表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

4話

 OK、何から聞きたい? 仙桃の生えている場所とか次にどの牌が来るとかってんならここじゃ扱ってない。わたしが話すこともそろそろなくなってきたけどそう、屍拳だね。

 何度も言うけどわたしは頭がいいし言語のセンスがある。九龍で太古のディスクを大体五か国語で解読して、ありとあらゆる国のゾンビを観た。太古の世界では天を衝く摩天楼や空を飛ぶ車、幻術が当たり前でそれを現実の延長線上と理解することには流石のわたしも時間がかかった。でも鳳老師の伝えたかった屍拳の極意は伝わった。目指すものがわかれば進むことは難しくない。屍拳の完成形を知る鳳老師、次々とディスクを解読するわたし、実際に拳を覚える蕃茄。約三か月みっちりと鍛え、ついに恐れるべきことが起きる。


「時は来た。いよいよ国宝の取引が近いと知らせが届いている。鳳老師、感謝いたします。俺の白蛇拳は大きく強化された。……お前はついて来なくていいぞ青菜」


「冗談のセンス悪いね。せっかくの屍拳の完成を見ないままで終わるってこと? 目の前に一流の料理人がいるのに薬膳のにおいをかぐだけで済ませって? 大丈夫、わたしは死にやしない」


「だろうな。行くぞ」


 蕃茄は国宝売買の阻止を諦められなかった。死に装束にも使える真っ白な真新しい中華服に身を包み、馬を乗り継いで夜を越えてわたしは生まれた町に帰ってくることになる。夜はちょうどよかった。屍拳完成の火照りと島田紳助への怒りの熱を冷まし、心が整って決戦に挑むコンディションになる。不思議と疲れは感じなかった。まだ興奮が勝っていたのだ。


「おかしいな。町に人が少ない。CACCの試合でもあるのか?」


 武道会館の前まで来て看板を見上げる。そこに描かれていたのはチッパー・ラディッシュではなかった。チッパー・ラディッシュより細身で鋭い目つきの黒髪の島田紳助が老いた拳法家を踏みつけていた。


「チッパー・ラディッシュじゃない?」


「あいつは送られた。もういない」


 背後の声に振り向くと、そこにいたのは蕃茄の父親を吊るして殴りつけていた、スリーピースの洋服を着た島田紳助かぶれの大柄な拳の民だった。美男子であるはずなのに底知れぬ悪意を感じさせ、ニタニタと薄ら笑いを浮かべている。


「貴様ッ」


「おっと激高するんじゃないぞクズが。父の心配をしたらどうだ? お前がチッパーをぶん殴った後、あの試合を観ていたやつらはみんな親の顔が見たい、と言ったがお前の親父は自分だ、と啖呵を切って、お前の代わりに町民に私刑で殴られていた」


「許さん……許さんぞ! 貴様から始末してやる!」


 今日の白蛇は雄大なる黄河を泳ぐ! しなやかな動きに怒りを内包し、集束させた蛇の眼が敵を射る。


「本気で戦う白蛇拳か。CACCの噛ませよりは少しは楽しめそうだ。俺の拳は“蜂”! “聞蜂拳”をとくと味わえ!」


 聞蜂拳! そういえば何かの文献で読んだことがある! 蜂を模したその拳法は、無量大数の群れによる連撃と毒針による一撃を併せ持つという。指まで使った連撃で敵の体に触れて反射を利用し身体硬直を誘い、柔軟性を奪って受け身を不全にして必殺の一撃を叩き込む。なんてことだ。


「ブシャア!」


 撥塵(パチ)ッ。連打による牽制の指先が軽く触れただけだってのに、蕃茄は銃で撃たれたようにオーバーに上体をのけ反らして仰向けに倒れ、痙攣してから動きを止めた。


「なんだオイ。なんだオイ!」


 蜂の男が地団駄を踏む。それもそうだ。これが幕切れなら蜂の男にとっては至極つまらない戦いだったことだろう。幕切れ、ならね。


「ケッ、ゴミが。おい、来い女! ボスがお待ちだ!」


 否屈(ピク)ッ……。


「あ?」


 蜂の男が死んだはずの蕃茄にもう一度目を向ける。わたしほど頭が良ければ、蕃茄の死体の姿勢が変わっていることにすぐ気付けたはずだ。ピクピクと蕃茄の体が再び痙攣し、再起動する。


