「劣等感」という、我が人生に欠かせない相棒について
近年、「早生まれの不利」についての話題をちらほら耳にする。
ちなみに自分も早生まれで、不利については間違いなくあると感じる。
考えてみてほしい、場合によってはほぼ一年、体格も知能も経験も違う子たちが同じフィールドで学び、競うのだ。
不公平極まりない。
しかも、まだ道徳心のない小学生の頃などは「しっかりやれよ」「トロいんだよ」みたいな言葉をよく浴びた。
その結果、我が心には確かな「劣等感」が、しかと刻まれたのだ。
今でもはっきりと覚えている、こんなエピソードがある。
小学校低学年の時の、給食当番のある日......隣で配膳をしていたクラスメイトにこう言われた。
「これだから早生まれは嫌なんだよ!」
早生まれ、という言葉も知らなかったので最初、意味がよくわからなかったのだが、そのクラスメイトが自分に苛立っているのはわかった。
何かミスをした記憶はないのだが、手際が悪いと思われたのだろう。
その頃には既に「自分は物覚えが遅く、どんくさい人間なんだ」という意識が芽生えていたので、彼の言葉に萎縮してしまった。
では「親ガチャ」のように、「生まれ月ガチャ」に外れたと、親を恨んでいるだろうか?
実は……恨むどころか、振り返ってみるとこの小学生時代に抱いた「劣等感」が、その後の成長の糧や活力や助けにもなっていたりする。
今ではむしろ、劣等感は我が人生の「相棒」であり、なくてはならない存在とさえ思う。
そのことについて、今回のエッセイでは語ってみたい。
それでは早速だが、なぜ自分は劣等感を「相棒」とさえ思うのか。
その理由はこれまでの人生を振り返ったとき、劣等感がいくつもの「メリット」を与えてくれたからである。
大雑把に挙げると、
・メリット1 人一倍やるのが当たり前
・メリット2 壁や挫折に直面した時にダメージが少ない
・メリット3 人に優しくなれる
あたりだろうか。
探せば他にも沢山あるだろうけど、今回はこの三つに絞ってご説明したい。
・メリット1 人一倍やるのが当たり前
小さい頃から「自分は他人より劣っている」と思い続けてきたため、「人並みに何かをこなすには人一倍やらなければいけない」という意識が染み付いている。
子供の時はそれが「周りについていくため」だったのだが、ある出来事をきっかけに、「人一倍やれば追いつくだけではなく、追い越すこともできる」という意識に変わっていった。
それは友人宅でみんなで、「ぷよぷよ」というパズルゲームを初めてプレイした時のこと。
自分と同じく、初心者だった友人にボコボコにされたのだ。
同色の「ぷよぷよ」を4つくっつけると消える、自分はそれだけで精一杯だったのに、彼はすぐにコツを掴み、「連鎖」まで組めるようになり、どんどん攻撃してくるのだ。勝てるわけがない。
悔しい。実に悔しい。
いくらなんでも悔しかったので、勝てるように操作方法をじっくり身につけ、連鎖の組み方を考案し、練習しまくった。
するとある日、ボコボコにしてきた彼を完膚なきまでに打ち負かせたのだ。
このぷよぷよでの勝利体験によって、「人並みになるには人一倍やらなければいけないが、やり続ければ人を追い越すこともできる」という自信を持つようになった。
また、今では「結果は経験の副産物」だと思っている。
何事もスマートにこなせる人は羨ましいが、「人一倍やる」「回り道をする」ことは、他人よりも多くの経験や発見をすることもでき、それはそれで悪くはないとすら感じている。
・メリット2 壁や挫折に直面した時にダメージが少ない
音楽をやっていると、「上には上がいる」「自分が思いついたアイデアや身につけたテクニックを使っている人は既にいる」などの現実を、これでもかというほどに突きつけられる。
その上、苦労して開いた突破口や手にしたポジションもあっけなく閉ざされ、奪われる。
つまり定期的に、壁なり挫折なりと直面するのだ。
