あなたが私を愛さないとおっしゃるのなら、いっそこのまま殺してくださいませ
「魔王さま。あなたが私を愛さないとおっしゃるのなら、いっそこのまま殺してくださいませ。白い結婚などまっぴらごめんですわ」
白いドレスに身を包んだ花嫁カレンは、夫となるべき魔王の前に姿を現すなり物騒な願いを口にした。そのまま、魔力で氷の刃を作り自身の喉元にあてがってみせる。脅しではない証拠のつもりに刃を少し肌にすべらせれば、赤い雫が白い肌を一筋伝い落ちた。
世界最強の魔王相手に、自分のごときか弱き人間が何かできようはずもない。けれど、自分自身を傷つけることは可能なはずだ。ひりつく痛みから予想通りであることを確認したカレンは満足そうに微笑んで、結婚相手である魔王を見上げた。残念ながら、小柄なカレンからは彼の表情は何も見えない。
ふたりの婚姻は、人族と魔族の争いに終止符を打つためのもの。それは、人類滅亡を恐れた人族側からの懇願に、魔王が慈悲をもって応えたからだと言われている。だが、花嫁の暴挙とも言うべき振る舞いは両陣営にとって想定外。怒声を浴びるか、暴力で止められるかと思いきや、カレンを制止する者はただのひとりもいなかった。
やはり、慈悲という名の暇つぶしである花嫁など目の前で勝手に死んでもかまわないと思われていたのだろうか。石像のように微動だにすることのなかった魔王は、やがてゆっくりと彼女に問いかけた。
「なぜ、このような真似を?」
「魔王さま。私は大切なひとに、三度裏切られました。四度目の裏切りには耐えられそうにありません。『仏の顔も三度まで』と言いますもの」
「この辺りでは聞かないことわざだ」
「そうでしょうとも。ここからは夢のように遠い、はるか異国のことわざですから」
こんな状況にもかかわらず、カレンの声音は風のように軽い。彼女の微笑みは美しく、どこまでも澄み切っていた。
***
カレンはとある小国の王女だ。もともとは国内の貴族令息の元に嫁ぐ予定だったが挙式も間近となったある日、魔王の元に嫁ぐことが決められたのである。和睦の条件として、なぜこんな小国の王女を魔王が指名してきたのかはわからないが、それでも人々は停戦を喜んだ。カレンの気持ちさえ考えなければ、たったひとりの姫を差し出すだけで物事が平和に片付くのだから、その気持ちもわからないことはない。
表向きには、魔王に乞われての円満な婚約解消。だが実際は、魔王から指名を受ける直前にカレンは婚約を破棄されていた。
カレンの存在を持て余していた小国にとって、魔王の要求は渡りに船だったのである。余ってしまった厄介な姫の世話をする必要もなく、他国へ恩も売れる。万が一にでも魔王が王女を気に入れば、王女の祖国として優遇も得られるだろう。
そんなそれぞれの思惑をわかっていてなお、カレンは粛々と事態を受け入れていた。いくら内心どんなに荒れ狂っていたとしても、彼女にだって王女としての矜持がある。だが、元婚約者が漏らした言葉を耳にした瞬間、彼女の感情は決壊した。
「あいつは王女という地位にあぐらをかき、俺を見下していた。それに比べて、妹姫はどうだ。気取ることなく俺に甘え、いつでも可愛らしく微笑んでくれる。そばにいないだけで寂しいと言って手紙を書き、俺がいなくては生きていけないと泣いてくれる彼女のためにこそ、生きていたいと思ったのだ」
「まあ、言わんとすることはわからんでもないが。自分に頼ってくれる女というものは、可愛いものだからなあ。しっかり者の姉姫には気の毒だが」
「何が気の毒なものか。あんな、女らしさの欠片もない王女を押し付けられた俺のほうこそ可哀そうだろう」
「あなたが湿度の高い女は重いし、面倒くさいし、鬱陶しくて嫌だと言っていたから、ずっと我慢していたのではありませんか! この大嘘つき!」
ぶち切れたカレンは、そう叫ぶやいなや婚約者だった男の頬に往復ビンタを食らわせた。お付きの侍女たちは、顔面蒼白で固まるばかり。日頃、虫をも殺さぬと言われた穏やかな王女の絶叫に周囲は上を下への大騒ぎだ。しかし、カレンは素知らぬ顔でおろしていた髪を束ねながら王城を駆け抜け、自室へ戻るやいなや、仕上がったばかりの花嫁衣裳へ着替え始めた。騒ぎを聞きつけた妹姫が部屋に追いかけてきたが、カレンは意にも介さない。
