夜の街 said:A/S
眩い光が消え、目を開けた。
「ここは……?」
先ほどまでガーナと歩いていた道ではなく、狭い路地裏のような場所に、茜は立っていた。
空に浮かぶ月が、見える範囲、視界のずっと先まで続いている壁と道を照らしている。
だがそれらは何処と無く作り物みたいで、今彼女がいるこの場所が、非現実的な空間である事を示していた。
「落ち着きなさい、私。こういう時こそ冷静に、物事に対処するのよ」
━━まずは、自分が置かれている状況の把握から。
家へと帰還中だった茜とガーナは、敵からの奇襲に遭遇した。
ガーナのおかげで、飛んできた短刀は直撃こそしなかったものの、編み込まれていた転送魔術によって2人は離れてしまった。
そして、今に至る。
「ここは結界の中…よね?。入り組んだ道があるのは知ってるけど、こんな場所は下野町に無かったはず」
彼女の立っている場所の左右は壁がそびえ立っていて、前後しか進む事が出来なかった。
壁を壊す事も考えたが、こんな所で力を使うのは無駄だし、もしかしたら敵の罠かも知れない。触らない方が良いに越したことはないだろう。
「さて、どうしようかしら。此処で待ってるってのものね……」
彼女は、首だけを振り向かせて後ろを見た。
その先は月の光が届いてないのか、ずっと暗くて。
…………自分の過去を見ているようだった。
「どんな事も、時に流されたら過去になる。だけどそれらは消えた訳じゃなくて、いつかまた何回も向き合わなくちゃいけない……」
茜は、前を見据えた。
「前か後ろにしか進めないのなら、私は前に進む。例えその道が、他人からすれば後ろだったとしても。私の目が、顔が、体が向いてる方向が"前"よ」
茜は壁に沿って歩き出した。
その足取りは重くもなく軽くもなく。
「何が待ち受けていようと、進むの」
ただ地面をしっかりと踏みしめて。
「あの子と、約束したんだから」
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悪魔が1人、道を歩いていた。
どのくらい歩いたのか分からないほど、ただ前へと進んでいる。
空には張り付けられたような月が浮かんでいて、道を照らしていた。
壁と道は延々と続いていて、風景が変わる事は無い。
もしかしたら、同じ場所をグルグルと回っているだけなのかも知れない。
「随分と歩いたわね…。30分?それとも1時間?月は動かないし同じ景色ばっかりで、時間の感覚が大分狂ってきた……」
少し休もうか。そう考えて足を止めた。
「……ん?」
急に、無音だったこの道に音が聞こえた。
ローファーの靴音。
それが段々と、こちらに近づいている。
月光に照らされて、靴音の正体が現れた。
「貴方が……悪魔さん?」
それは少女だった。知らない制服を着た女の子だった。
澄んでいて綺麗な、桃色の目をしていた。
両手を後ろに組みながら、人畜無害な可愛らしい笑みを浮かべている。
「……そうだけど。アナタは?」
「私?私はね、ある人に頼まれたの。彼女を待ってる間、暇になるだろうから話相手になってあげてって。私と話し合いをしましょう?」
彼女……とはおそらくガーナの事だろう。
あの人は今何をしてるんだろうか。
殺り合っているのか、あの長ったらしい話をしているのか。
彼女はああ見えて、結構な有名人だ。そういう人ほど、嫉妬や憎悪の目を向けられる。
過去の因縁でも吹っ掛けられたんだろうか。
━━いけない、今は自分の事を考えなくちゃ……
「それで、話って言うのは具体的にどんな事を話すの?」
「ええとね……学校とか、最近の事とか、ちょっと難しい勉強の話とか……かな?とにかく、色々と話したい事があるの」
「それは長くなりそうね。そうだとしたら、ずっとそのままなのは疲れない?」
少女は一瞬きょとんとした顔になって、すぐに笑顔に戻った。
その笑顔はさっきとは真逆で、攻撃性のある、妖艶でいて蠱惑的な笑みだった。
「なんだ、気付いてたんだ?」
「……まぁね」
茜は左手の小指に嵌められていた指輪を抜いた。
「質問いいかしら?」
「……なに」
「アナタ、随分と物騒な物を後ろに隠してるのね。アナタが言ってた"話し合い"っていうのは、つまり、そういう事で良いのかしら?」
「…貴方の思ってる事で良いんじゃない?」
少女は後ろに隠していた両手を出した。
その手には、先ほど自分に向けられて飛ばされてきた物と同じ短刀が2振り、握られていた。
「質問に答えてくれてどうもありがとう。これでよーく分かったわ。アナタが━━━」
茜は、指輪を右手で握り潰した。壊れ砕かれた破片が、集まっていき、一つの剣の形を取る。
「━━━敵って事がね!」
「……シッ!」
少女の手に持っていた短刀が2本、茜へと向かって飛んでいく。
この狭い空間で、避ける事は難しい。
ならば。
一歩、足を踏み出した。
それは……一瞬。 刹那の出来事だった。
赤黒い雷が、迸った。
飛んでくる2本の短刀の合間を縫うように駆けて、少女の真横を通り抜けた。
短刀の向かう先に茜の姿は無く、それは、少女の真後ろにいた。
「っ…!」
無防備な少女の首目掛けて、両手に握った剣を振り下ろす!
