっていたそのカップへ、アレクがマール酒を注いだ。
「愛する相手を、たったひとりに限定する必要は、ないんじゃないかな」
アレクには、フルールの懺悔に対して口を挟むつもりはなかった。
それはただ口から零れてしまった想いだった。
「僕は、カリーナを愛している。けれど、領民のことも愛しているし、父や母のことも愛している」
自分のカップへもマール酒を注いで、アレクは一気に喉の奥へと流し込んだ。
「それは。……それとは」
「フルール。君の愛は、クロードだけに捧げなくてもいいんだ。記憶は薄れようとも、愛はそのままそこにあっていい。そして、忘れないまま、愛したまま、他の愛も手に入れていい」
「他の、愛」
「フルールを慕うカリーナを、愛すことはできないだろうか。君の笑顔が好きなんだそうだ。あの子は、今日一日の君しか知らないけれど、本気で君を慕っている」
「駄目よ。この笑顔は! あの人が私に科した罰なのよ! 笑って、生きろって……そんなの、無理なのに。嫌なのに。いますぐだって、あの人が待つ天へ、往きたい」
「そんな馬鹿な! 笑っていて欲しいと願うことが、それが罰になるなんてありえない。愛する君に、最後まで幸せで生きていて欲しいと願うことが、罰になるなど」
「私には罰でしかない。本当は、今すぐにあの人の下へ往きたいのよ」
「でも、追いかけて行っても、会えない」
「知ってるわ!」
自死者は天へ昇れない。
事故や病死老衰した者とは往き着く場所が違うのだから。
もちろん犯罪に手を染めても。だから、天から迎えが来るその日まで、フルールは正しくあらねばならない。
「先に逝くしかなかったご主人には、いつか貴女が天に召される日まで、会えないんだよ。だから皆、頑張って生きている」
「あなた、も?」
「あの子の母が浮気して捨てられた時には、本気で死にたいと思った。けれどカリーナを置いていく訳にはいかないし。いつか僕が先に死んだ時、天の国で、カリーナが逢いに来る日を待っていなくちゃいけないだろ?」
口調は冗談交じりでも、その瞳に嘘はなかった。
「あなたは本当にいい父親なのね、アレク」
「あぁ。そうしてきっと、君にとっていい夫になるよ」
「そうかしら」
「だって僕は、クロードへの愛を忘れろなんて言わないからね」
「それは間違いなく、アレクは私にとって理想の、最高の夫ね」
「それに、君の実家の資産に頼る必要もないし、なんなら贅沢だって幾らでもさせてあげよう。カリーナとお揃いのドレスやアクセサリーなら幾らでも作る」
「カリーナとお揃いなのね」
「嫌かい?」
「いいえ、光栄よ。とても嬉しいでしょうね」
「あぁそうして僕は、両手に花だ!」
「まぁ。アレクに取って私と結婚するメリットが、あまりにもちいさくないかしら」
「いいや、素晴らしいことだよ。なにしろフルールと結婚できれば、僕はカリーナの思い込みを訂正する方法に悩まなくてもよくなる」
「ふふ。確かに、それ以上の利点は無いわね」
「僕はカリーナを愛している。あの子が望むものは、なんだって手に入れてやりたい」
その笑顔があまりにも優しい笑顔だから。
もう笑えない筈のフルールは、また自分が笑顔になっていることに気が付いて、胸が苦しくなってしまった。
「だから、ひと晩よく考えて。この結婚を受け入れてくれると、うれしい」
そう言って、アレクは暇を告げて帰っていった。
***
「申し訳、ありません。私には、クロードのお墓から離れることができません」
フルールは、求婚を断った。
アレクがベールイ皇国の公爵である限り、その居住はアズナヴール国にはならない。
「そうですね。僕もね、帰ってからそう思いました」
アレクは緩く笑って受け入れてくれたので、気まずくはならなかった。
たぶんきっと、恋愛も政略も関係ない、ただ都合がよいと思ったからというだけの求婚だったからだろう。条件が合わなければ破談で当然終わりだ。後に引き摺ることもない。
そうしてそれとカリーナとの交流を断つのは別の話ということで、父親も含めてカリーナとフルールのお茶会は連日開いた。
どうせ、父娘はいつかベールイ皇国へ帰るのだ。
それまで楽しく過ごすのも悪くないと割り切ることにしたのだ。
あの夜、誰にも話したことの無かった胸の内をすべて曝け出してしまったからだろうか。
フルールは、アレクの傍にいると楽に呼吸ができたし、純粋に慕ってくれるカリーナが可愛かったのもある。
朝一番にクロードの墓を参り、日中家事をして過ごし、陽が暮れる前にまたクロードの墓へと通う。
そんな単調な日々を過ごしていたフルールの生活に舞い込んできたカリーナという可愛らしい花を、フルールは存分に愛でることにした。
それは思いの外に、フルールに穏やかな時間を与えてくれた。
そんな日がひと月近くも続き、当たり前になりつつある日のことだった。