「お姉さまったらひどいわ! いくら憎たらしいからって、暴力に訴えるなんて!」
「可愛い妹への最後の餞別です。かつてその男は『お前の愛は重すぎる、鬱陶しい』と言って、私を毛嫌いし、奴隷のように扱いました。だからこそ、私はあえて一線を引いたやり取りに固執していたのです。今世でも縁あって婚約を結んだのですもの。同じ轍は踏みたくないでしょう?」
「何をおっしゃっているのか、よくわからないわ……」
「あの男は、そういう男なのです。確かに私は、重い女でしたわ。朝、あの男より先に起きて化粧をし、あの男が所望する朝食を作り終えてから起こしてやりました。着替えはもちろん手伝ってやり、昼の弁当も持たせてやりましたわ。まあ、あの男はこんなみっともないものなど食えたものではないと残したり、捨てたりしていたようですけれど。化粧が派手だといわれればすっぴんになり、他の男と話すなと言われれば職場を変えました。彼の女遊びだって我慢したものですし、他の女と遊ぶためのお金だって用立ててやりました。夕食も出来立てが食べられるように準備して食べずに待っていましたし、出来合いのお惣菜や冷凍食品を使うことだってなかったのですよ? そんなだめんずでも、私は本当に愛していたのです」
「……だめんず?」
カレンの叫びは、笑ってしまうくらい次々にあふれ出てくる。あの時言えなかった言葉や気持ちは、時を越えてなお彼女の中に溜まり続けていたらしい。彼女だって、妹にそのすべての内容が伝わっているとは思っていない。ただ、言わずにはおれなかったのだ。そこへカレンに頬をぶたれた元婚約者が飛び込んできた。
***
「俺は知らん! そんなこと、俺は身に覚えがないぞ」
「あなたはいつもそればっかり。俺は悪くない。俺は言っていない。俺は知らない。俺は覚えていない。俺は。俺は。全部、『俺』のことばかり。それならば、最初から私のことなど受け入れなければよいではありませんか。私の好意を受け入れておきながら、最後にはゴミのように捨てる。優しくされたぶんだけ、捨てられた時は辛く苦しいということがどうしておわかりになりませんの?」
「お、お姉さま」
「あなたもお気をつけなさい。この男は、自分の都合が悪くなると、簡単にてのひらを返すのです。大事なことは、人前で約束をしなさい。何かあれば、口約束ではなく書面にしておきなさい。それがあなたを守る力になります」
「違う、そんなことはない、ただ俺は!」
「ああそうそう、彼には結婚を約束した恋人が六人ほどいますので。手切れ金を渡すなり、妾としてお手当てを出すなり、きちんとしておくように。あなたも後ろから刺されたくはないでしょう? 私だって、いくらあなたのような妹でも他人に害されることは望みません」
「嘘でしょう! 一体どういうつもりよ!」
「やめろ、その手を離せ!」
カレンの言葉に、妹姫と元婚約者は修羅場に突入してしまった。そんなふたりを捨て置き、カレンはあっという間に身支度を調える。
「おい、どこへ行く!」
「この格好を見ても、お分かりになりませんか?」
「お前は、俺を捨ててあっさり他の男と添い遂げるような女なのか!」
「あなたが私の妹に手を出さなかったとして。魔王さまからの書簡が届いた際に、もしも一緒に逃げようと言ってくれたなら、国も民も見捨てて一時の夢にすがってしまいたいと思ってしまったでしょう。そう言えるほどにはあなたのことを大切に想っていたつもりですが」
「俺は……。俺は……」
先ほど、往復ビンタで報復を終えたこと、魔力強化させた拳で元婚約者に止めを刺さなかったことは、カレンの優しさだったことに彼はきっと永遠に気が付かないに違いない。かつて自分を捨てた男に再び出会い、やはりこの男が運命の相手なのではないかと、相手の望む控えめな女を演じたことはそんなにいけないことだったのだろうか。愛も重く、拳も重い。それが本当のカレンなのに嘘をついたから、また同じように妹に寝取られるのだろうか。
「お姉さま! ごめんなさい、やっぱり」
「カレン、行くな! 俺は」
