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僕の初恋のひと

作者: sagitta

「永遠の少女」というお題で書いた、掌編作品です。

 初恋の人のことを、僕はたまに思い出す。

 あの時の僕は十三歳、恋と呼ぶのも気恥ずかしいような、若くて愚かで透き通っていて残酷な年頃だった。

 ある夏の暑い日に、僕は彼女に会った。石膏の彫刻のような、美しい少女だった。古い映画のワンシーンのように所々不鮮明ではあるけれど、その時の映像は今でも心の中で再生することができる。音はない、無声映画のように、だけど。

 僕は焼けつくアスファルトの上に立っている。真上から降り注ぐ容赦のない太陽と地面からの照り返しで、空気はぐらぐらと揺れている。わずかに吹く風は熱い空気をかき混ぜるだけで、僕は全身から隈なく汗を滴らせている。

 そこに、不意に彼女があらわれる。いつの間にそこにいたのか、思い出せない。まるで、画面の中心に小さく僕を映していたカメラが突然、彼女のアップに切り変わったように、彼女は予感もなく現れて世界の中心になった。

 彼女は、土の上にまだらな影を落とすけやきの木の下で、白いワンピースを着て大きな麦藁帽子をかぶっていた。ワンピースの白は強い太陽の光にさらされて、透き通っているかのように見える。僕はあわてて視線をそらした。ほんの一瞬だけ。すぐに耐えきれなくなって、僕は視線を彼女に戻してしまう。目をそらさずにいられない何かが、彼女にはあった。

 僕を汗だくにしている気だるい空気が彼女の周りだけ避けているかのように、その整った顔にはわずかな汗も浮かんでいなかった。――そう、その時初めて、僕は彼女の顔を見た。そして、恋に落ちた。

 恋、などという言葉を日常で使うことなど、一度としてなかったその頃。だけどその瞬間に僕は、自分が恋に落ちたことを確信していた。

 ああ、恋って、こんなものなんだ。今すぐに走って行って、その華奢な体を優しく抱きしめたい。ただそれだけの、ひたすらに純粋な想い。それ以外のあらゆる思いは、僕の中から一瞬に消え失せていた。自分が何者なのか、自分の居場所はどこにあるのか。いつも片時も休まずに考え続けていたそれらのことさえ、どうでもいいように思えた。

 実際、その時僕は僕の中にたった一つ残った想い――つまり、今すぐに走って行って彼女を抱きしめたいという想い――を、もう少しで実践するところだった。

 辛うじて僕がそうしなかったのは、意を決して見つめた彼女の表情が明るいものではなかったからだ。哀しそうな――いや、寂しそうなのかもしれない。決して泣いているわけでも、眉間にしわを寄せているわけでもなかったが――彼女の美しい彫刻のような顔に、しわがよることなど想像もできなかったのだけど――一見、無表情にも見えるその面持ちは、注意深く見なければ見逃してしまう程度に、わずかに沈んでいた。彼女の表情のその密かな違和感に気づいたことに、僕は少しだけ誇らしげな気持ちになり――そしてどうして彼女がこの夏の太陽の下でそんな表情をしなくてはならないのだろうと考えてみた。

 実際、すこぶる気持ちのいい日だった。もちろん、溶けてしまうほど暑い事を除けば、だけど。白いワンピースを風にそよがせた彼女には、その暑さも届いていないように思われた。太陽は輝き、小鳥はさえずり、時折吹くかすかな風が、緑の葉達たちをタンバリンのようにさらさらと奏でていた。

 まだ十三年しかこの世で歳月を重ねていない僕には、彼女の哀しそうな、寂しそうな表情の意味が想像できなかった。それがひどく悔しくて、僕は、消えてしまいたくなるくらいだった。

「どうしてそんな顔をしているの?」

 いても立ってもいられなくなって、僕はそう尋ねていた。尋ねながら、自分が言葉を発することで彼女の存在が跡形もなく消えてしまうのではないかと怖れ、そうならないことを切実に祈っていた。