『あのね、カリーナ。明日は予定があるから会えないの』
『なんで?』
『お呼ばれがあるの』
エルミール子爵家からフルール宛に、手紙が届いたのだ。
これまで、クロードの月命日をエルミール子爵家で行なったことはなかったのだけれど、義母から「あなたとクロードの思い出話がしたい」と誘われた。
エルミール子爵家を飛び出して一年半になる。
クロードとの縁を切りたい訳ではないフルールに、この誘いに対して行かないという選択肢はなかった。
「何処へ行くんだ」
「エルミール子爵家から、クロードの月命日に会いたいと手紙がきたのです」
「僕が馬車の手配をしよう」
「いいえ。貸馬車を手配しますわ」
勿論フルールは断った。だが、アレクによって押し切られてしまった。
しかし、それで正解だった。
***
「おかえりなさいませ、若奥様」
「……セバス。ひさしぶりね」
姿勢正しく迎え入れてくれたのは、執事のセバスだった。
クロードとフルールが住んでいた時よりずっとエルミール子爵家邸は静かで、暗く沈んで目に映った。
玄関先のアプローチ周辺はそれなりに整えてあるものの、それ以外にはあまり手が廻っていないのかもしれない。
フルールと結婚して当主交代したばかりだったクロードの死により、引退したばかりの前当主がエルミール子爵として復帰した。
しかし、自慢の息子を失った義父の気力は大きく削がれてしまったのかもしれない。
美しく笑顔に溢れていたエルミール子爵邸が寂れているところなど見たくなかったと、フルールは目を伏せて歩く。
たった二年ではあったものの、愛する人と暮らした邸の廊下を進んでいく。
できることならば、共に白髪となるまで傍にいたかった。愛する人の思い出がそこかしこにある邸。
廊下のタイルが一枚だけ色が違う理由。幼いクロードの失敗を教えてくれた時のはにかんだ顔を覚えている。
窓の外にある大きな樫の木は、ブランコが欲しいと強請って植えて貰ったと言っていた。
従兄弟たちと一緒に木登りを競争をしたという思い出では、落ちて怪我をしたと笑って言われて血の気が引いた。
結婚のお祝いで戴いた花瓶が飾られた廊下を、客人としてセバスに案内されて通る虚しさと切なさが胸から溢れて涙となって流れ出していきそうだった。
幸せな思い出と辛くて苦しい記憶が交互にやってきて、フルールは招待を受けたことを後悔し始めていた。
けれど、辛いのは息子を亡くした義母も同じだ。
むしろ新しい縁談と思い出が辛すぎてこの邸から逃げ出したフルールよりも、義母の方が辛いかもしれない。
そう自分を宥めて顔を上げ、足を動かした。
何を話そう。どう話そう。そればかりでフルールの頭の中はいっぱいだ。
使用人の顔も見えない、セバス以外に誰も会わないまま、奥の応接室へと案内された。
「あら。お義母さまは? こちらでお待ちではないの」
「こちらで、お待ちください」
頭を下げたセバスが出て行き、扉を閉める。
カチリ、という鍵が閉まる音の違和感に、扉を振り向いたフルールの後ろに、その男は、いた。
腕を掴まれ、引き倒そうとしてくる男に、フルールは懸命に抵抗した。
「誰なの。離しなさいっ」
「素直に俺の求婚を受け入れないで、余所者と会ってるフルール、いいや、マグノリア様が悪いんですよ。ルクレール侯爵家のご令嬢は存外に身持ちが悪い」
呼び出しを受けて行った子爵家の応接室で待っていたのは、招待状を送ってきた義母でも当主に返り咲いた義父でもなく、ラウドだった。
「その声は、ラウド!? は、はなして。離しなさい」
混乱して暴れてはみるものの、両手首を掴まれてしまって全く歯が立たなかった。
掃除や洗濯などを自分でするようになって、少しは筋力が付いたつもりでいたフルールだったが、男の本気に敵うはずもない。
「助けて! 誰かっ、セバス! セバスそこにいるのでしょう? いやっ、お義母さまっ!!」
フルールは力の限り叫んで助けを呼んだ。けれど扉は固く閉ざされたままだ。廊下を駆けてくる足音も何もしない。
「馬鹿なフルール。幾ら叫ぼうと誰も助けになんかこないさ。お前が一族の男の誰かひとりでも受け入れておけば、こんな風に奪われることにはならなかったんだ」
応接室の扉は鍵が掛けられ、悲鳴を上げて助けを読んでも誰も助けに来ない。
エルミール子爵家の誰も、クロードの月命日など悼むつもりは無いのだ。
月命日のお茶会など、最初から無かったのだ。
義母からの手紙自体が、フルールへの、罠だった。
「いやっ、嫌よ。クロード、クロード助けて!!!」
「死んだ男に縋っても、助けに来るはずないだろ。馬鹿なフルール」
そう嘲ったラウドが、フルールの項へと唇を寄せる。
生温かい息が近づいて、フルールは怖気立った。
もう涙を我慢することなど、出来なかった。
──誰か助けて。アレク!