「ええい、うるさい。いい加減、ふたりともその口を閉じなさい。これ以上人間の言葉によく似た何かを吐き続けるようであれば、魔物と見なして容赦いたしませんわよ?」
「ひどい」
「そんな……」
「この世界にも、いい加減うんざりですわ。一足先に、魔王さまの元へ向かわせていただきます!」
被っていた猫を投げ捨てたカレンは相当お行儀が悪かった。目を白黒させる妹姫とすがりつく元婚約者をあっさりと足蹴にすると、彼女は指笛を鳴らす。そうして空を越えてやってきた天馬にまたがると、ひとり魔王城の謁見の間に飛び込んでしまったのである。
***
「カレン姫よ、なぜ魔力の刃を自分に向ける。その刃をわたしに突き立てれば、わたしは簡単に倒れただろうに。裏切り者にはふさわしい末路だろう?」
「裏切り者? 魔王さまとあろうお方が、笑えない冗談ですわ」
「冗談ではないのだが。君を傷つけた裏切り者に、わたしは加えてもらうことさえできないということか」
少しだけ低くなった声に、カレンはぞくりと背筋を震わせた。
「そもそも脆弱な人間である私に、魔王さまは倒せませんわよ?」
「今回も、君は自分に聖女の血が流れていることを知らないのか」
「……今回も? もう一度、お伺いいたします。どうして私があなたを殺さねばならないのでしょう?」
「古今東西、魔王は深窓の姫君を不当な手段で手に入れようとする生き物で、そのような卑劣な生き物は勇者によって退治されると決まっているからだ」
とうとうカレンは、戸惑いのあまり両手を下ろしてしまった。集中力が途切れてしまったせいで、魔力で作り出した刃も消失している。それでも、周囲はカレンを取り押さえようとはしなかった。魔王の不穏な台詞を聞いていたにも関わらずだ。どうやら魔王は、同胞たちに絶大なる信頼を抱かれているらしい。
「私はあなたと結婚して幸せに暮らすために、ここへ来たのです。どうして夫となるひとに、刃を向けることができましょう」
「だが、自分にはためらいなく刃を向けたではないか。それほどまでに、わたしとの結婚が嫌だったのだろう? やはりわたしの裏切りを覚えているのでは?」
「またそのお話ですか。魔王さまの裏切りだなんて、心当たりはございません。それに私の言葉をお忘れになってしまいましたの? もう一度思い出してくださいませ。私が、先ほどなんと言ったのかを」
「君がここへ飛び込んでくるなり口にしたのは……」
――あなたが私を愛さないとおっしゃるのなら、いっそこのまま殺してくださいませ。白い結婚などまっぴらごめんですわ――
カレンの言葉の意味を理解したのか、魔王がゆっくりと片膝をついた。小柄なカレンにも、ようやく魔王の顔が見えるようになる。整いすぎた男の顔には、ただただ驚きばかりが浮かんでいた。
「私の望みは、愛し愛されたい。ただそれだけなのです」
どうやら、カレンが婚姻を受け入れるとは最初から考えてもいなかったらしい。嫌われていたり、人質として粗末な扱いを受けたりすることはなさそうだが、それにしても意味が分からない。カレンは困ったように小首を傾げると、疑問を直接ぶつけることにした。
「聖女の血を引いていると言う話が真実だとしても、私が敵対することを恐れるならば、わざわざ婚姻などというまどろっこしい方法をとらずとも、排除すればよいだけの話です。なぜこのような形を選んだのですか?」
身もふたもないあけすけな物言い。けれど、魔王は小さく首を振り、カレンの髪を撫でた。
「……だ」
「はい?」
「……君を妻にと要求すれば、今代の勇者が乗り込んでくると思ったのだ」
「魔王さまは、天敵である勇者に会いたかったのですか? ですが残念ながら、今代の勇者はいまだ見つかっておりませんが」
「君が魔王に無理矢理さらわれれば、君の婚約者が勇者としての力に目覚めるのは、自明の理だろう? それでわたしが倒されれば、君は世界を救った勇者の妻となり幸せになれる」
「それは、さすがに夢を見過ぎではありませんか? そんな風に都合よく、世の中は回りません」
「だがしかし、あの男は勇者の血を引いている。君は、感じたことがないか?」
「私が元婚約者について知っているのは、女性にいい顔をしがちで、気が付けば浮気ばかりしていること。そんな馬鹿なことをされているにも関わらず、私があの男を切り捨てることができなかった愚かな女だったということだけです」
