ただ選挙に行くことが、もったいないからとこの時だけ政治家が流す聞こえのいいもので民主主義をやった気になってよいのか。勿論、選挙には行くべきだが。
私が求める政治とは、世界の現象として個人から体外化されたものでなく個人の内面・内宇宙で認識と想像に由来する中動態と愛としての場を創造することである。
もうすぐ参院選の投票があるということで各陣アピール合戦を展開しているが、私は億劫としてしまう。それは安直に無投票棄権に乗じるということではなく、
『ただ選挙に行くだけが、もったいないからとこの時だけ政治家が流す聞こえのいいもので民主主義をやった気になっていいのか』
ということである。無論、選挙に行くべきなのは疑う余地はない。
しかし、今この目前で繰り広げられる政治というものが、本当に政治をし切れているのか? と感じてしまう。つまり、今我々の目前で政治だと思われているものが、実は一握りの人物の思惑や得のために行われる、政治ではないただの遊園地ではないのかと思ってしまうのである。そうなれば結局、我々の投票という行為もその遊園地にフラッと遊びに行っただけに過ぎない。一握りの人物の思惑や得のために行われる政治といったが、それは独裁政治でありれっきとした政治体制の一つであるかもしれないが、それこそやはり国民と国家というものは強大な独裁者の下で玩具よろしく人権など無く遊ばれるしかない、血まみれの遊園地である。
では、私の求める内面・内宇宙の中動態と愛の場という政治とは、自民、立憲、公明や共産、れいわ、維新、国民民主etc…、を内面・内宇宙の自己の裡で己自身が変化して演じることで実在の永田町の政界と自己の裡の政治の間で関係を立ち上げ、それらの背後の認識と想像を鍛えることによって、単純でありながら非常に巧緻な市街劇=我々の現実に演劇的感性の場を組み込む、ということである。それすなわち、世界の多重性・多層性を認識・想像するための虚構と現実の見地である。自己の裡の内面・内宇宙で演じることによる世界の多重性・多層性の政治とは、すなわち個人がどれだけ他者と世界の体外化された諸要素と向き合い己が裡に取り込めるか、その方向へと示される。しかしそれだけでは実際の永田町の政治など動かせぬと思うかもしれないが、目指すべきは権力のともなった永田町の政治と共にもう一つの片輪として、国民そして個人個人に内面・内宇宙の中動態と愛の場=市街劇という政治である。それがまずしっかと確立しなければ、片輪だけの政治となり認識や想像の香りもなければ、世界の多重性・多層性も無い一握りの人物の思惑や得のために行われる血塗られた遊園地となる。だからそのために政治というものを両輪として機能させるための、民主主義の、中動態と愛の場=空間・ある種の機構やシステムの政治の建設を目標しなければならないのではないか。
しかし、何故私が政治において『愛、演じる、市街劇、内面・内宇宙』を重要視したかと問われれば、民主主義について、世界に在る形無き主体=中動態への想像力を組み込むことが喫緊の課題であると考えているからである。中動態については國分功一郎氏の著作が詳しいが、私の言葉で言うなら、何かをする「能動」でも、何かをされる「受動」でも、つまり明確に何かをする・されるという領域にない、「私の心の中では思っているが実際に行為にならない(=能動受動でない)」だそうである。
その喫緊の課題とは、「目に見える実体、物質代謝の世界では必然の歴史として人類の滅亡を受け入れるべきか」ということである。昨今の世界情勢を見て、気候変動や格差等を考えてみると、人類は滅びの道を着実に進んでいると笑っていられる状態にない。その上でも今、目に見える実体、物質代謝の能動受動にとらわれていては、その歴史の法則の下に人類は滅亡からおそらく逃れられないだろう。今の私の行動は意図に関係なくこの物質代謝の歴史の法則下にあり、そしてこのまま行けば盛者必衰は当然の成り行きといえる。もし少しでも延命をはかるという地球史上類を見ない一大事業を興すならば目に見える実体物質代謝の歴史を超える認識と想像、内面・内宇宙の中動態と愛の場=市街劇のような新しい領域の具現化が必要かと考える。
しかし、目に見える実体物質代謝の歴史は、まさに今までの人類の歴史そのものでもあり、それすなわち過去から今現在までの人類の世界=国家と権力、と、最も可視しやすい形で存在している。その実体たる国家と権力を前に、一個の肉体個人というものは内面・内宇宙の認識と想像による中動態と愛の場=市街劇は敵わないどころか何にもならない。しかしそうだったとしても、それを、世界に在る形無き主体を、確立させ目に見える実体物質代謝の歴史=国家と権力と向き合って行けるか、その力が、想像力があるか。それが永田町の政治=権力と両輪となれるか、ということである。これは永田町の政治や国家や権力、そして物質代謝の歴史を打破せよ! というわけであろうはずはない。両輪として、それらを確立させることに注力する。それこそ世界の多重性と多層性を示すことである。
まずその第一歩として、考え想像して、投票しよう。
選挙に行くべきなのは疑う余地はないのだから。