「三歩進んで二歩下がる」とはよく言ったものだ。
しかしそんな時、ふとこう考える。
「そもそも、自分は出来損ないじゃないか」と。
出来損ないなのにここまでこれた、出来損ないなのによく頑張ってる......そう思うと心のダメージが軽減され、「やれやれ、また0から始めようか」と歩み出す気になる。
「他人より劣っている」という意識は、「絶望を受け止めるクッション」にもなっていると感じるのだ。
そしてまた、三歩進んで二歩下がる。
それを繰り返すうち、結構前に進んでいたりする。
・メリット3 人に優しくなれる
自身が欠陥だらけでおっちょこちょいな人間だと思っているため、他人の失敗などにも寛容だ。
誰かがミスしても、「自分ならもっとひどいことになる」と普通に感じるので、全然許せる。
そうやって「他人に寛容になる(優しくなる)」、つまり「許せる力」を持つというのは、人間社会で生きていく中で非常に重要だと思っている。
第一に、人は一人では生きてはいけない。
そして第二に、人は必ずミスをする。
つまりお互いに助け合い、カバーしあうことでこの世の中は成り立っている。
寛容な自分にあれこれ押し付け、「利用しようとする人」ももちろんいるが、少数だ。
相手のミスを許容したりカバーすると、好感を持ってくれることの方が遥かに多い。
そして、自分がミスをした時に今度は相手がカバーしてくれる。
そもそも人間にできることなど限界があるのだから、欠陥のない完璧な存在になろうとし他人にもそれを要求するよりも、他人の欠陥を許容しお互いに協力しあう方が、遥かに簡単で効果がある、そう思っている。
ということで「劣等感のメリット」について三つほど挙げてみたが、これはある程度年齢と経験を重ねたからこう思える、というのは正直ある。
実際、20代の頃は上手くいかないことばかりだったし、その頃の自分がこれを読んでも、なるほどとは思いつつ「そう簡単にはポジティブになれない」とも感じるだろう。
なので最後に、もう一つだけお話をさせていただきたい。
自分は卒業後、普通の社会人ではなく音楽の道を志し、なんとか成功しようとガムシャラに動き......これまで沢山の人に出会ってきた。
TVに出る有名人・歌手、センチュリオンカードを持つ社長、美男美女、それから......。
その会う人会う人のことを詳しく知ると、体や心や家庭や会社やらに何かしら、重荷やハンデを持っていて......何一つ悩みも苦しみもない、「イージーモードの人生」を歩んでいる人なんて一人もいなかった。
人気者には人気者の、金持ちには金持ちの、イケメンにはイケメンの、美人には美人の、それぞれにしかわからない悩みがあり、苦しみがあり、どうやっても満たされない願望があり、コンプレックスがあった。
世間的・社会的に地位を持つ人たちでも、自身が抱える劣等感(早生まれの不利)のようなものを何かしら持っていると知り、「自分だけじゃないんだ」と思えたことは正直、勇気付けられた。
そして同時に、「みんな、何かを抱えながら日々を生きている、それだけで十分頑張ってるじゃないか?」と思うようにもなった。
早生まれの不利を抱えながら、周りについていくのがやっとだった小学生時代の自分のように。
時に、常識など一切通用しない理不尽な出来事が平然と起こる、そんな世の中で。
これをお読みくださっている皆様ももしかしたら、人には言えない悩みや重荷、消えない過去の傷や苦しみを抱えながら、今日という日を生きているのかもしれない。
自分はまず、それだけで十分素晴らしいことなんだ、頑張っているんだということを労いたい。
そして、ハンデや重荷を抱えながらも歩みを続けることで強くなり、成長している面もあるのでは、と。
20代の自分にも、今は辛いけど大丈夫、ちゃんと成長していると伝えたい。
そんな思いで、このエッセイを書いてみた。
そして今後も、劣等感という相棒と共に、我が人生を歩んでいきたいと思う。