悔しさと恥ずかしさを噛みしめ下を向いたカレンの頬を、魔王はそっと優しく撫でる。それから仕方がないのだと小さく微笑んだ。
「それは勇者の血筋の特徴だな。いつどこで死ぬかわからないのだから、隙あらば種をばらまこうとするのは勇者の本能だし、そんな勇者を嫌いになれないまま庇護してしまうのは聖女の特性だ」
「本能に振り回されるなんて。勝手に家に押し入って、家探ししていく勇者も、理由もなく勇者に惚れる聖女も最低ですわ」
「残念ながらこれらの関係性は、タンスを勝手に漁る勇者や『ゆうべはお楽しみでしたね』と翌朝からかってくる宿屋の主人よりも一般的なのだ。この世界では」
「まさか、そんなゲームの世界でもないでしょうに」
思いもよらない表現に、カレンはぎょっとする。この世界では絶対に聞くことのできないはずの表現を、どうして目の前の魔王は知っているのか。
「もちろんわたしは、君に会うために頑張って世界を手中におさめたよ。やはり魔王は、自分と手を組む相手のために、世界の半分を差し出すべきだからね。それが叶わぬ恋の相手でも」
「え」
「その反応、君にも前世の記憶があるということで間違いないのだろう? だが、やはりわたしのことは思い出してくれないのだな。結局わたしは、またあの男に負けたということか」
そこでカレンは、ようやく違和感の正体に気が付いた。この魔王もまた、どうやら自分と同じくかつて日本で暮らした記憶があるらしいことに。
***
カレンには、かつて華恋として生きていた記憶がある。当時、日本で社会人として生きていた華恋もまた、激重女子だった。好きになったら一直線。華恋の見た目が可愛らしかったおかげか、ストーカー扱いされないことだけは救いだったものの、付き合ってもすぐに相手に「重い」と言われて振られてしまう。
それでもまだ結婚が視野に入っていない学生の頃ならばよかったが、そういうお年頃になり婚約までした相手に捨てられた華恋は、とうとうおかしな方向に突き進んでしまった。裏切った相手が自分の実の妹とできちゃった結婚をしてしまったという事実に、タガが外れてしまったらしい。
絶対に自分を裏切らない相手を見つけようと決心した挙句、何をとち狂ったのか地元でも評判の悪霊と添い遂げようとしたのである。
華恋が目をつけたのは、近所の古びた一軒家に出るという悪霊だった。その一軒家は、何か事件や事故があったわけでもない。唐突に悪霊が湧いて出たあげく、ある日突然いわくつき物件になってしまった気の毒な建物なのである。
何人もの有名な霊能力者やら撮影クルーが出入りするものの、建物の雰囲気は日に日に悪くなるばかり。霊感どころか0感の華恋ですら何かが変だと思うくらいなのだから、きっといるのだろうという確信もあった。そしてある日、彼女はその家から出てくる霊能力者が首を振りながらこう呟くのを耳にしたのである。
「あれは、いかん。自分のために命と心を捧げてくれるような、そんなけったいな女子でもおらねば祓えん。しかも、素直に天に昇るわけでもなく、一生離れず執着するに決まっておる。まったく難儀な男じゃて」
それを聞いた華恋は歓喜した。ようやく、自分を裏切らない相手に出会えると思ったのだ。相手にも選ぶ権利はあると思ったが、押して押して押しまくって相手が絆されたところで勝負を決めるのは華恋の得意技である。
何があっても決して訴えないと大家に頼み込み、住み始めた華恋が出会ったのは真っ黒で巨大な人影だった。そして嬉々として「彼」との共同生活を始めたのだ。
霊感ゼロの華恋には、人影が何を考えているかなどさっぱりわからない。けれど、華恋が家にいればそれは華恋のそばに来たし、食事を出せばどうやっているのかしっかりと皿の上から消えていく。ことあるごとに華恋を邪魔扱いし、作った食事も無駄にする元婚約者とは雲泥の差だ。勝手にサンディと名前を付けてからは、人影もそれが自分の名前だと認識しているように見えた。