「アバー……」


 芒のように体を揺らし、口から異音を発しながら蕃茄の目線が元の高さに戻る。まるで生気を感じさせないうつろな目、弱弱しく禍々しい佇まいが蜂の男を戸惑わせる。でもさすが。蕃茄は死ななかった、蕃茄は蘇った、この二点を素早く処理し、群による連打を諦めて毒針の強打へと構えを切り替える。


「ブッシャア!」


「アペペペ……」


 毒針の一撃は確かに蕃茄の胸を打ち抜いた。衝撃が蕃茄の体を貫通し、背後に並んでいた燭台の蕃茄の真後ろの一つだけ火が消えたほどの正確な狙いと強烈な威力だ。だが先程は打って変わって、蕃茄にリアクションは何もない。一度は収まった蜂の男の動揺は戸惑いを超え混乱の域に突入する。その顔を見て確信したね! 屍拳は、完全かつ正常に、そしてテキメンに発動した!


「どうなってやがる」


「これが屍拳。決して死ぬことはなく、決して蘇ることはない」


「ブシャア!」


 闇雲に放たれた毒針の強打がしなやかな蛇の動きで払われる。蜂の男が目を回した。屍拳……いや、蕃茄の動きが読めないのだ。


「アクァッ!」


 聖なる蛇の静かなる拳が蜂の顎に触れる。戦う体力と気力が白い粉となり、汗と共に打点から散った。

 ここがお節介焼きで説明好きのわたしの出番だ。三か月の特訓の日々を思い出そう。あれは木人で訓練している時だった。


「鳳老師、何故老師はこれほどゾンビの知識がありながら、屍拳を修められなかったのですか?」


「ワシが屍拳しか知らぬからだ。屍拳とは、屍を真似ることにより、攻撃を受けた際に相手の予想とは違う反応を見せ、拳の精度を狂わせることを旨とする。ダメージ感覚というやつじゃのう。敵が君に十のダメージを負わせようとした場合には一のリアクションに、敵が一のダメージを想定した攻撃の場合は十を負ったように見せるのだ。やがて敵は己の拳を信じられなくなり、迷いと不信が力を奪う。故に屍拳に攻撃の型はない。全てが防御と攪乱なのだ。そのため屍拳を修めても屍拳以外の攻撃手段を持たねばならん。君は既に白蛇拳を手にしているから問題あるまい」


 ダメージを受けたふりやダメージを受けなかったふり? なんて蕃茄にピッタリな拳法なんだろう! だって蕃茄はずっとCACCで八百長試合をしてきたんだもん! 観客を煽るために過剰に痛がり、本当に痛い時や辛い時でも試合続行なら無理に戦わされる。もう蕃茄が知っていた技術をゾンビで飾り、技に昇華させたものこそが屍拳だったんだ!

 なんて脆く、そして靭……。

 軽打と強打を使い分ける聞蜂拳は、屍拳の初実戦にはこれ以上にない相手だった。

 時を戻そう。たった数発で屍拳の術中にハマった蜂の男の今の最大の敵は自分自身の聞蜂拳だ。右の拳を左掌に何度も叩きつけて力の具合を確認し、自分の体が正常である根拠を掴むたびに屍拳に惑わされる。

 さぁ刮目せよ! これが世にも珍しい蛇の骸の拳法だ!