 幸いなことに、彼女は消えなかった。その言葉ではじめて僕の存在に気がついたように――実際、そのとおりだったのだろう――次々に流れていく時間に抵抗するかのようにことさらにゆっくりと、僕の方に視線を動かした。もともとこちらから彼女の表情が見えたくらいなのだから、彼女が顔を動かしたのはほんのわずかな距離なのだが、それにかかった時間は途方もなく長く感じられた。

「あなたには、まだわからないわ」

 そうして、彼女は答えた。しっとりと肌をぬらす、音のしない雨のような声だった。

「どうしてそんな顔をしているの?」

 僕は繰り返した。子ども扱いされたことが悔しくて、さっきよりも幾分早口になる。そんな自分の様子がひどく子供じみていて、言った側から恥ずかしくなる。

 彼女は微笑んでいた。顔に浮かんだ哀しさと寂しさはそのままに。子供っぽさを笑われたのだと感じて顔が熱くなった。

「ここにある美しいものがすべて、いつかはなくなってしまうものだと思ったら、ひどく哀しくなってしまったのよ」

「すべて?」

「ええ。鳥も木も、風も太陽も」

 そんなことあるもんか。僕はからかわれているのだと思った。鳥や木はともかく、風や、太陽がなくなってたまるものか。

 僕が顔を赤くして、何かを言い返そうと頭をめぐらせていると、彼女が不意に僕の肩を叩いた。石膏の彫刻のような彼女の細い手はひんやりと冷たくて、少しのぬくもりも僕の肩に与えることはなかった。

 驚いた僕は、彼女にむかって両手を伸ばす。今度こそ彼女を抱きしめようと思ったのだ。僕の手が、彼女の肩に触れたと思ったとき――すべては消え失せた。彼女の白いワンピースが風に揺れるさわりとした音だけが、残響のように耳の奥に居座っていた。

 そんなわけで、僕の初恋は終わったのだった。


 あれから長い年月がたった。幼い子供だった僕は大人と呼ばれるようになり、同い年の妻と二人の子供のいる家庭を作った。月並みな、幸せな生活だ。

 あれからもたびたび彼女に会った。決まって、夏の晴れた暑い日だ。どれだけ月日がたっても、彼女は初めて会った頃のままだった。石膏の彫刻のような美しい姿で、哀しそうな、寂しそうな表情を浮かべて、木を鳥を、町を世界を、風を太陽を、眺めている。

 あれ以来僕は、一度も彼女に声をかけていない。彼女は、時の向こう側の存在だ。こちら側で時を刻む僕らには、捕まえることのできない蜃気楼。彼女に会ったとき僕は、何も言わずに彼女の哀しそうで寂しそうな表情を眺め、彼女が静かに微笑んで、消えてしまうのを待つ。

 だけどいつかは、彼女にこう伝えたい。

 なくなってしまうことは哀しいんじゃない。

 永遠にここにあることが、寂しいんだ。

 だけどまだ、彼女にそれを言うことはできない。

 僕自身がそれを、自分の言葉として深く飲み下してしまうまでは。

 僕は密かに彼女のことをこう呼んでいる。

 永遠の少女、と。


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[一言] 背景や状況を丁寧に描写しようと意識していることがよく分かります。 そのことに気を遣いすぎて、肝心のストーリーに芯が無いように思えます。 しかし、透明感のある清々しい作品で、読み終わった後の感…
[良い点] 風景描写や目に見えるものを言葉に表すのがとても上手で 文章から情景が映像のように進んで見えました。 何気ない一つ一つの仕草や風景が こんなにも美しく表現することができるなんて、とても羨まし…
[良い点] 映画の一場面を観ているように、情景が浮かんできました。 物語は無理なく流れており、謎を残したままでも読了感は悪くありませんでした。 [気になる点] 「まるで~のような」という表現が多いので…
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