その日あったことを人影には話していれば、人影は何か言いたいことのあるあひるのように縦に伸び縮みしたり、驚いた猫のようにまんまるに膨れ上がったり、ご機嫌な犬のように身体を揺らしたりした。そんな風にちょっとした反応を返してくれるだけで、華恋は満たされたのだ。人影だって、そんな華恋のことは嫌っていなかったように思う。けれど、終わりはある日突然訪れた。
真っ黒だった人影が、唐突に光の欠片になって消えていく。こんな話は聞いていない。死ぬときは一緒だ。相手に執着し、一生離れずにそばにいる。そういう約束ではなかったのか。霊能力者の言葉からは予想できなかった結末に、華恋は絶叫する。
「……どうして、私を置いていくんですか。永遠に一緒って誓ったくせに。死んでも離れないっていうのは嘘だったと? サンディの裏切り者おおおおおおお」
華恋の叫びが引き金になったのか、家がぱらぱらと崩れ出す。いつの間にか、廃屋同然に強度が弱くなっていたのかもしれない。それを見て少し慌てたような動きをしていた人影だったが、もうもうと湧く埃やらなにやらにまみれてすっかり見えなくなってしまった。
「ひどい。最後の最後に、私のことをひとりぼっちにしていくなんてあんまりです。絶対に許さないんですから!」
その後のことを華恋は覚えていない。悪霊が成仏した直後に、建物が崩壊したため、きっと華恋は圧死したのだろう。その時、彼女は決めたのだ。生まれ変わった次こそは、絶対に幸せラブラブカップルになってやるのだと。
まあ結局のところ、前世と同じように今世でも婚約者と妹に裏切られたし、前世の悪霊的な魔王にはよくわからない難癖をつけられているのだけれど。そう思っていたけれど、もしや魔王というのは。
***
「まさか、サンディ?」
「ようやっと思い出してくれたようだね?」
「忘れたことなんてなかったです。私を裏切って、ひとりぼっちにした嫌なひと」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、カレンは魔王に抱き着いた。
「ついうっかり、君の住む異国に島流しをされる形で封印されていてね。魔力のない世界では、魔王として存在することすらできずに、悪霊として正気を失うはずだったんだ。それを救ってくれたのは、君だ」
「私?」
「君は、自分の生命力を魔力に変えてわたしに捧げてくれた。まっすぐな愛を与えてくれた。わたしの声が君に届いていないことは知っていたけれど、わたしは毎日、君に感謝の言葉を捧げていたんだ」
「感謝の言葉より、愛の言葉が欲しいです」
「そのつもりだったさ。だから、君が死んだらこちらの世界に来るように印をつけた。けれどわたしが君を見つけたときには、君にはすでに婚約者がいた。前世の君の相手と同じ魂を持つ男だ。どうやら君が死んだすぐ後に、あの男も死んでいたらしい。彼は愚か者だ。前世で失敗をしたというのに、同じ間違いをするまで過ちに気が付かない」
「どういうことですか」
「君が知る必要のない話だ」
大きな奇妙な人影だった頃は、楽しく過ごしていたけれど、別れの気配に怯えていた。声も届かず、気持ちも勝手に推測することしかできなかった。けれど、今は違う。手を伸ばせば、温度があり、言葉がある。何よりも、自分を見る目が雄弁に物事を語っていた。
「もっと早く、私を求めてくださればよかったのに」
「君が彼と幸せそうなら、手を出すつもりはなかったんだ。代わりに魔王としてせっせと働けばいいと思っていたんだよ。君が呼んでくれた名前はそのまま、サンディ……アレクサンダーとしてね」
「……そう、だったのですね」
かつての人影とはまったく姿形が異なるのに、彼女が求めていた愛を彼はあふれんばかりに与えてくれる。自分が悪役になったとしても、カレンが幸せならば満足だと微笑んだままで。底が割れたコップのように、カレンはきっとどれだけ愛情をもらっても安心できない。そんな彼女に愛をくれるサンディのことを、今度こそカレンは離さないだろう。魔力の刃で切り裂かれていたはずの肌は、魔王に舌でぬぐわれるとあっという間に滑らかさを取り戻した。
「そういえば、どうしてサンディと名付けてくれたんだい。あの国は、横文字が一般的な場所ではなかっただろう?」
「ふふふ、内緒です」