「ウォタッ!」


「ベッ!?」


 聞蜂拳の男もそこそこの達人であると見受けられる。でも屍拳によって攻撃力を奪われた聞蜂拳は防御への信頼も失い、白蛇拳の基礎技術の威力が十二分に通った。


「父上の居場所を言え」


「誰が……」


「白蛇拳!  杯中蛇影掌!」


「ベホォ……?」


「もういい! 貴様は一生、己の拳への不信に苛まれ、拳を封じて生きろ」


「クソッ……女の方だけでもッ!」


 蜂の男が蕃茄を諦め、右の拳に気功を集中させて毒針強打の型を作る。一秒、二秒、どんどん蜂の男の必死な表情と頭髪一本一本までよく見える。その後ろで蕃茄は慌てていた。あぁ、心に雲がかかるなぁ。バリバリ唸る雷雲が……。


「おいよせっ! 死んでしまうぞ!」


「馬鹿が! そうしてやるんだよ!」


「違う! やめろ青菜ィ!」


 艾雷金剛拳奥義……


「電后雷公鞭!」


「ベ……」


 ひっさびさでも出来るもんだなぁ!

 言ってなかったっけ? この国は“拳の国”。国民全員がカンフーを使える国。もちろんインテリのわたしも例外じゃない。そして我が家に伝わりし拳は門外不出の秘伝の剛拳“艾雷金剛拳”。でも秘伝なだけあってあんまり外で使っていい拳法じゃない。知られると白蛇拳の地位が落ちるから……。

 蜂の男はビックリしながら地に伏し、目を血走らせてわたしを睨みながらガクガク震えた後、糸が切れるようにカクっと気絶した。


「足手まといになりに来たんじゃないんでね」


「……行こう。この看板を見るに、父上は武道会館の中かもしれない」


「ここは島田紳助が仕切ってる建物だし、国宝もあるかもね」


 それに蜂の男が外で待っていたのも怪しい。でもあいつ、今日、そして今わたしたちが来たからよかったけど、来なかったらずっと外で待ってたの? あいつもパシリなんじゃないかなぁ。

 提灯を手に廊下をまっすぐ歩く。やはり無人だが人の気配を感じ、屍拳を使用した蕃茄のような不気味な唸り声が暗黒の奥から聞こえてくる。進むにつれ怨嗟の念を全身で感じられるようだ。そして闘技場に辿り着くと一斉に明かりが灯る。


「これは……キョンシー!?」


 満員の観客席は全員同じ太極服、手を真っすぐ前に伸ばし、額に札を張られたキョンシーたちで埋め尽くされていた。不揃いの呼吸で風鈴の舌みたいに札を揺らし、個々の唸りが一つの怨念となって闘技場に上がったわたしたちに浴びせられる。


「来ると思っていたぞ蕃茄くん」


 闘技場に一枚の羽根が落ちる。羽根に大きな影がかかり、静謐な闘気の接近と連動して影が小さくなる。

 浮和(フワ)ッ……

 肩にオウムを乗せた初老の拳の民が椅子に座ったまま天井から飛び降りて闘技場に着地する。あまりにも静かで先に落ちていた羽根も微動だにしない。オウムすらはばたかず、彼の着地が成功することを確信していたようだ。禿げ頭、汚れだらけのボロボロのランニングシャツ、べたついた丸メガネに出っ歯だ。


「ワシのことは(グゥオ)と呼べ。カンフーを極め切り、果てまで行ってしまった哀れな親父だ」


「キキキィー! 天下武功! 無堅不破! 唯快不破!  天下武功!! 無堅不破!! 唯快不破!!」


「ファファファ。こらこら」


 オウムをいさめる。哀れな親父であることは間違いないようだ。オウムにそんな言葉を覚えてさりげなく自分を称えさせているんだもん。自然に覚える訳ない。


「貴様に訊きたいことがある。一つ。島田紳助の手下か? 二つ。父上と国宝はどこだ? 三つ。このキョンシーは何者だ?」


「フム、こいつらはキョンシーであってキョンシーではない。全員生きておる」


「何?」


「哀れなものよのぉ。全員、島田紳助に強要されてこの恰好をしているのだ。最早この国は傀儡。生死すら島田紳助に握られ命令通りに動くキョンシー同然という訳だ。国宝というのはこの生キョンシーと玉璽のこと。拳法と生キョンシーを輸出し、この国をカンフーのテーマパークにしようと言う訳だ。流石にこやつら全員に暴れられれば島田紳助も手を焼く。だからお主にも警備に就けと言ったのだ」