だが、悲しいかな。
剣を振り下ろして首を切らねばならない茜と、ただ「視る」だけの少女とでは、圧倒的な速度の差があった。
剣が、首まであと数㎝の地点でピタリと止まった。
「ぐっ!?」
少女の蹴りが、止まっていた茜の腹に入る。
めり込むような痛みが思考を鈍くした。
吹き飛ばされたがなんとか体制を整えて、茜は少女に剣を向けた。
その瞬間だった。
思わず手が震えてしまうほどの、寒気がした。
威圧感と殺意が、全身に叩きつけられたような感覚。その感覚は、一樹のあの眼を見たときと同じだった。
少女の桃色の瞳が、爛々と煌めいている。
━━━体が動かない!?恐怖のせいっていうのもあるけど、これは時でも止められてるみたいに……!
茜の両腕が勝手に動いて、自身の首もとに剣が宛てがわれた。
冷たい刀身が肌に触れる。
そのまま横へ、ゆっくりと動いていく。
刃が食い込んでいって、異物が入っていく感覚が気持ち悪い。
「っ━━━━!!」
痛い。
叫びたいほど痛い。だが叫んでしまえば、首が動いてもっと痛くなる。
殺されかけているのに、茜の頭は、あのマンションの事件を思い出していた。
こんな状況であるというのに。いや、こんな状況だからこそ、逆に頭が冴えてしまったのか。
首が裂けてしまった遺体。自殺にしては、不自然な点が多い。だから、他殺だと2人で推理していた。
もしかしたら、あの被害者も今の自分と全く同じ状況に陥ったのではないか?
首に宛てがわれた包丁で、為す術なく切られてしまったのではないか?
目の前にいるあの少女が、犯人なのではないか?
━━━そうだとしたら…死ぬわけにはいかないじゃない!
この事を、彼女達に伝えなければ。
これ以上深く進まないように、両手で握っている柄をなんとか押し留める。
━━━あの子と約束したの…!こんな所で死ぬわけには……!
「無駄な悪足掻きはやめて。素直に自分の死に様を見届けたら?」
必死の抵抗が気に入らないのか、少女の瞳が一段と強く光った。
それに応じて腕が動いて、もっと首に食い込もうとした。
「━━━━!!!」
━━━なんて力…!これ以上押さえられない!
「ほら、もう諦めて?その方が楽だよ?」
━━━もうダメだ…。
「さようなら」
別れの言葉は、死刑宣告のように重く響いた。
━━━誰か……!助けてっ!!
そう願った時だった。
大きな音と、何かが切られた音。
突然茜の右側の壁が、壊れた。
「なっ!?」
少女の視線がその方向に向けられたと同時に、茜に掛かっていた謎の力が跡形もなく消えた。
疲労した両腕はだらりと下がり、剣の重さにつられて、身体は膝から崩れ落ちた。
砂煙が舞う。
茜の目の前に、見馴れた姿があった。
「一樹……?」
月光を受けて、淡く光る銀色のナイフを手に持ったその少年は、目線だけをこちらに遣った。
『大丈夫か』と。
頷き返すと、彼の目が少し柔らかくなった。
だが、それはすぐに鋭いものに変わる。
星空色の瞳が、少女を視た。
自然な足運びで、少女へと急接近する。
少女の瞳が、桃色にギラリと光って一樹を睨んだ。
「一樹!あの子の眼に見られたら……!」
「分かってる」
痛む喉を無視して忠告したが、彼は一言そう言った。
一樹は右手のナイフを投擲した。
投げ飛ばされたナイフは少女には当たらず、その目前を斜めに横切り、後ろの壁に突き刺さった。
一息で少女に近づいた一樹は、ジャケットの左ポケットに入っていたナイフを抜いて、それを何の躊躇いも無く振った。
「チッ!」
大きく後ろに飛び退いて、少女は避けた。
茜は一連の流れに、疑問を浮かべる事しか出来なかった。
何故なら、あの眼に見られたというのに、一樹は何も影響を受ける事なく少女に近づいたからだ。
「私の視線が切れた。どうして」
少女はそう問い掛けて、
「視えた」
一樹は短くそう答えた。
「さっき視えたんだ。俺を睨んでた君の眼から糸が出てた。無数の細糸が、束ねられて一本の糸になってた。月の光に照らされて、揺れてるそれは白い1つの手みたいでさ。あぁ、凄く綺麗に視えたんだ。だから、切れると思った。今まで視えたモノは何でも切れたし、壊せた」
「……貴方の眼、どうなってるの」
「俺自身よく分かってないんだ。視えてるモノのどこかが、必ず歪むんだ。そこがただ、切れやすくて壊しやすい所。視えないモノが視えるようになるって眼だと勝手に解釈してたけど、まさか君の眼の能力まで視えるとは思ってなかった」
少女はもう一度、強く一樹を睨め付けた。
先ほどよりも太く紡がれた"視線"が、一樹に向かって飛んでいく。
だが彼は、左手を振るうだけでそれを無力化した。
少女が一歩、後ろに下がった。
「逃げるのか」
黒い闇が、少女を包んで連れ去っていく。
「貴方は私の天敵。これ以上殺り合ったって不利になるだけ。ここで貴方に殺されるより、逃げた方がマシ」
彼女はそう言い残して、消えていった。
この道に、静寂が戻った。
一樹は小さく息を吐いて、茜の側へと駆け寄った。
「大丈夫か?」
「えぇ、まぁなんとか……。傷も、少し塞がってきたし、まだ死にはしないみたい」
「……良かった。念のために、後でガーナさんに診てもらおう」
「こんな怪我しちゃってさ。またレイナに怒られちゃう」
彼の差し出された腕を掴んで茜は立ち上がった。
けれど、すぐに離してしまう。
もはや掴む力さえ残っていなかったらしい。
「後は任せた…から……」
━━━ヤバい、意識が……
「茜!」
返事を返せなくて。
茜は、静かに眠ってしまった。