まさかここで、悪霊といえば井戸の底から出てくる髪の長い例の彼女だから、男性でかつ西洋風にアレンジしただけとは答えられなかったカレンは、にっこりととびきりの笑顔で質問を黙殺した。華恋と暮らすうちに、ゲーム知識もすっかり蓄えてしまった魔王である。名前の由来も最初からわかっているような気がしないでもないが、やはり言わぬが花だということもあるだろう。
***
城の謁見の間に窓から飛び込んで啖呵を切り、公開プロポーズ。そのまま飲めや歌えの結婚式に突入してから、しばらく後。たっぷりと蜜月を過ごし、久しぶりに城の執務室に夫とともに顔を出したカレンは、ふと疑問を口にした。
「それにしても、私の母国から婚礼用の荷物が届きませんね。いくら政略結婚とはいえ、いいえ、政略結婚だからこそ我が国以外の人族の国々から贈り物やら挨拶がくると思っていたのですが。結婚式に間に合わなかったから、送っても意味がないと思われたのかしら?」
「カレンは、誰か会いたいひとでもいたのかい?」
「いいえ、特に? むしろ今さら誰にここまで来られても、ひっかき回されるだけですし、ちょうどよかったかもしれませんね。ただ個人的に、和睦のための政略結婚なのに立会人やら調印やら不要だったのかということだけは気になっていますが」
「それならよかった。大丈夫だよ。ちゃんと、向こうからお祝いの品は届いている。それに君にぜひ会いたいというひとも来ていてね。ただ彼は二度も君を裏切っているし心配でね、奥方ともに大丈夫そうだと確信できるまで例の塔に入ってもらうことにしたんだ」
魔王が窓の外に見える白い塔を指差す。
「もしかして元婚約者と妹がここまで来ていたのですか。外交に向いているひとたちではないのに、何を考えているのでしょう。ですが、あの塔というのは私たちが蜜月を過ごした塔のことでしょう? わざわざ新婚生活を満喫させてあげてどうするおつもりなのです?」
「ははは、カレンならきっとそう言うだろうと思った」
「だって、私も執務なんてせずにあの塔でのんびり過ごしていたいですもの。誰にも邪魔されることなく、愛するひととのふたり暮らし。羨ましい以外の何があるのでしょう。まあ、確かに公務で来たはずの他国で新婚イチャラブ生活を公認してもらうのは、羞恥プレイかもしれませんが」
「ちなみに、わたしが日本で無意識に創ろうとしていたのも、あの白い塔と同じようなものだったのだよ。わたしが浄化されてこちらに戻ってきたせいで、ほころびが生じて、家屋が崩壊してしまったのだけれども」
「ええ、そうなのですか。あの屋敷、あんなにきらきらしていませんでしたよ。どちらかといえば、おどろおどろしい蜘蛛の巣みたいでしたが」
「本能だけが暴走していた状態だったからね。面目ない」
もしかしたら存在していたかもしれない未来――愛してもいない相手に愛され、閉じ込められ、ひたすらに愛を乞われる状態――と、今ある地獄――お互いに相手にうんざりしていながらひとつどころに閉じ込められる――は、どちらがより不幸なのか。魔王はひとりただ静かに口角を上げる。
カレンの鉄拳により記憶を取り戻したらしい元婚約者が、彼女に近づくことはないように、けれど遠くにおいて何か自分の知らないことを勝手にやり始めることがないように、魔王は元婚約者たちを手元で監視することにした。既にカレンの祖国へは、通達済みだ。力が違いすぎることもあり、彼らは魔王の申し出をすべて受け入れてくれるそうだ。
塔の中からは、カレンの幸せそうな姿がよく見えることだろう。永遠に手の届かない愛しいひとを目の前にして、いつまで元婚約者――今代の勇者――が正気を保っていられるか。魔王は側近たちと賭けをすることにしている。
カレンは、頬杖をつきながら執務室の窓からうっとりと見上げた。彼女の脳内にあるのは、魔王との甘い日々だけ。もはや、元婚約者たちのことなど欠片も記憶に残ってはいない。惜しみない愛を注がれて、カレンは完全に魔王に染められた。『愛の女神の花かご』と呼ばれる硝子細工のような白い塔は、今日も光を反射してきらきらときらめいている。
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