 なんて根深い……。島田紳助による弾圧はここまで来てしまったのか。それでも生キョンシーたちは手を突き出すポーズを崩さない。果が国宝中の国宝、玉璽を弄ぶと怨嗟の呻きにすすり泣きが混じってきた。


「ありがたいことだと思わんかね? お主は生キョンシーにされず、島田紳助に使ってもらえるはずだったんだから。ワシは別に島田紳助のことなどどうでもいい。逃げようと思えば逃げられるし倒そうと思えば倒せる。ワシはただお主に興味があっただけのこと」


「知ったことか。玉璽を返せ」


「ワシを倒せれば返してやろう」


 果が立ち上がってグキグキと腱を伸ばし、椅子を蹴り飛ばして屈伸、体の隅々まで血と神経の支配と気功を張り巡らせる。太ももとふくらはぎの筋肉が異常なほど膨張した。背中から陽炎が上がり、果の熱気でメガネが曇る。そして果実みたいに玉璽を口に入れ、喉を上下させる。玉璽をこんな風に扱うなんて、この男にとってはこの国なんて本当にどうでもいいんだ。


「ワシの拳は坤乱派蛤蟇功。“蛙”じゃ。蛇に睨まれた蛙と行くかのう」


 グゴォ、ケロケロケロ……。果の声までもが蛙に変化する。なんて完成度の象形拳……。チッパー・ラディッシュや蜂の男とは段違いのカンフーを感じる。蕃茄にとってもわたしにとっても初めて体験するほどの恐怖、そして興味の対象だ。

 それぞれ白蛇拳、艾雷金剛拳の構えを取る。こんな時だからこそ屍拳を使いたいけど屍拳は敵の攻撃を受けることで発動する。先手を打つなら白蛇拳だ。


「ウォタッ!」


「ケロ!」


 蛇の初撃は、垂直飛びで空に消えた蛙がさっきまでいた場所を穿つ。天高く跳ねた蛙は便所サンダルで蕃茄の顔から宙返り、火の出るような足刀でしなやかさを欠いた蛇を打つ。


「キイエッ!」


 水かきが艾雷金剛拳の剛拳を包み込む。果の肩に停まるオウムはあざ笑うように首をかしげてケタケタ笑った。艾雷金剛拳でさえ!? オウムを飛ばすことすらできないのか?


「ケロッ!」


 果が口から粘液の塊を吐き出してわたしの目を浴びせる。薄汚いオッサンの口のベトベトがこのわたしの顔に……。まだ果の体温を感じる。せっかくの新しい服なのにぃ! オッサンのベトベトを拭っちゃった! あぁーあ気持ち悪い……テンション下がっちゃったよ……。


「青菜! 果と言ったなおのれ貴様、ただ蛇に睨まれた蛙がやりたいだけで島田紳助に加担を!?」


「ああ。どうせなら報酬をもらえるやり方を選んだまでのことよ」


「許せん……アクァッ!」


 白蛇拳が通用しない。拳の流派以前に基礎的な経験値が違いすぎる。


「蕃茄! クールになれ! 頭に血が上っていては屍拳を使えない!」


「ケロ! 躰腿自在脚!」


 何かの文献で読んだ神樹の太さの足から放たれた蹴りは何かの文献で読んだ天災の迫力で蕃茄を何かの文献で読んだ空想絵巻のように吹っ飛ばす。わたしは芸術家気質じゃないからあんまり関係ないけど然るべき人が見れば何かの文献にド派手な絵で残したがるくらいの一撃だった。闘技場の縁の木柵にクレーターを残し、生キョンシーの列の中に叩き込まれた。

 威力が高すぎる。一つ一つが聞蜂拳の毒針強打を越えてしまうと、肝心の蕃茄が屍拳によるダメージ偽装を行えない!