ガシャーン。
突然のガラスが破られる激しい音に、ラウドの動きが止まる。
「何事だ、ぐえぇ」
ドン、と壁にラウドが投げ飛ばされていき、フルールは目を見張った。
涙で膜が張った視界に、男性の姿が滲んで見えた。
「クロー……」
「フルール! 大丈夫か」
あぁ。
クロードの、はずがないのに。
大きく逞しい手も腕も、フルールを掻き抱く胸もすべて、違う。異国からきた男性のモノだ。
「アレクセイさま?」
「あぁそうだ。僕だ。助けにきたよ、フルール。あの執事に、金を貰っているからフルールの帰りまで待っていると言ったら、金を返さなくてもいいから帰れと言われておかしいと思ったんだ」
「それだけで、お忍び中の異国の公爵さまが、他国の子爵家へ不法侵入をされたというのですか」
下手をすれば国際問題として取り沙汰される。大問題に発展してもおかしくない。
「僕には、フルールの安全の方が大問題さ」
柔らかく、アイスブルーの瞳が綻ぶ。
フルールは、自分の胸に愛する夫以外の人が住み始めてしまったことを、自覚せずにはいられなかった。
***
「カリーナ、ご機嫌だな」
「えぇ。お母さまとお揃いのドレスが仕上がってきたの。ほらほら素敵でしょう」
柔らかなスカートを抓んで、カリーナがくるりと一回転してみせた。
「よく似合っている」
「あのね、わたしのドレスのリボンは胸元だけど、おかあさまのドレスは首の後ろにあるの。どっちもとってもかわいいの」
「あぁ。後でふたり揃っているところを見せて貰おう」
「ねぇ、おかあさまと一緒に観劇に連れて行って。観たいお芝居があるの」
「そうか。休みが取れるように仕事を詰めておくことにしよう」
「わぁい。ありがとう、おとうさま。ねぇ、おかあさまには当日まで内緒ね」
「ん? サプライズかい。いいね、楽しそうだ」
「んふふ」
「どうしたんだい、カリーナ。嬉しそうだ」
「ええ。嬉しいわ。幸せよ。だって、おとうさまってばおかあさまのお話してる時、すっごく優しいお顔になるのだもの!」
愛娘の言葉に、アレクが自分の頬に手をやる。
「参ったな。カリーナには嘘がつけない」
「そりゃあそうよ。私のおとうさまの娘歴は、とても長いのよ」
笑顔で飛びついてくる小さな身体を、アレクは優しく受け止めた。
「奥さんにバレる日も、近いということかな」
「大丈夫。おかあさまって、そういうのちょっとウトいところがおありだもの」
「何かバレるというの、アレク? カリーナ。あまりおとうさまに無理を言っては駄目ですよ。お仕事のお邪魔をしてはいけないわ」
「あぁ。我が家の女神さまが来たぞ」
「おかあさま、女神さま?」
「美しく優しいフルールに、我々父娘は心を捧げずには居られないだろう?」
「なんのこと?」
「僕の奥さんは、今日も美しいなって話してたんだ」
「まぁ。お上手なこと。でも騙されませんわよ。なにを話していらしたのかしら」
結婚して三年が経っていた。
婚家から籍を抜くどころか、国籍さえも移すことになったフルールは、もうエルミール子爵家の手が及ぶことはない。
家内のごたごたでしかないフルールの事件は表向きには無かったことになっている。
しかし、皇国の公爵家への嫁入りは実家であるルクレール侯爵家からであり、エルミール子爵家の者は亡夫の肖像画以外の参列は許され無かったこと、皇国の公爵家からエルミール子爵家との縁は切れているので連絡をよこさないようにとアズナヴール国に対して通告を受けたことから、数多の噂を生み出した。
更に、誰が情報を流したのか、侯爵家から迎え入れた嫁が夫が亡くなった途端に子爵邸から追い出し不遇の境遇に貶したことや、嫌がる嫁に喪中にもかかわらず親族の男との縁談を押し付けようとしたことなどが実しやかに語られているらしい。
侯爵家との縁づいたことで図に乗っていると反感を持たれていたことの反動もあって、エルミール子爵家は社交界で爪弾きにされているそうだ。
アズナヴール国のあの家は、まだ残してあって別荘として使っている。
クロードの墓は遠くなってしまったけれど、毎年の命日にはお参りしているし、フルールの私室には、彼の肖像画が置いてある。
それを許してくれるアレクだからこそ、こうしてフルールは彼の隣に居られる。
それがたとえ、契約による婚姻でしかなかったとしても。
長く永く、今度こそ共に白髪になるまで傍に居させて欲しいとフルールは願っていた。
「あのね、内緒なんだけどね、さっきね、私とおとうさまは、おかあさまのことが大好きって話してたのよ!」