「……蕃茄? 蕃茄ェ!」


 生キョンシーたちが気絶した蕃茄を闘技場まで担いで運び、そっと床に置いた。赤く血で染められた真っ新な中華服の胸元はピクリともしない。


「蕃茄、蕃茄!」


 わたしが駆け寄ると小柄な生キョンシーが立ち塞がった。その後ろでは筋肉質の生キョンシーが蕃茄の胸に手を当てて圧迫を繰り返し、耳を口に近づけて呼吸を確かめてまた措置を行う。しばらくして筋肉質の生キョンシーが首を横に振り、札をむしって涙を見せた。


「うおおお! 具鯉負威拳の俺が相手だ!」


 蕃茄の蘇生を試みた生キョンシーはなじみの角刈りの魚屋だった。


「魚屋!」


「俺たちだって悔しくない訳ないだろう! 蕃茄に全てを押し付けて……。だが蕃茄はもういない。誰も次の犠牲になんかならないぞ!」


 破離(バリ)ッ。観客席から次々と札を破る音がする。蘇った。拳の国の魂が蘇った!


「“拳の国”回生! “拳の国”回生! “拳の国”! 回生!!」


(イー)の構えッ!」


 ()ッ!

 札を剥がした生キョンシー約三百人が魚屋の号令で各々の拳の基本の構えを取る。死んでいたはずの三百の気が闘技場から上昇気流を作り、雲を練り上げる。

 声を上げていないのは蕃茄、わたし、果だけだ。


「イヤー!」


「ゲコォッ!」


 先陣を切った角刈りの魚屋が果の柔らかなカンフーで勢いを下方に逸らされ石舞台に全力で頭から突っ込み、蜘蛛の巣状のヒビを作って動かなくなった。


「キキキィー! 天下武功! 無堅不破! 唯快不破!」


「ファファファ。こらこら」


 果が肩のオウムのくちばしを撫でる。


「イヤーッ!」


 漢方屋の親父も配達員の兄ちゃんも、果の前には赤子同然! 一騎当千の力で黄河に石を投げられたメダカの如く、ありとあらゆる方向に吹っ飛ばされる。


「ゲレッ!?」


 どさくさに紛れて鳥籠屋の拳が果に入る。蛙の象形が一瞬乱れた。一度揺れた水は平に戻る前に逆方向にもう一度揺れねばならない! その隙を逃さず生キョンシー……なんて言うのは失礼だ。回生した拳の国の民の拳士が覆いかぶさり、山となって質量で押し潰しにかかる。ついにオウムが果の肩を離れた。


「ゲクアァーッ!」


 およそ十人の山が鞠となって転がる。放射状に広がった民の中心に、禿げ頭を真っ赤に充血させた果が四つん這いになり、骨格そのものまで蛙に変身させて佇んでいた。このレベルの象形拳は科挙を余裕でパスできるわたしですら文献でも見たことがない!

 その咆哮だけで近くにいた拳の民が耳を塞いで倒れてしまった。わたしももう少し近くにいたら邪悪な囀りで鼓膜から優秀な頭脳まで貫かれていた。敵わない。死屍累々の中で果が人間の姿に戻った。いくらかダメージを負ったみたいだけどもう蛙の拳は必要ないのだ。でもわたしには逆に、坤乱派蛤蟇功を使ったのに有象無象の拳士からダメージを受けた悪印象を払拭するためのリセットに見えたね。


「もう無駄だとわかっただろう。ワシの退屈を啄んでくれるのはオウムだけよのぉ」


 バサバサと羽音をたててオウムが果の頭上に戻ってきた。刹那、無音。


「……? オウム?」


「アパー」


 九龍で繰り返し聞いた呻き声が一瞬だけ阿鼻叫喚に混じった。


「アペペペペペ」


 ぞくっ。

 関節や腱の機能の不全を感じらせるぎこちない動き、夜空を思い出す生気のない青ざめた肌。誰よりも遅い足取りで一人のゾンビが果を目指す。オウムがゾンビ、つまり蕃茄の肩に停まり、死体を啄むハゲタカのように耳に噛みついた。


「やはり生きておったか白蛇拳の小僧。思えばここに来てから一番手応えがあったのはお主じゃったな。ゲコッ!」


 果の站椿だけで拳士たちが果を称える王冠状に飛散し、悪蛙は油の足りないブリキの西洋人形の動きで笑みを浮かべる。


「ゲカッ!」


「ペー」


「クワッ!」


「オボボ」


 坤乱派蛤蟇功の手技がくたばりぞこないの屍の動きに飲み込まれる。屍でありながら、まるでメビウスの輪を描く蛇の無限の奔流。


「イイッ、グワーッ!」


 この蹴りなら煩悩を百八全てを一発で消せるって程の後ろ蹴り上げで血の尻尾を引き、蕃茄が天高く蹴り上げられた。そして蕃茄は、それを追ったオウムを踏み台にもう一度空へと舞い上がった。

 なんという! 靱!


「ゲグラァーッ!」


 蛇と蛙なら空は蛙の領域! 全身全霊の大跳躍で果の視界から空と蕃茄以外が消える。


「何を焦っている」


「ゲ?」


「貴様は舐めていたのだろう、果。この国はもう死んだ、生き返るはずがないと。それ故に貴様は拳を狂わせた。屍の力を舐めるなよ」


「ワシに説教など千年早い! 今度こそ死ねぇい! ゲォワー!」


 ()……


「白蛇だ」


「白蛇……吉兆の証だ」


 空を見上げた拳士が息をのんだ。天に這うは、聖なる神の使い、吉兆の証たる白蛇……。

 果の拳から蕃茄の体へと抜けた気功は雲を削り、残った雲が白蛇の形でとぐろを巻く。巨大な白蛇に睨まれた悪しき蛙は竦みあがり、怯えて逃げるそぶりすら見せない。


「ふっ、こんなヤツが出てくるとは。果報は寝て待てだな」


「ウォーター!」


 白蛇拳奥義、成龍脚。白蛇拳の中でも最も美しくしなやか。白蛇拳伝承者の格を決めるのはこの技とされる。空で急所を射抜かれた果は矢のような速さで闘技場の中心に墜落、少し痛みと敗北感に抗った後、蛙のように腹ばいになって玉璽を吐き出し、意識を失った。


「蕃茄の勝ちだ! 蕃茄! 蕃茄? 降りてきてよ、蕃茄!!」




 〇




 ドンツクドンドンツクドン。

 ご機嫌なリズムで獅子舞が躍り、菜っ葉をくわえてまた踊る。

 島田紳助の支配が強いことは依然変わらない。でもこの町からはCACCの団体が撤退して島田紳助が少し減り、息苦しさも少しはマシになった。

 何より空気が変わった。あの日、武道会館で蕃茄の雄姿を見たのは生キョンシーにされていただけでも三百人もいたし、空に現れた吉兆の白蛇を見た人はもっとたくさんいた。

 結局、蕃茄はどうなったのかって? あの後ちゃんと降りてきたよ。ただし果の攻撃と落下の衝撃で全身の骨が折れて、しばらく包帯グルグル巻きで埃及の木乃伊みたいになったけどね。しばらくカンフーは使えなかったし、後遺症が残ってもうCACCの試合どころか、屍拳すら使えなくなった。


「っていう話」


「へぇ、そう。それ作り話だろ?」


 麻雀屋にいた馬鹿共は何も見てなかったけどね!


「そんなはずない。科挙の試験だって三歳で通れるわたしの頭脳は一度見たものは決して忘れないのさぁ」


 向かいの男の点棒がすっぽ抜けてわたしの優秀な頭脳を包むおでこにぶつかった。椅子ごとひっくり返り、みんなが心配してわたしの顔を覗き込む。目を剥き、舌を出し、軋むような声で唸るわたしを。


「青菜? 青菜! まずい、秘孔に当たったかもしれん」


「ヘヘッ、騙されてやんの」


「んだよ。やめろそういうの、趣味悪いから」


 一度見たものは決して忘れない、自分の拳法を既に持っている。以上の二点に加えて、ある意味で蕃茄以上にゾンビを観てきたわたし。

 屍拳はまだ死んでいない。

 と、ここで笑顔のわたしの静止画で終了。この話はわたしが体験した本当に出来事だから、突然矢文が飛んできたり蕃茄が「マディソンスクエアガーデン」を何度も噛むようなNGシーンはないよ。



 終劇

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